2015年1月25日日曜日

1/25 礼拝献花とメッセージ


 本日の教会の献花です。枝ぶりの良いものに、黄色と白の花が
 赤い教会の絨毯によく映えています。

 本日も礼拝が行われ、礼拝後には中華スープとワカメおにぎりの
 愛さんを頂きました。

 礼拝は来週も行われます。
 2/1(日) 10:45~
 どなたもお越しいただけます。

 本日の礼拝説教です。

 

説教要旨】 マルコによる福音書1章21-28節 
「安息日」とは、主の時代も休息日でした。今日の聖書の言葉を文字通り頂けば、「けがれた霊」の癒しの話です。古代の人は原因不明の病状を「霊」に帰結させました。実際の所は、病の故の言動不良か。彼の言動には自身を複数形「我々」と呼ぶなど、不確かな心象が見受けられます。しかし彼は会堂に居ます。自身の不確かさを思い癒しを願う、彼の心根でしょうか。

彼は「関わらないで」と主に言います。即ち主の教えに「関わる」要素があるということです。主の「声かけ」には、二つの要素があります。まず、神から人、主から彼、上から下に繋がる関係性です。また病者は「ナザレのイエス」と叫びます。主と彼とは面識があったのです。主にとっては、かつて知った者の病なのです。同胞の病、すなわち横の関係性が確立したのです。

そして癒し。主は「悪霊放逐」の言葉を語ります。そもそも当時の時代では、病者それも不明晰な人に近づくことはタブーでした。主はしかし、当時のタブーを破り近づき、語りかけます。そして当時の病の癒し方を用いる。即ち「関わられる」喜びがここに誕生したのです。主は見捨てられた人と向き合い、失われていた関係性を再構築したのです。それが主の「権威」です。

聖書はこの話が「安息日」に起きたと書きます。日にちとしての安息日は、誰にでも来ますね。彼にも来ました。だが彼は「真の安息」を為し得ませんでした。安息日に安息出来ないという不思議な状況を、主は見捨てられません。主は真の安息を与えます。私たちの話です。安息し得ない現実に生きる私たちや同胞の姿を思います。主はその方々に先立ち私たちを安息へと招待しました。この安息に生きる喜びを再認識したい。そして、近しい人へと知らせたい。

2015年1月18日日曜日

1/18 教会の献花と礼拝メッセージ





 本日も礼拝が行われました。
 冬の寒さ、厳しい折ですが、献花は春を匂わせる彩りのものです。

 冬来たりなば、春遠からじ、と思えます。

 礼拝後には、讃美歌 アメージング・グレイスの合唱、
 豚汁とワカメおにぎりの愛さんを頂きました。

 来週も礼拝は、 1/25(日)10:45から行われます。
 どなたもご自由にお越しください。

 本日のメッセージ要旨です。

 


説教要旨】 マルコによる福音書1章12-20節 
「全ては頂きもの」とは今年の主題聖句です。今日の聖書にもその使信が記載されています。冒頭に登場する「ガリラヤ」とは地域名です。今日の聖書で主はガリラヤに登場し、その漁師たちを弟子とするのです。実は、主が復活の朝、墓にいる青年は「ガリラヤに行け」と墓参りのご婦人がたに語るのです。ガリラヤは、この弟子たちが再び主と出会う場にもなるのです。

まず、主が漁師たちを弟子にしたという所です。これは、この世の順序とは逆でしょう。私たちが、選ぶ側なのです。だが主は違う。主が選ぶ側なのです。漁師たちは選ばれたのです。「人の漁師」の意味するところはこうです。主は当時の世相を皮肉るのです。海や湖は暗闇の世界。人々はその中でもがく。もがく人々を助ける者に為すと、主は漁師たちに言うのです。

実は当の漁師たちも暗闇の中でもがく者でした。主の時代のユダヤはローマの植民地でした。「ブラック企業」まさにその状況が当時の漁師たちでした。その漁師たちの実情は、他でもないガリラヤで育った主がご存じ。主はまず彼らを「捕え」ます。それが「時満ち、神の国接近」の意味です。苦しい労役の時は満ち、主が彼らに近づくのです。それ故に弟子となったのです。

私たちの話です。教会聖書,主との出会いはそれぞれの時に与えられました。私たちが教会、キリスト教を選んだと思えるときもあるかもしれません。しかし、それは実は間違いです。それぞれに必要な時に、教会や聖書、主との出会いの門が開かれていたということなのです。「時は満ちた」「私があなた方を選んだ」その意味で主から多くの恵みを頂く私たちです。私たちは、ガリラヤなる教会に帰ってきました。お帰りなさい。休んで下さい。そして旅立ちましょう。

2015年1月11日日曜日

1/11 教会献花とメッセージ





 移動祝日となった成人の日、各地で新成人のお祝いの日が行われているのでしょう。教会でも一名が新成人を迎えました。

 本日も礼拝が行われ、礼拝後には大勢が集う愛餐のときとなりました。
 ワカメおにぎりと、豚汁の愛餐でした。
 また礼拝後には、クリスマス関連の片付けもありました。
 
来週も礼拝は、1/18(日)10:45~行われます。
どなたもご自由にお越しいただけます。
本日の説教要旨です。




説教要旨】 マルコによる福音書1章9-11節 
ナザレとは、イエスさまご一家の生活の場でした。当時の世襲職業観に則り、イエスさまも青年期、大工見習をしたと考えられます。「丸太とおが屑」の話をする姿が青年期をほうふつとさせます。讃美歌「生くる悩み、つぶさになめし」の通りだったのでしょう。当時は悩みを受ける人が不在でした。仕事から人々の実情を知り、一念発起ナザレを出る主の姿が冒頭です。

イエスさまは無目的ではない。旅の目的は従兄弟ヨハネでした。当時は既に活動中でした。ヨハネの父は祭司、慣例ではヨハネも父の仕事を嗣ぐはずでした。だが息子は父と違う形で神へ奉仕します。市井に下り、「洗礼」で人々を罪の重荷から解放したのです。そのヨハネの姿勢に主は感ずる所大か。当時の宗教の軛に縛られる人々との連帯を果たすため受洗されるのです。

主も罪人と同じ所に立つ、ということです。主の洗礼の際、天裂け、霊下り、声ありと表現されます。天候が主を祝したという実際の自然への賛歌もあるでしょう。それ以上に、旧約のノアの洪水終局をなぞる記述と言えます。ここで神は天の切れ目から、主に愛の祝福をし語るのです。神に愛された主が、この世に愛を伝えられます。いよいよ主の働きの始まりなのです。

イエスさまとヨハネの働きは、この時の天候に似ています。ユダヤの世相は「暗雲」。ヨハネが洗礼で暗雲に風穴を開け、主が世を照らす光となるのです。私たちへの話です。年明けに際し、希望や喜びが続くことを願います。そう成り得ない一筋の不安もあるかもしれません。暗雲はでも、切れます。徳山Cでは、礼拝堂入口に洗礼盤を置くようにしました。身近に洗礼を感じて欲しいためです。洗礼と言う、皆さんを照らす光が、この一年も導く確信に感謝です。

2015年1月4日日曜日

1/4 礼拝献花と説教要旨





 新年の献花です。
・・・実は私たちの家の当番でしたが、正月のゆえに失念していました。

しかし、昨年末の献花がまさにお正月に相応しいものでしたので、
再登場して頂きました。

本日は、普段遠方にいる会員子弟が大勢集いました。

本日の礼拝説教です。
来週も礼拝は、1/11(日)10:45~行われます。




説教要旨】 マタイによる福音書21-12節 
「私たちは主から受けた、それを奉げたにすぎない」とは主題聖句です。聖書は三賢者の贈り物です。捧げる賢者たち、しかしそれ以上に多くを与えられたのが彼らです。学者たちは東方よりの博士でした。旅する彼らの指標としたのは旧約のミカ5章「ベツレヘムからイスラエルの統治者が現れる。真に小さなベツレヘム」でした。取るに足らないベツレヘムの王、がミカ書の語る王の姿です。

しかし人間の浅はかさが現れます。ミカ書では「真に小さなベツレヘム」とあるのに、お傍の律法学者たちはそう進言しない。ヘロデに旅の目的を進言する場面で、彼らは預言者の言葉として「決して一番小さい者ではない」と断言。受け手のヘロデは猜疑心の固まりでした。密かに心中に恐れを抱き、その結果博士たちの無帰還後、ベツレヘム近辺の幼子を殺すという暴挙に走るのです。

これは律法学者たちの過ちですが、博士たちも間違えます。博士たちはこの地域には不慣れでした。その博士たちが星の導きを見失うのです。導きはベツレヘム、しかし彼らの向かったのはエルサレム。両者の距離の差はおよそ20キロです。彼らは、ヘロデ王ならば新たな王の場を知ると考えました。それもヘロデ王の猜疑心を逆撫でし、ヘロデは世襲の地位固めに走ってしまうのです。

このような間違いをする博士たちです。だが導きの光は彼らを主に会わせます。贈り物進呈後、更に導きは博士たちをヘロデの暴虐から救うのです。「賢者」であるにも関わらず誤ります。しかし主は導くのです。その愛きょうも併せ、この博士たちへの教会の聖伝が生まれたのでしょう。大切なことは、博士たちのように,道を、み言葉を見失う。それが人生です。それでも勇気をもって歩みたい。多くを頂いている私たちなのです。絶えずみ言葉に養われましょう。