2015年1月11日日曜日

1/11 教会献花とメッセージ





 移動祝日となった成人の日、各地で新成人のお祝いの日が行われているのでしょう。教会でも一名が新成人を迎えました。

 本日も礼拝が行われ、礼拝後には大勢が集う愛餐のときとなりました。
 ワカメおにぎりと、豚汁の愛餐でした。
 また礼拝後には、クリスマス関連の片付けもありました。
 
来週も礼拝は、1/18(日)10:45~行われます。
どなたもご自由にお越しいただけます。
本日の説教要旨です。




説教要旨】 マルコによる福音書1章9-11節 
ナザレとは、イエスさまご一家の生活の場でした。当時の世襲職業観に則り、イエスさまも青年期、大工見習をしたと考えられます。「丸太とおが屑」の話をする姿が青年期をほうふつとさせます。讃美歌「生くる悩み、つぶさになめし」の通りだったのでしょう。当時は悩みを受ける人が不在でした。仕事から人々の実情を知り、一念発起ナザレを出る主の姿が冒頭です。

イエスさまは無目的ではない。旅の目的は従兄弟ヨハネでした。当時は既に活動中でした。ヨハネの父は祭司、慣例ではヨハネも父の仕事を嗣ぐはずでした。だが息子は父と違う形で神へ奉仕します。市井に下り、「洗礼」で人々を罪の重荷から解放したのです。そのヨハネの姿勢に主は感ずる所大か。当時の宗教の軛に縛られる人々との連帯を果たすため受洗されるのです。

主も罪人と同じ所に立つ、ということです。主の洗礼の際、天裂け、霊下り、声ありと表現されます。天候が主を祝したという実際の自然への賛歌もあるでしょう。それ以上に、旧約のノアの洪水終局をなぞる記述と言えます。ここで神は天の切れ目から、主に愛の祝福をし語るのです。神に愛された主が、この世に愛を伝えられます。いよいよ主の働きの始まりなのです。

イエスさまとヨハネの働きは、この時の天候に似ています。ユダヤの世相は「暗雲」。ヨハネが洗礼で暗雲に風穴を開け、主が世を照らす光となるのです。私たちへの話です。年明けに際し、希望や喜びが続くことを願います。そう成り得ない一筋の不安もあるかもしれません。暗雲はでも、切れます。徳山Cでは、礼拝堂入口に洗礼盤を置くようにしました。身近に洗礼を感じて欲しいためです。洗礼と言う、皆さんを照らす光が、この一年も導く確信に感謝です。