2015年5月31日日曜日

5/31 礼拝献花とメッセージ、教会近況

 本日も、シオン教会では礼拝が行われました。
徳山チャペルの礼拝献花は、ゆりと赤い可愛い花でした。


 徳山では、礼拝後、玄関前の花壇の植え替えが行われました。

夏の間、教会を彩る花と成って欲しいものです。
礼拝後には愛さんをもって一週間の始まりといたしました。

柳井、防府ともに、お茶による交わりがありました。

来週も礼拝は、それぞれのチャペルで行われます。
 いずれの礼拝にも、どなたでもご自由にお集まりいただけます。

 6/7(日) 徳山10:45~
       柳井10:30~
       防府15:30~
 6/4(木)には、
     益田14:00~ 
     六日市19:30~ です。

本日の説教要旨は、以下の通りです。



【ヨハネによる福音書31-12節】
ヨハネ福音書は、主の弟子ヨハネの晩年の執筆と考えられていました。もはや自身では筆を取れなくなっていた時期です。そこで弟子に口述筆記させたのです。そして福音書が完成しました。確かに「出来なくなる」ことはあった。しかし出来ない中でも、弟子を用い、弟子も用いられ、神の栄光の福音書が完成したのです。本日の聖書にも「年を取った」者が登場します。主は、その彼にも恵みと勇気を与えるのです。

主は、「神の国に入るためには人の新生が必要」と言われます。ニコデモという人が登場しますが、彼はこれまで「努力不断の人」でした。だが努力が叶わないことがあります。「年齢を重ねる」ことでした。「年を取った者が神の国に入れようか」とは彼の言葉です。出来ないことが増える自身を時に悔しく、歯がゆく見つめていたのです。

母の胎に帰っての新生を、ニコデモは主に問います。あり得ない事を問うのです。主への皮肉かもしれません。ただ、彼なりの真摯な結論とも取れます。自力のみで現在の地位を築いた男の誇り。努力したけれど叶わない、ということを自身にも主にも納得させたかった。主は自力以外の方法を語る。「自力本願」でなく「他力本願」です。ニコデモは「生まれる」方法を考えた。主は「生まれさせて頂く」方法を語るのです。

新たに生まれるとは自力では出来ません。ただ神の働きによります。「風は思いのままに吹く」とありました。主は私たちの人生にどう関わるかは分かりませんが、でもその風は私たちを支える風です。だから日々、生まれさせて頂くチャンスがあるということなのです。主がここで、年齢を重ねたニコデモに語る、ということにも眼を向けたい。年齢を重ねる中で、立場の中で神の栄光を現わす手段は、必ず祝福されます。
 

2015年5月24日日曜日

5/24 礼拝と献花

 先週月曜日から、徳山C裏手の雑木林の剪定が始まりました。
秋月小学校のヤブはかなり深く、礼拝堂はそのため、
昼間でも静ひつでしたが、今日から朝日も見られるようになりました。
写真は、あえて電気を落として撮影しましたが、
そとの明るさが礼拝堂に届いています。


本日の、徳山C献花でした。
可憐な野の花と、6月の花であるアジサイの共演です。

本日は徳山はご多用の方が多く居られましたが、
それでも聖霊降臨祭の礼拝を聖餐式を伴って行いました。
礼拝後には愛さんをもって一週間の始まりといたしました。

柳井、防府ともに、お茶による交わりがありました。

来週も礼拝は、それぞれのチャペルで行われます。
 いずれの礼拝にも、どなたでもご自由にお集まりいただけます。

 5/31(日) 徳山10:45~
     柳井10:30~
     防府15:30~
 5/28(木)には、
     益田14:00~ 小浜にて行います。
     六日市19:30~ です。


本日の説教要旨は、以下の通りです。



【ヨハネによる福音書1526-164節】
「つまづき」という言葉がありました。聖書では「スカンダロス」と言いまして、「スキャンダル」の語源です。聖書から「つまづき」の意味を考えれば、信仰的な意味合いに感じます。だが「つまづき」とは普段の生活全般にもあります。聖書で主は「つまづかせないため」にこれらを語るのですが、弟子たちはこの後「つまづいて」しまうのです。

弟子たちの「つまづき」の理由は、主を取り巻く環境の変化のためでした。弟子たちも私たちも、周囲の環境というものに流される弱い存在です。日曜日ごとの、主からの恵みの言葉にうなずく一方、信仰的なつまづきや、生活の面でのつまづきの多さに思わず打ちひしがれます。「つまづく」のは、弟子たちにとっても心苦しい事でした。

主はその弟子たちのつまづきを見越して、「弁護者」を送ると約するのです。弁護者とは、聖霊のことを表します。この「聖霊」とは、人を通して働きをなすものです。第二朗読で、聖霊を受けた弟子たちは、神の言葉を他国語で語ります。聖霊は見えませんが、人を、特に私たちの近しい人を通し現れる。しかも「証しをする」「証し」とは命を賭すの意味です。つまづき、倒れ、不安な時に、私たちに命(活力)を与える。

聖霊の助けというと惑いますが、「必ずや助けがある」というと惑いません。弟子たちは確かに「つまづいた」が、つまづき続けではありませんでした。一度も、いや何度も躓いても、その度に助けがあったのですし、弟子たちがつまづかせた人々も、その都度助けがあるのです。私たちも「つまづく」経験がありますが、それは永遠のつまづきではない。折に叶う助けの中で今日を迎えたはずです。ですから、たとえつまづく中でも、助ける主を今日覚えたいものです。あなたを助けるものは、必ずある。

2015年5月17日日曜日

5/17 礼拝献花とメッセージ





本日も、礼拝や礼拝後の愛さんが、それぞれのチャペルで為されました。

本日の礼拝で為された献花は、赤とピンクの可愛らしい花々です。
いつも思いますが、礼拝堂の赤じゅうたんは、どの花をも映えさせますね。

徳山では礼拝後、愛さんがおこなわれました。
柳井、防府ともに、お茶による交わりがありました。

来週も礼拝は、それぞれのチャペルで行われます。
 いずれの礼拝にも、どなたでもご自由にお集まりいただけます。

 5/24(日) 徳山10:45~
     柳井10:30~
     防府15:30~
 5/21(木)には、
     益田14:00~
     六日市19:30~ です。


本日の説教要旨は、以下の通りです。




【ルカによる福音書2444-53節】
聖書は、事実を問う以上に、真実を問うことを大切にしたい書物です。例えば、今日の聖書はルカ福音書です。主の十字架刑後の、弟子たちの居場所をずっと「エルサレム」としています。他の福音書では、故郷ガリラヤに帰ります。弟子たちの行動はどちらか。正確性、整合性という意味ではおかしいのですが、事実ではなく、そこにこそ真実性を問いたいのです。弟子たちは、エルサレムに留まる必要があったのです。

 エルサレム、この都の名の意は「神の居場所」です。しかしこの都は弟子たちに複雑な感情を抱かせます。まずこの都は主と弟子たちを歓待しましたが、舌の根も乾かない内に主を捕縛、殺害しました。弟子たち自身も後悔があります。主と共に入城しつつ背いたのです。弟子たちは、日本的には主からの恩を仇で返したということです。

主はその弟子たちの「心の目を開く」そして「その都に留まれ」の言葉です。自身の罪を知らされる弟子たちです。しかし、です。主はその弟子たちを祝するのです。祝福とは「良い言葉」という意味です。これがエルサレムで為されたことに意味があります。都も、都での弟子たちも主に背く。だが主はその都で弟子たちを祝福します。

神殿とは主を殺害した人々の総本山ですが、弟子たちはそこに留まります。「主は背いた都で我らを祝する、我らもこの都に留まる」との決意が為されたのです。その決意はやがて弱くなり、再度宿屋の二階に隠れることもありますが、主はその弟子たちにも聖霊を下すのです。今週も、私たちは神さまからの祝福を受けて一週間の旅路を行う群れです。今日の祝福は、かならず私たちに多くの喜びや導きをもたらすものとなります。主が私たちを祝する「事実」と、その中にある「真実」を胸に、生きたい。 
 

2015年5月10日日曜日

5/10 子ども祝福礼拝と礼拝メッセージ、教会近況


 本日も徳山では、大勢の方々と共に礼拝が行われました。
 先立つ5/5、教会では結婚式が行われました。

 本日の献花は、その時結婚式を挙げられた方々を覚えてのものです。
 

 また今日、徳山と柳井では、子ども祝福礼拝が行われました。
 礼拝後には、徳山では愛さんを行いました。

 来週も礼拝は、それぞれのチャペルで行われます。
 いずれの礼拝にも、どなたでもご自由にお集まりいただけます。

 5/17 徳山10:45~
     柳井10:30~
     防府15:30~
 5/14(木)には、
     益田14:00~
     六日市19:30~ です。


 本日の説教要旨は、以下の通りです。



【ヨハネによる福音書1511-17節】
「葡萄の木」の話で、イエスさまは神さまを「農夫」に例えます。「農夫」は語源を辿れば「物作り」の人々を意味するのです。ですから、イエスさまは神さまが創造者であることを、改めて教えられます。聖書の「これらの事」は葡萄の木全体の話です。神さまが、葡萄の木全体を、つまり、他でもないこの私を「再創造」なさるのです。

葡萄の木の話には、「繋がりの恵み」を感じますが一方で「焼かれる、枯れる」「繋がっていない人」という言葉にも目が留まります。この時弟子たちは、動揺していました。その弟子たちに「焼かれる、枯れる」「未結合」は煽りともなりますが、イエスさまの言葉は10節で終わらず、むしろ今日の聖書も含めた上で理解したいのです。イエスさまは「友に命を捨てる愛」「自らが友」と語ります。主は全ての人の友なのです。

イエスさまの思いは、弟子たち全てに届きます。ユダはやがて主のもとに主を裏切るために戻りますが、ところが裏切りの代価銀貨30枚を手にして、イエスさまとの繋がりを思い出します。ペトロも主との関わりを否定しますが、やがて涙を流し、み言葉の宣教者となります。いずれも「主との繋がり」の出来事を思い出したからです。「私があなた方を選んだ」そのみ言葉は、弟子たちにも、私たちの誰もの前にもあります。

「実を結び、実を残す」とはこの話で繰り返し言われることです。私にどんな実が結ばれるでしょうか。聖書の金言を借りれば「信仰、希望、愛」の実。「喜び、感謝、祈り」の実。これらは実は私たちがすでに結んでいる実です。これまでを振り返って下さい。きっと、それらの実を見出すことが出来る筈です。さあ、これからです。「物作り」の神さまは、私たちの人生の端々に、そのような実を結ばせて下さいます。

2015年5月3日日曜日

5/3 礼拝献花と説教メッセージ





 
 本日の礼拝献花、ピンクのバラでした。
 赤いカーネーションの日は来週です。
 母の日に先立ち、かわいらしい花が捧げられました。


 連休の中日で、お休みの方も多かった本日の礼拝ですが、
 予想を越えて大勢の方々で賑わう一日です。

 来週も礼拝は、それぞれのチャペルで行われます。
いずれの礼拝にも、どなたでもご自由にお集まりいただけます。

 5/10徳山10:45~
   柳井10:30~
   防府15:30~
 5/7(木)には、
 益田14:00~
 六日市19:30~ です。

本日の説教要旨は、以下の通りとなっています。





桜が咲くと春を知り、葉桜になると初夏を思う私たちです。桜は、日本を代表する植物となっています。イエスさまの時代、ユダヤを代表する植物はブドウでした。聖書で、イエスさまはご自身をブドウの木に、神を農夫に、人々を枝葉や果実に例えます。イエスさまの意図は、ご自身の働きの立ち位置の表明。即ちご自身は大地に根を張る。この世から様々なものを「吸い上げ」、「枝葉」や「果実」に行かせるということです。

イエスさまが木なら弟子たちは枝葉。枝葉と言っても色々ですが、この時の弟子たちは柳の木のようなものでしょう。風に流されてしまうのです。この時ユダは逃亡しています。またペトロは勇敢な物言いをしますが、ペトロの心胆も主は見透かしています。弟子たちは現在「繋がって」いますが、主は弟子たちに「留まり続けよ」と語ります。実際、平静な時には、愛を聴いて頷きますが、聞いた事は忘れるのが弟子たちです。

「繋がり」を語るイエスさまのお心持ちはどんなだったでしょうか。当然のことを言わざるを得ない悲しみもお有りだったでしょう。ただ、この時お語りになった「繋がり」は弟子たちのこれからを支える言葉、と理解できます。神さまの愛は、平静な時には留まりますが、困難な時には忘れる。それで良いのです。困難から落ち着くと、神さまに繋がれていた自身を再発見するのです。いわゆる「導かれていた」のです。

だから、この葡萄の木の話を通して、私たちは「繋がれている」の言葉を希望としたいのです。危機の時は来るものです。しかし平静に戻る折、繋がれていた自身を見出し得るでしょう。私たち個々の心にイエスさまは根を張って下さいます。今の困難が実を結ぶことを希望したい。希望を持つことが「愛に留まる」ことです。私たち、困難な折もこの繋がりを信じて生きたい。やがて実る、それぞれの実を待ちましょう。