2015年7月29日水曜日

7/26の礼拝献花と次週のご案内

本日、徳山の礼拝献花は、可愛らしい紅い実のお花でした。
会員の方が、お母さまを覚えてお捧げ下さったお花です。

本日、徳山は礼拝が守られた後、そうめんの愛さんでした。
防府、柳井ともに、お茶による交わりが保たれました。

益田、六日市の礼拝は、今週も行われます。

 8/3(日) 益田 11:00~ どなたでもご自由にお越しください。

 
 8/3(日)の、徳山、防府、柳井
 8/6(木)の、益田、六日市の礼拝は、
今週はすべて8/3(日)に集約して行いますので、益田以外の場所では、
今週に限って行われません。お覚えください。


本日の説教要旨は、以下の通りです。



【マルコによる福音書521-43節】
愛する者の召天は筆舌に尽くし難いものがあります。日本のキリスト者内村鑑三や、ルーテル教会のルターも、いわゆる「逆縁」を知るのです。今日の聖書から、会堂長ヤイロと12歳の娘の出来事に絞って福音を聞きたいのです。さて、当時の12歳は若年齢でなく、大人と看做される頃でした。人によっては婚約もしていました。実際、主の母マリアは14歳で主を出産しています。父ヤイロにとっては、手塩にかけて育てた愛娘です。だがその娘が病んでしまっている聖書の冒頭部分です。

マルコ福音書前半部分から、イエスさまはユダヤ教社会の中で当時の慣習の枠を超えて働かれます。既存の宗教者からは白眼視されていました。通常ならば、「会堂長」の立場からは主に頼み難いです。ところが事は自身の娘の話です。最後の頼りとして主に願ったのです。その過程で12年間の長血に苦しむ女性が登場します。第三者として読めば、双方ともに癒しが必要です。一方でヤイロには、愛娘の癒しが第一です。ヤイロには立ち寄り癒す主の行動は焦りの対象でした。

長血の女性を癒やすと共に最悪の知らせです。「御嬢さんはなくなりました」と。会堂長の動きは、娘生前は動作が切実でした。立場を離れて主のみ前に拝謁し多弁です。ところが死去の知らせに沈黙します。当然のことです。しかし、死の知らせを真に受けないイエスさまです。「傍で聞いた」とありますが「眠っている」と言われます。死を「眠り」と考えておられます。

主は蘇生奇跡を為します。「死は眠り」を分かり易く伝えるためのことです。もちろん、主の要点は「蘇生」ではなく「死は眠り」というものでした。その言葉は私たちや近しい者にも同様に示されます。この少女は先だってこの言葉に接するのです。「千の風になって」の歌があります。「眠らず、風になる」と歌うあの歌ですが、やはりその前にひと時の眠りはあるものでしょう。今日私たちは、改めて主の言葉に確信を得たいのです。共に眼覚める日を覚えつつ。
 




2015年7月19日日曜日

7/19 礼拝献花と礼拝後の様子、メッセージ

本日の礼拝献花です。先週と同じ花のように見えますが、
 それは気のせいでしょう。

 アングルを変えて、ステンドグラスを背景にしてみました。



 礼拝後、牧師室の窓からこっそり撮りです。
 子どもたちがなにやら遊んでいます。
 何でも楽しかった夏休みが懐かしい今日この頃です。

 本日も礼拝は、山陽三教会で守られました。
 徳山では冷やし肉うどん。柳井、防府でもお茶とお菓子による
 礼拝後の交わりが行われたと思います。

 益田、六日市の礼拝は、今週も行われます。

 7/26(日) 徳山10:45~
       柳井10:30~
       防府15:30~
 7/23(木)には、
       益田14:00~ 
       六日市19:30~ です。 どなたでもご自由にお越しください。

本日の説教要旨は、以下の通りです。



今日の聖書は、嵐の海に遭遇する主の話です。弟子たちの中には漁師を出自とするものがいました。この湖には、朝と夕方には山おろしの突風が吹くのです。船は夕方に出ますが、これは操船には相応しくない時間帯でした。しかしこの船出は弟子たちの決断でなく、主の決定することでした。主は、この湖の朝夕の天候急変を知らなかったのでしょうか。

主は誕生こそユダヤの南地域のベツレヘムでしたが、成長は北地域ガリラヤ湖畔の町ナザレでした。大工見習いで世情に通じていたのです。弟子たちは、南地域出身の「イスカリオテのユダ」のみが知らなかったのでしょう。未知の弟子には、嵐は困惑そのものです。人生に例えれば突然の困惑や不幸です。周知の弟子たちにとっては嵐は一つの事象ですが、動揺する同輩の不安な心持ちに影響されます。人生には、影響を受けることもあります。

嵐で慌てる弟子たちですが、ここで弟子たちは最善を為したのです。それは主を起こし、主と共にこの惨禍を乗り切ったことです。それこそがこの聖書の使信です。私たちは誰もが人間的な災禍に遭遇するものです。なぜ私に、どうして私がという問いを問わざるをえません。その中で、「されど主により頼む」の心が今日の皆さんを作っているのです。ですから、今日の聖書は、私たちに先だって範を示した弟子たちの姿を改めて刻みたいのです。

弟子たちは主を起そうとします。そして主は起きます。船は教会を現わします。嵐の最中にある時、私たちは沈みそうになる自身や他者を思いますが、「嵐」などでは沈みません。それを忘れがちな私たちのため主は起きて、私たちと共にその嵐を乗り切って下さいます。今日私たちは、何ものをも私たちを沈めない確信を得たいのです。そして、困惑の最中、私のために起き賜う主を想起したいのです。今週も主と共に船をこぎ出す群れでありたい。
 

2015年7月12日日曜日

7/12 礼拝献花とメッセージ

本日の献花です。
最近、花を手前に十字架を後方に、のアングルが気に入っています。

花だけではなく、十字架と共にある花が、教会としての献花なのでしょう。
何か分かったような分かっていないような、私のコメントです。

本日も、徳山、柳井、防府ではそれぞれの地で主日礼拝が行われています。
台風の余波が、山陽諸教会には訪れています。

今週、来週ともに、礼拝は以下の日程で行われます。
どなたでもどうぞご自由にお集まり下さい。


 7/19(日) 徳山10:45~
       柳井10:30~
       防府15:30~
 7/16(木)には、
     益田14:00~ 
     六日市19:30~ です。

本日の説教要旨は、以下の通りです。



マルコ福音書の主の第一声は「神の国は近づいた」というものです。「国」とは「支配」です。つまり、神さまはあなたを導き、支える、ということです。しかし私たちは、時にこの世の現実や出来事に立ちすくまされます。そのために今日の話があります。この日主は、植物を用い神の国の力強さを語られます。ご一緒に聴きたいのです。

まず「種の成長」の話です。「土は独りでに」実を結ぶとあります。「独りでに」は無いと考えるでしょう。主の時代はほぼ放置農法だったようですが、「肥料」という言葉も別の主の言葉の中に出てきます。「成長させて下さる方」への信頼を、この箇所は私たちに呼びかけているのです。「置かれた場所で成長させて下さる」神さまです。

そして「からし種の成長」の話です。主は、人を通して神の国を広め、私たちの先輩を弟子とされました。私たちも、主の伝道の系譜に繋がるのです。主からの伝道の系譜の一員(一葉)として、私たちはかつて芽を出し若葉でありました。諸先輩方の信仰に励まされもしたでしょう。そして今皆さんは大木となっています。そして気付かぬ内に、誰かを陰で休ませているのです。どのような立場でも、それは確かです。

当時の種播きや育成は、私たちから見ればいい加減なものだったようです。それでも種は芽を出したという、その背景で主は話されます。私たちは、伝道の心を持つ、教会成長にとって一つの大切な在り方です。そして実は、日々の私たちの生活も種播き、すなわち伝道なのです。主に導かれている者として、私たちは生きています。その生き方が、身近な人に語りかけることは大きいでしょう。主の働きかけは、目では見えないものです。しかし育つのです。教会で休み、旅立ち、新たな日々を生きたい。
 

2015年7月5日日曜日

7/5 礼拝献花とメッセージ


 本日の献花は、ひまわりでした。
 7月に入ると、ひまわりの季節だと思いますね。

 ひまわりは「向日葵」。「向日性」の植物であるにもかかわらず、
 主の十字架に背を向けています。 人間と同じ、なのかもしれません。


 今週も、シオン教会各礼拝所では、礼拝が行われています。
 徳山では礼拝後、敷地内の草刈が行われました。
 防府では先週の礼拝前に、敷地内草刈が行われたと言うことです。

 今週、来週ともに、礼拝は以下の日程で行われます。
 どなたでもどうぞご自由にお集まり下さい。

 7/12(日) 徳山10:45~
       柳井10:30~
       防府15:30~
 7/9(木)には、
     益田14:00~ 
     六日市19:30~ です。

本日の説教要旨は、以下の通りです。



【マルコによる福音書32030節】
「癒し」の言葉が世の中で用いられ出して久しいですね。新約聖書には「癒し」と訳すことが出来る二通りの言葉があります。一つは「セラピー」の原語です。元々の意味は「傍にいる」です。もう一つは「イアオマイ」と言いまして、こちらは具体的な治療、処置です。聖書文化圏は、人の治療に関して二通りがあると考えていたのです。しかし聖書は両者に優劣などを付けません。双方の手法ともに尊重するのです。

主も双方の癒しを用いますが、この直近の記事で主が用いた癒しは「セラピー」の方でした。マルコ310「多くの病人を主は癒す」とあります。具体的な援助や措置ではなく、一人ひとりの傍にいる、心に寄り添う主の姿です。主はその出来事の後、自宅に帰ります。ところがその家で主は捕縛されそうになるのです。身内によってです。後を見ると母マリアや兄弟たちが登場します。その理由は「気が変」というものです。

癒しがなぜ「気が変」となるのか。「気が変」の言葉の意味は「外側に立つ」の意です。主の家族には主は「外側に立つ」。こちらではなく、普段接しないような病者と付き合うことが異常と看做されたのです。また「ベルゼブル」も苛烈な言葉です。意味は「蝿の王」です。主はそのように看做され、呼ばれたのです。蝿のような生き方をしている、まさに蝿の如しであると。怪しからぬ存在だと主は看做されたのです。

主は家族には気が変と言われ、敵対者には蝿の王と看做されました。でも主は、共にある神として「傍にいる」ことを旨とされました。私たちはこのイエスさまのお気持ちに確信を持ちたい。状況の中で生きる、生きることを求められる私たちに、主は寄り添うのです。聖霊の働きにも、併せて確信を持ちつつ、日々を過ごしたい。