2015年8月23日日曜日

8/23 礼拝献花とメッセージ、教会の様子





本日も、徳山C、柳井C、防府Cでは礼拝が守られました。
写真は徳山Cの礼拝献花です。
あでやかな赤系の花が並んでいます。

本日、徳山Cでは、通常の礼拝後に、会員ご家族のお父様の
「納骨式」が行われました。徳山Cでは、礼拝堂内に納骨堂もあります。
個別の区画内には、ご本人様の御遺骨に加えて、愛用のピッケル、金づち、
タガネが二本、収められました。

今週、来週ともに、シオン教会では礼拝が以下のように
行われます。何れの礼拝、集会もどなたでもご自由にお集まりいただけます。

来週も礼拝は、8/30(日) 
       徳山10:45~
       柳井10:30~
       防府15:30~
 8/27(木)には、
       益田14:00~ ただし、益田市小浜町にて。
       六日市19:30~ です。 どなたでもご自由にお越しください。

本日の説教要旨は、以下の通りです。





【マルコ福音書64552節】
聖書の福音の言葉とは、それ自体で力を持ちます。それに、旧約聖書の記載を知る事で、福音が補強され私たちの元に届くのです。聖書は湖上歩行の主です。逆風に悩む弟子たちを主が鼓舞されます。夕暮れと共に荒れる湖面ですが、主は近づき、安心を語るのです。どのような状況でも見捨てない主の姿です。これだけでも十分です。

けれど、もう少し見ると「強いられる」とありました。これは実は弟子たちの日常であり週日の私たちの姿でしょう。どのような働きにも期限や基準があります。それをクリアする事が求められます。私自身にも「他者を強いる」こともある一方「強いられる」こともあります。弟子たちは頼る主無くして、強いられて湖で困っています。

主はその弟子たちの所に行くのです。「通り過ぎようとされる」は一見、不思議な記載。主が山を降りて、即ち祈りの手を休めて弟子たちの所に行くのは助けるために他なりません。なぜ「通り過ぎる」か。これが旧約の助けが必要なその1です。「通り過ぎる」姿は、旧約で神がモーセやエリヤに示した顕現の姿です。それでも幽霊と勘違いする弟子たちです。だから「私だ」の言葉なのです。同様に神顕現を意味する言葉です。

弟子たちは「パンの出来事を理解せず」とありました。五千人の給食の真髄は、主は僅かを用い、欠けをも完全と為すことでした。だが、このような弟子だからこそ主が顕現したと信じたいのです。そして、旧約の記載事項は弟子たちには耳慣れたものでした。主は弟子たちの無理解を知りつつも、馴れ親しんだ方法で神の共在を教えて下さるのです。強いられ、鈍くなる弟子たちや私たちがいます。日常的な働きのなかで漕ぎ悩む私たちに働きかけます。「安心せよ」の言葉を、漕ぎ悩みの最中聴きたい。



2015年8月16日日曜日

8/16 礼拝献花とメッセージ


 本日も、徳山、柳井、防府では礼拝が行われました。
 写真は徳山礼拝の献花です。ユリの花です。

 礼拝前に、ある方と、教会ではユリの花も野の花も
 どちらも大切で、どちらも必要ということを話しました。

 来週も礼拝は、8/23(日) 
       徳山10:45~
       柳井10:30~
       防府15:30~
 8/20(木)には、
       益田14:00~ 
       六日市19:30~ です。 どなたでもご自由にお越しください。

本日の説教要旨は、以下の通りです。



【マルコ福音書63044節】
詩編は賛美と祈りの言葉集です。これが讃美か、これが祈りか、と驚きの内容も含まれますが、そのようなものも、主は祈りと受け取られます。さてマルコ福音書の日課では、先週は「弟子の派遣」使徒の派遣でした。使徒たちは旅に出て帰るのです。それが日課の冒頭でした。「残らず報告」とありました。「良いニュースと悪いニュース」使徒たちは、えり好みせず全てを主に告げます。そして主は全てを受領されます。

使徒たちは休憩のため立ち去るりますが、群衆が追うのです。時分時、主は使徒たちに食事提供を命じます。しかし彼らは解散を試みるその理由は食不足でした。パン五個と魚二匹は少なすぎると考えた。ここで使徒たちは勘違いしたのです。主は全てを受領される方ということを見失ったのです。その結果パンと魚を奉げませんでした。

かつて主は使徒たちの働きに優劣を付けず、その働きに報いて休息を与えました。ここでは使徒たちは自身の劣や些少を思い、主に捧げませんでした。これは良くありません。主は人の行いの結果に優劣を付けず、求めず、全てを受け入れる方です。12人の派遣の際に主が使徒を祝したように、今また少量の食べ物を祝し、大勢に分配されました。人は、小や劣、些少であることを斜め見するが、それこそが祝福の器です。

それは食後のパンくずの総量にさり気なく表明されます。パン「屑」でさえ、12の完全数となるのです。差し出す以前には色々と思う。主はその私たちの思いを越え、全てを受け止めるのです。社会でもどこでも私たちは、受容と非受容の狭間に立つ者です。使徒たちが然りでした。その狭間に生きる者を、主は全て受け入れるのです。勇気をもって私たちは主に申し述べる思いを得たい。そして恵みを待ち望みたい。
 

2015年8月9日日曜日

8/9 礼拝献花とメッセージ


 本日も、山陽諸教会では礼拝が守られました。
 徳山Cでは、通常の礼拝に加えて、礼拝後には会員ご家族の召天を覚えての
  記念会が行われました。

 復活を象徴する百合の花が捧げられました。

 今週の益田、六日市の礼拝はありませんが、お盆前には一度、
 益田、六日市方面に行くことを考えています。


 来週も礼拝は、 8/16(日) 
       徳山10:45~
       柳井10:30~
       防府15:30~
 8/20(木)には、
       益田14:00~ 
       六日市19:30~ です。 どなたでもご自由にお越しください。

本日の説教要旨は、以下の通りです。



【マルコ福音書66B-13節】
聖書時代、杖は足腰の為に用いたでしょう。しかし聖書は、杖の本来の用途を「老いの支え」としては記さないのです。新生、神の力、神の支えとして意味が含まれる記述が、モーセの生涯や詩編などで見られます。神は、老いたから杖を授けるのでなく、これまでの人生の奮闘を顧み、賜物として杖を人々に授与されるということなのです。

聖書は12人を派遣する物語で、主は弟子たちに「杖を持て」と語られます。12人は杖の他は持参してならないのです。なぜか。神の守りを示そうとするのに、自身たちが人間的な備えをしては、その表明にならないからです。この聖書はこれまでの人生への感謝を想起させます。私たちは誕生時には何も持たない者でした。それ以後多くを持っています。正確には備えられたのです。神さまが全てを備えて下さったのです

12人への言葉は、歓迎された場合、その反対の場合でした。非歓迎の場合には絶縁すべしと。厳しい言葉とも思えます。留まらず出て行くとの勧めの意味は、むしろ、必要とされる所を速やかに探し求め、行くという勧めです。主は、人間の知恵や努力の限界以上のことは求められません。弟子たちは、守りとしての杖を持っていますが、それは、人知を超えた所で働く神さまを思い起こさせる、そのことの示唆なのです。

この12人をマルコ福音書は「弟子」とは呼ばず「使徒」と呼びます。弟子とは、主の元に留まり教えを受ける者で、使徒とは主のもとから離れ主のみ業に励む者です。神の杖即ち神の守りと共に生きる使徒たちです。私たちは主の弟子であると同時に主の使徒とされます。派遣される私たちに、見えないけれども「主の杖」があります。倒れそうになるとき助ける杖です。私たちはいわば主と「同行二人」の群れなのです。

2015年8月7日金曜日

8/2 益田合同礼拝

 8/2 益田にて、シオン教会合同礼拝が行われました。
 益田は好天に恵まれ、恵まれすぎな一日でした。

 暑さにも関わらず、手術を終えたばかりの兄弟も集い、
共々にいのちを与えられている恵みを感謝いたしました。

写真4枚は、いずれも益田教会からの贈り物です。
夏野菜や、夏の果物の種が用いられている「みことばタペストリー」です。

来週も礼拝は、 8/9(日) 
       徳山10:45~
       柳井10:30~
       防府15:30~

いずれの礼拝も、どなたでもご自由にお越しいただけます。

  8/13(木)の礼拝は、
       益田、六日市ともにありません。
 8/20(木)に行いますので、お覚えください。