2015年8月9日日曜日

8/9 礼拝献花とメッセージ


 本日も、山陽諸教会では礼拝が守られました。
 徳山Cでは、通常の礼拝に加えて、礼拝後には会員ご家族の召天を覚えての
  記念会が行われました。

 復活を象徴する百合の花が捧げられました。

 今週の益田、六日市の礼拝はありませんが、お盆前には一度、
 益田、六日市方面に行くことを考えています。


 来週も礼拝は、 8/16(日) 
       徳山10:45~
       柳井10:30~
       防府15:30~
 8/20(木)には、
       益田14:00~ 
       六日市19:30~ です。 どなたでもご自由にお越しください。

本日の説教要旨は、以下の通りです。



【マルコ福音書66B-13節】
聖書時代、杖は足腰の為に用いたでしょう。しかし聖書は、杖の本来の用途を「老いの支え」としては記さないのです。新生、神の力、神の支えとして意味が含まれる記述が、モーセの生涯や詩編などで見られます。神は、老いたから杖を授けるのでなく、これまでの人生の奮闘を顧み、賜物として杖を人々に授与されるということなのです。

聖書は12人を派遣する物語で、主は弟子たちに「杖を持て」と語られます。12人は杖の他は持参してならないのです。なぜか。神の守りを示そうとするのに、自身たちが人間的な備えをしては、その表明にならないからです。この聖書はこれまでの人生への感謝を想起させます。私たちは誕生時には何も持たない者でした。それ以後多くを持っています。正確には備えられたのです。神さまが全てを備えて下さったのです

12人への言葉は、歓迎された場合、その反対の場合でした。非歓迎の場合には絶縁すべしと。厳しい言葉とも思えます。留まらず出て行くとの勧めの意味は、むしろ、必要とされる所を速やかに探し求め、行くという勧めです。主は、人間の知恵や努力の限界以上のことは求められません。弟子たちは、守りとしての杖を持っていますが、それは、人知を超えた所で働く神さまを思い起こさせる、そのことの示唆なのです。

この12人をマルコ福音書は「弟子」とは呼ばず「使徒」と呼びます。弟子とは、主の元に留まり教えを受ける者で、使徒とは主のもとから離れ主のみ業に励む者です。神の杖即ち神の守りと共に生きる使徒たちです。私たちは主の弟子であると同時に主の使徒とされます。派遣される私たちに、見えないけれども「主の杖」があります。倒れそうになるとき助ける杖です。私たちはいわば主と「同行二人」の群れなのです。