2015年10月25日日曜日

10/25 教会の礼拝と献花





 本日も、山陽三教会では礼拝が守られました。

 写真は徳山教会への献花ですが、柳井、防府ともそれぞれご奉仕の方のお気持ちで献花がなされています。

 徳山Cは本日、「宗教改革を覚えて」の礼拝が行われました。
 献花にも感謝です。

 徳山Cの愛さんは、本日ラーメン。昔ながらの東京風ラーメン?でした。
 なつかしい、味わいです。

 来週も礼拝は、11/1(日) 
       徳山10:45~
       柳井10:30~
       防府15:30~
 10/29(木)には、
       益田14:00~ 
       六日市19:30~ です。 どなたでもご自由にお越しください。

 本日の説教要旨です。




【マタイ福音書516節】
498年前のドイツの話です。教会では、説教壇から司祭が山上の幸いの教えを語るはずでした。元来主は無償の幸いを語りました。そして神と人との繋がりで幸いを得させました。ところがドイツの教会。説教壇では主からの無償の幸いを語りつつ、司祭が主の無償に金銭を上乗せしていました。教会は「免罪符」と称されるものを販売したのです。憂うる修道士ルターが、「95箇条の提題」を公開し、宗教改革が起こります。

中国語でルーテル教会を「信義宗」といいます。「信仰による義しさ」に二つの意味があると思います。「信仰」は、私たちの信仰、そして主の信仰ということです。私たちは、神を信じる、その信仰により義とされると思えます。だが私たちの信仰は揺らぐ。500年前の教会の人々も然り。揺らぐ信仰の持ち主はどうなるか。聖書にはパウロの言葉があります「私たちが真実でなくとも主は真実」と。主の信仰こそが大切です。

主は「心の貧しさ」への幸いを語ります。心の貧しさとは今日、感受性や共感性の欠如と解されます。聖書の時代の「心」とは、精神、信仰を表します。聖書的には、心の貧しさとは信仰の貧しさ、欠如のことです。主はその人々を叱らず、祝福するのです。「心」が貧しくとも、天の国は開かれる、そのような招きを言われるのです。

ルターの時代、教職者は口では立派を言いつつ、人々の信仰心の欠如という不安に付け込みました。主の時代、宗教者たちも人々に信仰の欠如の不安を与えつつ、商売に励むのでした。主はその宗教者に憤りつつ、心貧しき者、信仰薄いものへの祝福を語ります。ルターは改革者でしたが、主に倣うものだったのです。私たちは皆、この主に用いられる群れです。何を成し得るか。日ごとの働きの中で、主の手足となりたい。
 

2015年10月18日日曜日

10/18 教会の献花と説教





 本日の献花は、本日まさに誕生日を迎えられた方によるものとなりました。

 紫の花です。これも聖壇に生えます。

 本日、徳山や柳井、防府では礼拝が守られました。
 徳山はわかめおにぎりと、にゅうめんの愛さんとなりました。
 先週来られた方が、続けて今日も来られるという喜びの日でした。

 来週も礼拝は、10/25(日) 
       徳山10:45~
       柳井10:30~
       防府15:30~
 10/22(木)には、
       益田14:00~ 
       六日市19:30~ です。 どなたでもご自由にお越しください。

 本日の説教要旨です。

 

【マルコ福音書101731節】
今日、私たちは、日本の先輩たちの努力で、金銭的な貧しさは感じることはありません。欲しい物が無い訳ではないでしょうが、貧しさとは無縁です。でも、物質的な貧しさ以上に、精神的な貧困、心の貧しさ、ということは言われ続けています。マルチン・ルターは「あなたの心の気掛かりなものが神」という、解説が必要なことを言いますが、私たちは果たして何を「神」とするのか。厳しく問われているのでしょう。

聖書には金持ちの青年が登場します。彼は、求道心あふれる青年でした。救われている、という確信がないからです。主は財産を売り、貧者に施す答えを説かれます。彼はびっくりします。主か財産かの二者択一を問われる。言い換えれば、自身か神かの問いです。彼はすごすごと主のみ前を去ります。多い、少ないに関わらず、全財産放棄の命令は誰もが実行不可です。それが私たちに当てはまる、はずがありません。

この聖書が問おうとすることは、財産放棄ではありません。「何を神としているか」、大事にしているかを問うものです。青年には、財産が大事であり、それが彼の神だったのです。私たちも、この世でさまざまなことに出会い、時に多くの心配事を抱えます。心配事の中身は自身や家族の問題、先行きや仕事、家庭のことでしょう。神さまに信頼するとは、それらの私たちの心配事をも、神が導くとの確信に生きることです。

日々の生活で私たちは不足を思います。時に私たちは、この「富める青年」となります。「天に富を積む」とは主の青年への勧めです。私たちも、時に心配事を神とする時、「心配事をも天に積みたい」者です。青年は悲しみつつ去る。主も悲しかったでしょう。主の悲しみの眼差しを思いつつ、天にすべてを積んで生きる者でありたい。

2015年10月11日日曜日

10/11 礼拝と献花







朝方は、どうやら雨が降ったらしい本日、今は快晴です。
本日も、礼拝が徳山、柳井、防府では礼拝が行われました。
連休の中日ということもありましたが、集われた方々でともに祈り、
愛さんをいただきました。

本日の献花は、ご召天になった方を記念してささげられたものです。
来週も礼拝は、10/18(日) 
       徳山10:45~
       柳井10:30~
       防府15:30~
 10/15(木)には、
       益田14:00~ 
       六日市19:30~ です。 どなたでもご自由にお越しください。

 本日の説教要旨です。




プロテスタントの中のルーテル派は、「先行する神の恵み」という考えを大事にします。人の行いではなく神の行いが先行するのです。主のご生涯には、弟子たちや宗教者たちが出てきます。宗教者が主に問答を挑みます。離縁の件です。これには、当時の事件が背景にありました。領主ヘロデのスキャンダルです。ヘロデは兄弟の妻を強奪したのです。ファリサイ派は離縁の是非の答えを主に求めます。「試した」と聖書にあるのはこういうことです。

「離縁は律法に叶うか」とは裏のある問いです。叶うと答えれば主はヘロデに屈した意気地なしとして糾弾され、叶わずと答えればファリサイ派はヘロデ派に密告する。主はいずれの答えでも断罪されてしまうのです。意地の悪い問いです。主はまずモーセの故事により、離縁は叶うと語り、加えて「神の結ぶ縁は離し難い」と。「叶わない」ということを話します。つまり主は端からこのような無茶な問いにまともに答えないのです。

主は離縁に関して、困難な局面に立つ女性を弁護されます(ヨハネ4章)。人間社会の営みの中では、避けられないことなのでしょう。旧約のコヘレトも「結ぶ時や離れる時、抱擁の時や抱擁を遠ざける時」を語るのです。主は個々の例を知っておられます。双方が折れずに難しい状況の夫婦や、どちらかの短慮で家庭生活維持が困難な夫婦などです。主の言葉は、一般論ではなく、ヘロデのスキャンダル故の言葉と理解したいのです。

主が離婚に関して語るのはヘロデの件があったからです。それを当の弟子たちが理解しませんでした。後半では子どもの祝福を願う人々を叱り飛ばします。主の思いが蔑ろです。主は「子供のような心」を語ります。子どものように他者を受け入れ得ればこれに勝る幸いはないでしょう。受け入れることが難しい私たちを主は受容されます。
 



2015年10月4日日曜日

10/4 礼拝と献花、タイムカプセル

10月、秋晴れの日の礼拝でした。
 徳山Cでは、献花としてコスモスが捧げられました。


礼拝後、愛さんがあり、その後に月一の大掃除が行われました。
 大掃除、外班の方が「タイムカプセル」を発見されました。

 中身は、教会員子弟が子どもだったころのものでした。
 ИBA(原文ママ)の選手になりたい、など、夢あふれるものでした。

 来週も礼拝は、10/11(日) 
       徳山10:45~
       柳井10:30~
       防府15:30~
 10/8(木)には、
       益田14:00~ 
       六日市19:30~ です。 どなたでもご自由にお越しください。

 本日の説教要旨です。

 

【マルコ福音書93850節】
時に私たちの人生には逆境や困難があるものです。旧約のヨブには、「なぜ」と問うたこともありましたし、ただ嘆く時もありました。ただ、逆境の中でこそ神さまは導くのです。さて、このマルコ福音書の弟子評は辛口です。これは、主の言動を際立たせ、弟子の無理解を強調し、その無理解を導く趣旨からなのです。私たちの姿が、この弟子たちの中に現れていることを思いつつ、本日のみ言葉をご一緒に聴きたい。

マルコ9章では弟子たちの内、今日の主人公の一人、ヨハネが主の変容の場に同伴しました。「選ばれたのだ」という意識が芽生えた瞬間でしょう。しかしこのヨハネを含む弟子たちは「誰が偉いか」の議論を主に聴かれ、面目ない思いをしました。汚名返上の思いでしょう。ヨハネは「主の名の無断使用」の場面に出くわします。「受け入れよ」と語る直前の主の言葉はどこ?? 主のみ名を汚す者への実力行為が先立ちます。

ヨハネ はざ んねんです。主のお名前が「悪霊払い」商売で用いられる現状を受容し難いのです。だが主は留めます。「味方」なのだと。なぜ「味方」なのでしょうか。主の名による悪霊追放は、主を信じるが故に可能なのです。主を信じる者へのヨハネの実力行使は「躓き」に他ならないからです。主はヨハネを叱る。聖書後半はヨハネへの厳しい言葉。ヨハネにとっては踏んだり蹴ったりです。ヨハネにとっては、弟子としての逆境です。

それが最後の主の「人は皆火で塩味を付けられる」で顧みられます。ギリシアの理解では火は生成と消滅を意図します。主の厳しい言葉はいわば火なのです。主からの厳しい言葉も逆境も、ヨハネにとって塩を得るための物です。ヨハネの厳しさや特権意識が除去されて初めて、塩が見出されます。逆境や困難にも、かならずその意味があるのです。