2015年11月22日日曜日

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11/22 教会の礼拝と献花、クリスマス準備

  いつもはお花の写真がここに来ますが、今日はクリスマス準備のお写真。
昼の光の中で観ますと、あまり良く分かりませんが。夜が楽しみです。

  いつもの献花です。白と赤の花が聖壇に映えています。

マルチン・ルターの垂れ幕も、ここに付けられる予定です。
夜にはどう映るか、それが少し心配なのですが。


 本日も、徳山、柳井、防府では礼拝が行われました。
毎週木曜日には、益田、六日市でも礼拝が行われています。

来週の益田の礼拝は、小浜という場所で行われます。
海の音を聞きながらの礼拝、楽しみです。

 徳山では上記のように、礼拝後クリスマスの飾りつけが
行われました。夜間の写真や動画は、今週中に何とかこちらでご紹介できればと思います。お楽しみに!

 来週も礼拝は、 以下の日程で行われます。
 どなたでもご自由にお集まりください。

 
 11/29(日) 
       徳山10:45~
       柳井10:30~
       防府15:30~
 11/26(木)には、
       益田小浜14:00~ 
        六日市19:30~です。

本日の説教要旨です。



【マルコ福音書132431節】
主の十字架から7年後、マルコ福音書執筆の20年前、紀元40年のことです。ユダヤ神殿の聖所に自身の像を設置しようと、時の皇帝カリグラが試みました。皇帝の暗殺で行われませんでしたが、主は14節で予見されます。そして24節「それらの日」何が起こるかと言われます。天変地異です。神さまのお働きが汚され、隠される出来事と言われます。

主の時代、神殿は神さまと先祖たちの「力と栄光」の象徴でした。神殿の聖所には、十戒の石板が置かれていると考えられていました。それも神さまからの「力と栄光」のしるしでした。主は、それらが汚される時、ご自身の姿で「力と栄光」を示すと言われるのです。主は建物に頼らず、ご自身の姿を示すのです。実際の所はどうか。

神殿に皇帝像を置く企みは叶いませんでした。でもその後、神殿そのものが壊されます。だが主は再臨しません。それから後、今日に至るまで主は再臨しません。2000年の間、つい最近も世には不条理や戦乱や混乱があります。だが主は再臨しません。私たちはただ待ち望むしか出来ないのです。目前の苦難は続くのです。主は、待ち望むことに時に疲れ、また信仰を時に投げ出したくなる私たちにみ言葉を用意します。

後半はイチジクの木の話でした。主はこの話を冬から春の時期に語ります。ユダヤの冬は氷雨のふる天候です。主はしかしこの時期に暖かな時期のイチジクを語るのです。今は葉が固く、不実の時代でもやがて暖かな時代が来るということです。「冬きたりなば春遠からじ」の詩があります。主は戸口に近づくのです。この言葉から導き出された黙示録の言葉があります。「戸口に立って叩く」主のお姿です。困難が見える形で迫っても、私たちの心の扉は常に主が叩かれます。主が、すぐそばに居られるのだから。

2015年11月15日日曜日

11/15 礼拝の献花とクリスマスの準備、メッセージ

 クリスマスの準備が、礼拝後に行われました。
写真はアニメチックな聖家族。

  玄関ではクリスマスツリーがあります。

  礼拝堂の様子。聖霊をイメージしたという、紫の布です。

  本日の献花。可愛らしい赤い実がなっています。

こちらも聖家族。実は、博士が一人、出奔していましたが、
 めでたく見つかりました。良かったです。

 本日も、徳山では礼拝が守られました。
 本日はみなさんのご都合が重なり、礼拝出席は少なかったのですが、
 それでも協力し合って上記の準備が出来ました。

来週も礼拝は、以下の日程で行われます。
 どなたでもご自由にお集まりください。

 
 11/22(日) 
       徳山10:45~
       柳井10:30~
       防府15:30~
 11/19(木)には、
       益田14:00~ 
       六日市19:30~ です。 どなたでもご自由にお越しください。

 本日の説教要旨です。



【マルコ福音書124144節】
聖書の教えを私たちは難しく考えてしまいます。「愛せよ」「許せよ」「委ねよ」などです。それが実行できれば楽でしょう。できない所で戸惑う私たちです。本来主は、大らかな生き方へ招いたのです。今日の聖書。結論は確かに「委ね」「任せ」であります。だが主は一言も指示せず。女性の生き方を通し「任せる」生き方へと招くのです。

主はエルサレムに入り、議論をいどむあまたの学者を退けた場面でした。神殿の境内で賽銭箱の様子を見られます。当時この賽銭箱には不思議なからくりがありました。献金時に、献金箱に自動ラッパがあって、それが鳴るのです。多額献金者は華やかに鳴る。少額者は鳴らないのです。大勢の金持ちの中、やもめが2レプトンを捧げる。少額でしょう。献金箱は響かなかったでしょう。しかし主が近づき、多くを捧げたというのです。

なぜか。献金額は問題でない。そもそも「入れる様子を見た」の「見た」とは「心を見た」ということです。それでは彼女の心持はいかがか。背景は記載されていないので、想像することしかできません。私たちがこの立ち位置ならどうか。不安もあるでしょう。握りしめる50円玉二枚。金額としてはパン何日分か。日々の糧も買い得る50円玉二枚を、彼女は手放す。握りこぶしから献金箱に入れる。主の心が響くのです。

手元の50円二枚を差し出す時、彼女の心に不安が半分はあったでしょう。もう半分は期待かもしれません。一文無しになる自身に神は何を成すか、神に委ねたら神は何を成すかということです。主はその不安と期待とを見たのです。完全な、立派な委ねる心でなくとも、半分や四半分の信頼でも主は見られます。今の自身の課題を、問題を、つらさを、主はどのように解決されるのでしょうか。一歩、踏み出してみたい。
 





2015年11月8日日曜日

11/8 教会の献花と、メッセージ

本日は、小雨ときに強く降る雨の中、礼拝が守られました。
 徳山では、「子ども祝福式」が織り込まれた礼拝となりました。

 写真の献花は、会員子息の誕生を覚えて捧げられたものです。
 徳山では礼拝後、もちよりの愛さんが行われました。

 からあげ、湯でエビ、大根サラダ、煮物、マカロニサラダ、ちらしずし、
 かまぼこ、チーズケーキ、ぜんざい、これらを皆で頂きました。

 来週も礼拝は、以下の日程で行われます。
 どなたでもご自由にお集まりください。

 
 11/15(日) 
       徳山10:45~
       柳井10:30~
       防府15:30~
 11/12(木)には、
       益田14:00~ 
       六日市19:30~ です。 どなたでもご自由にお越しください。

 本日の説教要旨です。

 

【マルコ福音書122834節】
「若い日に創造主を覚えよ」の言葉がコヘレト書にあります。このみ言葉は真実です。私たちは今から少し若い時に主と出会いました。それ以後年齢を重ねます。様々なことを経て今に至るのです。神の守り無くして今はないのです。聖書は主が「愛心愛隣」を教えます。「神を愛し隣人を愛する」その教えが実行できているか、年齢を重ねると「神に愛され、隣人に愛される」と知るのです。故に今日がある。聖書に聞きたい。

今日の聖書で主は既にエルサレムに入っています。間近には妙なことを目論む宗教者「言葉尻を捕えようとする学者たち」の真打が登場します。問うことは、律法の中での大事です。主は答えて「愛心愛隣」。むしろ主と律法学者の交わしたことばこそが大切なのです。主からの言葉に私たちが成し得る「愛心愛隣の神髄」が含まれているのです。

主の言葉は申命記の引用です。神をどれほど愛するか。申命記には「心、力、魂」。主は「心、力」までは一緒だが、「精神、思い」と原文にないものを加え、「魂」を削ります。心も精神も魂も、意味としての大きな違いはありません。ところが学者。妙な付け加えをします。「心と力」は一緒だが、「魂」を削り「知恵」を加えてしまうのです。申命記の意味を、大幅に転換してしまうのです。「知恵を尽くす」とは難しい。

主の学者への答えには含みがあります。「適切な答え」「遠くない」と。申命記の言葉を歪め、知恵を加えた学者への悲しみです。神を求めるに、命ありのままではなく、知恵という人知を加えた悲しみの心が主にありました。学者は「自身が神に近づく」ことに専心した。主も「愛心愛隣」を語るが、その実は「愛される」ことを教えたのです。私たちは愛されるものだということ。それを今週は改めて覚えたいものです。

2015年11月1日日曜日

11/1 教会の礼拝とメッセージ


 本日は「召天者記念礼拝」として、礼拝が行われました。
聖壇の左側にはテーブルが用意され、ご召天の方のお写真が連なっています。

礼拝後、徳山では愛さんとして豚汁とわかめのおにぎりの食事が用意されました。そして、礼拝後…。



 花壇の植え替えが行われました。
 すがすがしい陽気の中、元気に育つことでしょう。

 本日も柳井、防府、徳山では礼拝が行われました。
 来週も行われる以下の礼拝、どなたでもご自由にお越しいただけます。

 11/8(日) 
       徳山10:45~
       柳井10:30~
       防府15:30~
 11/5(木)には、
       益田14:00~ 
       六日市19:30~ です。 どなたでもご自由にお越しください。

 本日の説教要旨です。




【マタイ福音書5712節】
漢字にはそれぞれ由来があります。聖書に登場する「憐れみ」という文字は、「心」と「つながり」という文字から成立しています。「神の憐れみ」とは、「神と私たちとの心の繋がり」なのです。本日は全聖徒主日です。目の前の方々は、かつて私たちとの繋がりが与えられた。そして今は神の国で安らぎに包まれるのです。「神の憐れみの内にある方々」とは、言い換えれば、今神さまとつながっている方々なのです。

主は聖書で「憐れみ豊かな者」への幸いを語ります。前段落には山上の説教の聞き手がいます。大勢の病者。そして「連れてきた」人々です。「心が繋がっている」がゆえに、人々は連れ立って主のみ前に来たのです。主は、病者やその友をここで祝した。私たちはこのお写真の方々と住まう場所は異にします。けれど本日連れてきたのです。すなわち私たちも、主の「憐れみ深さ」の言葉の対象です。お写真の方々も対象です。

「心」とは当時の意味では信仰や精神を表します。「清い」と言われます。私たちは、自身や他者や召天者を見て思う。「清さ」とは離れているかもしれません。それは私たちの感性です。主は一人一人に清さや純粋さを見るのです。清濁の世界で生きる私たちは、清さが分からくなっているかもしれません。でも主は私たちにも、召された方々にも清さを見出すのです。やがて私たちも、先立つ方々と共にみ国で神を見るのです。

第一朗読は召天者の生存者への祈りでした。「その日には、歌を歌う」の言葉で始まります。古人も召天者との繋がりを思い、共に歌う日を待ち望むのです。私たちはこちらに住み、召天者はあちらに住む。しかし繋がっている。時にはこの世の嵐で、悪口や困難にぶつかります。しかし「主に繋がっている」ということを覚えたい。