2016年12月25日日曜日

12/25 益田、六日市、徳山クリスマス礼拝と献花と献品

 益田クリスマス祝会のトーンチャイム。
・・・うまく見られませんですね。すみません。

 六日市クリスマスの、ある会員さんと手製のリース

 六日市クリスマスの祝会の食事。ほとんど手製のお惣菜。
ただし、からあげはお店のもの。

  ある女の子。いっぱい取ったね。

  ある男の子。この人はおにぎりを三個頂きました。

 徳山の献花。
 徳山の洗礼盤。なんと、大工の会員さんの手製の盤です。
本日の受洗者はこの盤から受けられました。
 徳山のアドベントクランツ。
ヤドリギ。この木の下では誰でもキスして良いとか。

本日も徳山Cでは礼拝が行われ、礼拝の中では洗礼式が行われました。

礼拝後にはクリスマス祝会が行われました。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。


【ルカ福音書21323節】
聖書のクリスマス講話は、実は不条理や悲嘆的要素を含むのです。マタイ福音書は、東方の賢者が贈り物を携えて来る喜びの場面ですが、周辺が騒がしいのです。王降誕の知らせを聞いたヘロデ王が、自らの地位保全を思い、ベツレヘム付近の嬰児の虐殺を実行に移すのです。主が生まれたのはそういう環境でした。まことに主は、愛憎渦巻くこの世に降誕されたのです。

聖書冒頭で、占星術の学者は自国に帰ります。実は、彼らがそもそも過ちを犯したのです。主の誕生をこともあろうにヘロデに知らせてしまう。だから天使は夢でヨセフに逃亡を勧めます。主や父母は守られた、聖書は、そのことは旧約の成就と加えます。もぬけのカラのベツレヘムを捜索させられたヘロデは怒ります。そしてベツレヘム周辺の二歳以下の子を殺す。それも聖書の成就と語ります。親たちにとっては、ヘロデの凶行は慰めようのない痛みです。親たちは誰を憎めば良いのか。ヘロデに怒りをぶつけることは出来ない。出口がない悲しみです。

主はその後、エジプトからユダヤへ帰還しますが、王の後継者の本拠地ユダヤへは帰れず、父の故郷ガリラヤへ帰ります。主の誕生から直後まで、聖書の預言の通りに守られました。守られた主とは対照的なのが、嬰児やその親たちの気持ちです。ヘロデを憎み、道を誤った学者を憎み、その大本である主を憎むのでしょう。祝福の内に生まれるはずだった主は、誕生から重荷を負うのです。神さまは、生まれたての主に、親たちの心を負わせるのです。

神と主との関係は父と子です。だが父子にしては冷たいですね。送った早々、重荷を負わせます。しかし、主は世の重荷を担うために生まれたのです。さあ、世の悲しみや悲嘆を抱えている私たちは、だからこそこの主に、一層委ねて良いのです。主が共にある、その主の知らぬ憂いや悲しみは何もない。その主が、この世に生まれたのがクリスマスなのです。
 

2016年12月18日日曜日

12/18 礼拝と献花

 本日の献花です。カメラで撮るときに、普段押さないボタンで撮ってみたら、
 不思議な写真が取れました。撮った当時は夜ではなかったのですが、
 周囲が暗く、花が際立つ写真です。
一週間で百合が開花するか。楽しみです。

クリスマス・イブ礼拝は、徳山では24日(土)18時から行われます。
どなたでも(無宗教、カップル、興味ある方)ご自由にお集まりいただけます。

音楽の演奏もあります。チェロとピアノ。
果たして「クリスマスは誰のもの」なのか・・・。

本日も徳山では礼拝が行われ、その後愛さんが行われました。
長年、寮や大学、高専などで食事のお世話をなさっている方の御振舞いでした。
炊き込みの味もお吸い物も、大変にすばらしいいい、味でした。

今週、来週とも、いずれの集会も礼拝もどなたでもお越し頂けます。

12/20(火)徳山C聖書の学び
  15:00~16:00


 12/22(木)には、
       益田にて、小浜礼拝13:00~
       益田教会では 14:00~ 礼拝、 
        六日市礼拝は、翌日のクリスマス礼拝に振り替えとなります。

 12/23(金・祝)17:30から六日市クリスマス礼拝

 12/24(土)は、18:00から徳山クリスマスイブ礼拝
 12/25(日)徳山10:45~
       柳井10:30~ 
        防府15:30~

 クリスマス礼拝、イブ礼拝、待降節礼拝が混在する一週間でした。
 説教原稿は最大で、違うものが三枚挟み込まれている状況でした。
 間違えないようにせねば・・・。


本日の礼拝メッセージです。



【ルカ福音書14655節】
「マリアの讃歌」をポンと出されても、掴みどころがありません。前提を学ぶと、歌の深みが分かります。さて、場面は受胎告知の直後。と言っても距離があります。告知はナザレ、今日の舞台はユダの町。直線距離で100キロ。その距離をマリアは踏破したのです。道路や治安上、女性の単独旅行は非現実的に思えますが、一念で歩きとおしたのでしょう。

と言っても心の中には、心配事があります。それはお腹の子のことでした。出産の日を迎え、逆算し、結婚前の子だと知られれば大変です。祝いは消え、石打刑が待つのです。思い悩みつつ踏破し、親類のエリザベト宅に行くのです。するとエリサベトは挨拶と祝福をします。祝福とは、神さまの守りを告げることです。それをマリアは聴く。神さまが守って下さるとの思いは確かになった。歌う讃美歌が「マリアの讃歌」。自身を思って歌う歌です。

思いの確かさは歌の中の「イスラエルの受容」という考えからも明らかです。これは、旧約に登場するユダヤの民のことです。高慢故の失敗や頑迷、辛酸を舐めるのです。旧約聖書とは聖書の2/3.その1/3は神の恩寵、2/3は人の迷い。しかし神は人の迷いに絶望しない。一か月の旅の間、マリアは幼い頃から聞いた神さまの恩寵を思い出すのです。迷う人を神は必ず導く。不安は残るが、神の恩寵を確かに持ち、エリザベトの祝辞で確かになったのです。

神さまが、私を守って下さるとの確信に立てるでしょうか。出来る時も、できないときもあります。だからこそ私たちは、聖書のマリアの信仰を読む。先が見えない(全くその通りの状況でした)マリアは、それでも神さまの守りを信じていました。先行きへの確かな根拠はありません。それでも大丈夫、との思いをマリアは抱いていたのです。どんな時も一人ではない、神さまと兄弟姉妹がいる。それがマリアと私たちへの使信なのです。
 

2016年12月11日日曜日

12/11 礼拝と献花

チューリップ。もうすぐ春です(ただし、新春)。
 献花がいつも教会の皆さまによってなされます。
下を向いているのは、子どもたちにも花の香りを漂わせるため、とのこと。

今週から説教題も載せます。旅の中のマリア。

本日も徳山では礼拝が行われ、その後、愛さんも行われました。
本日は三色丼。卵、肉、コーンでした。

来週も礼拝は徳山、防府、柳井で行われます。

また今週も以下の集会があります。

いずれの礼拝、集会にもお気軽にお出かけください。

12/13(火)徳山C聖書の学び
  15:00~16:00


 12/15(木)には、
       益田にて、小浜礼拝13:00~
       益田教会では 14:00~ 礼拝、 
        六日市礼拝 19:30~ です。
 12/18(日)徳山10:45~
       柳井10:30~ 
        防府15:30~

本日の礼拝メッセージです。



【マタイ福音書11823節】
「正しさ」は、自分にとっての正しさが、全てではないことに気を付けることが必要でしょう。聖書時代の律法学者。彼らは「正しい」生き方を勧めましたが、彼らの教えの陰De、涙をぬぐう人たちがいました。自己満足の正しさは果たして本当の正しさか。今日の聖書はもう一つの正しさ、他者を活かす正しさを持つ、主の育ての父、ヨセフの話です。

主の母マリアの婚前妊娠が発覚しました。未だ関係がなかった当事者ヨセフにとって、どれ程の衝撃だったでしょうか。ヨセフの応対は、「表ざたにせず密かに縁を切る」というものでした。当時密かな縁切りは可能なものか。無理なのです。「密かに」とは、理由を内密にしたままということです。妊娠を隠しヨセフの個人的な都合を理由にするのです。妊娠を理由とする離縁なら、マリアに非難が及びますが、個人的理由ならヨセフが非難されます。ヨセフは、マリアとその幼子のために、泥をかぶり、育ての親となる決意を持つ。

婚前妊娠が理由の離縁は、律法的には正しい行為です。しかしマリアは石打刑(赤子もまきぞえ)で、他者の命を踏みつけることです。一方で、律法の規定では、ヨセフの理由秘匿は正しくないのです。ヨセフは揺れる。守るべきものは、律法か家族か、己の体面か家族か、自身か妻か。ヨセフは、自己を犠牲にし妻と子を活かすのです。父の愛です。

そう考えているヨセフに天使が訪ねます。ヨセフの選択は律法違反でしたが、だが神は共にいると天使は告げる。律法を破っても、神は共にあるということです。神さまの言葉に不誠実であっても、神さまは共にあるのです。神さまの祝福される正しさとは、自分だけの正しさを求めるのでなく、共に生きる、共に支えることを決断するものにあります。主はこのような父の薫陶を得て成長し、やがて十字架で私たちのために犠牲となるのです。