2016年4月17日日曜日

4/17 礼拝と音楽会


 4/17も礼拝が徳山、柳井、防府では行われました。
 それぞれの教会の礼拝で、「2016熊本地震」のこと、そして大分県にも被災が及んでいることが覚えられました。同時にいのりも捧げられました。

 徳山では 礼拝後に、音楽教室の発表会が行われました。
 教会に初めて入られた方も、開式の祈りで熊本、大分の方々を覚えて祈りました。

 来週、今週とも礼拝は以下の日程で行われます。

4/24(日) 徳山10:45~
       柳井10:30~ 
        防府15:30~

 4/21(木)には、
       益田14:00~ 礼拝、 
        六日市19:30~ です。

本日の説教要旨です。



【ヨハネ福音書102230節】
聖書には「神殿奉献記念祭」と、耳慣れない言葉が出てきます。今日も存在する記念日で12/25に祝います。ユダヤの建国記念日のようなものです。主の時代から遡る200年前、マカバイという武将に率いられた義勇軍が、占領されていた神殿を奪還しました。その記念日です。国威掲揚の記念日に主は神殿の廊下を散策すると、取り囲むのがユダヤ人たちです。

「ユダヤ人」とは「指導者層」のことです。彼らの思いは忸怩たるものです。かつて先祖のマカバイは少人数で侵略者を撃退しましたが、彼らは主にそのような英雄の役を求めたのです。それが彼らの想起するメシア。人は誰もが自分の思いを持ち他者を動かしたいのでしょう。だが主は彼らと違うメシア像を持つ。それが後半「羊と羊飼い」の話で鮮明になる。

一言で言えば「行動」です。指導者が望むのは反旗鮮明の行動でした。指導者たちにとって、主の行動は容認し難いものがあります。「水をワインに、病者を癒す」など平和過ぎるのです。私たちは、この指導者に近しいものかもしれない。主に気を揉むことはありますか。受容し難い自身の現状や世界情勢を見て「神さまの正義は?」と思うこともあるでしょう。指導者たちは主の御声を静かに聞くことが出来なかった。十字架へ送るのです。

この指導者たちの「気を揉む」姿は、決して遠いものではありません。私たちも、一事が起こる際に神や主に「なぜかと問う」ことがあるかもしれない。「それを為さなくとも、自身や周囲を問うかもしれない。「気を揉む」ことの多い私たちです。まず必要なことは「良き羊飼い」である主を思うことです。羊は近眼で臆病だそうです。主は人を羊に譬えますが、良く譬えたものです。その私たちに主は「羊飼い」と言うのです。良き羊飼いに導かれている感謝、それを踏まえた行動ことが必要です。良き羊飼いに導かれます。

 

2016年4月10日日曜日

4/10礼拝と献花

情熱的なバラの花が本日の献花でした。
贈ることも、贈られることももはやなくなりましたが、いいものですね。
一足早い聖霊降臨祭のようです。


本日も、徳山、柳井、防府では礼拝が行われました。
徳山では礼拝後、炊き込みご飯とわかめ味噌汁の愛さんを頂きました。
その後、来週のコンサートに備えた掃除をいたしました。

来週も礼拝は、以下の日程で行われます。
どなたさまでもご自由にいらしていただけます。

 4/17(日) 徳山10:45~
       柳井10:30~ 
        防府15:30~

 4/14(木)には、
       益田14:00~ 礼拝、 
        六日市19:30~ です。

本日の説教要旨です。




【ルカ福音書242643節】
聖書全体を見てみると、この世に在らざる者としての幽霊や亡霊の記載はあります。聖書は、復活の主が現れる箇所です。これ以前にも主は、エマオ途上で弟子たちに現れます。また弟子の言葉によれば、復活の主はペトロにも個別に会った様子でした。少なくとも復活の主に会った三人がこの場に居ます。しかし主の登場に一同は恐慌状態、素の姿です。

「平和があるように」と主の言葉ですが、これは固い翻訳です。実際は「どうだい?」日常的な挨拶です。その挨拶の言葉をここで語るということは、主には変わらぬ日常の一コマだったのです。主は挨拶と手足を示します。主の声が恨みを持っていたならば、恐慌状態で弟子たちは遁走したでしょう。だが柔和な主でした。その姿形や様相を示すことで弟子たちを赦免したのです。主のみ前に、赦されない罪はないのです。それは確かです。

だが弟子たちは「信じられない」のです。もちろん、この後の弟子たちはやがて信じたのでしょうが、主の復活を見て「信じられない」彼らを記す聖書に、私は誠実を見ます。人間とは揺れるものです。目前の状況で心を変えるのです。僅か数日前のペトロがそうでした「命を捨てます」主を防御する思い100%でした。それが逃げたのです。主はここで疑と真との間を揺れる人を容認したのです。疑いの人に、繰り返し真理を示すのが主です。

何時かは真になって欲しい,心からの信仰を抱いて欲しい。主は決して急ぎません。むしろ、100%純粋な信仰は危うい。100%の信仰は挫折した時失望しか残りません。ペトロが然りでした。けれど、挫折した者も躓いたものも、主の眼差しから落ちないのです。ペトロが然りでした。信仰者には正確な意味での「七転八倒」はありません。「七転」はあるが「八倒」はないのです。倒れても倒れ続けず、挫けても差し伸べる手があるのです。

2016年4月2日土曜日

4/3礼拝と徳山教会夜景


明日も、徳山、防府、柳井では礼拝が行われます。

改修が終わりかけている徳山教会の夜景です。
十字架がライトアップされています。

水原牧師の義祖母が召天したため、明日の更新が時間的な問題からできませんので、
少し早めの更新となりました。

来週も礼拝は、以下の日程で行われます。
どなたさまでもご自由にいらしていただけます。

 4/10(日) 徳山10:45~
       柳井10:30~ 
        防府15:30~

 4/7(木)には、
       益田14:00~ 礼拝、 
        六日市19:30~ です。

本日の説教要旨です。




【ルカ福音書241325節】
私たちは昔を振り返り、個々の試練や悲しみの意味を見出すことができることもあります。むろん、わからないこともあるのですが。けれど、分からなくともその意味はやがて必ず示されることが今日の聖書の意味することです。今日の聖書で、「暗い顔」をして歩く弟子たちがいます。主の架刑の衝撃と、み体が無いことで暗い顔となっているのです。

復活された主は、その弟子たちに自身に関わる聖書を説明します。後々、この時のことを思い出した弟子たちは、あの時の温かみを思い出します。語り手が誰かは分からなかったのですが、主は「分からせない」のです。ただ同じ道を行くのみです。「暗い顔」「悲しみの最中」にある時、必要なのは、ただ傍にいること。それを主は明示されたのです。

エマオの宿で主は弟子たちと共に食事をします。弟子たちはこの時点ではまだ主が分かりません。目前の人が始めたことを見ます。「パンを割き賛美する」これで「最後の晩餐」を思い出します。主の復活を確信します。主の姿は見えなくなるのですが、弟子たちはそこに至って初めてこの日の出来事の繋がりを知るのです。主は同じ道を歩んでくださった、聖書を教えて下さった、叱って下さった。在りし日の主と変わらない復活の主を覚えます

「私たちの心は燃えていた」彼らの心を燃やしたのは主の御顔やみ姿ではありませんでした。主の口からの言葉と、共にいて下さる存在です。極論ですが、主の顔や主の姿形はもはや必要ではないのです。み言葉と、共にいて下さる主は、今週も私たちを支えます。私たちは、主の如くのみ言葉は語れません。しかし誰かと共に歩く、共に過ごすことはできないでしょうか。語ることは小さくても良い、ただ共にいる。困難の人々に寄り添う。そのような歩みを為し得れば幸いです。浮き沈みの生の中、そのことを心から覚えたい。