2017年12月31日日曜日

12/31 教会の献花

  年末の主日礼拝、献花は二組のお捧げがありました。
 こちらは馬小屋の主に捧げられた献花。
 実は博士のうち、一人は負傷し長期療養中です。

こちらは礼拝堂の献花です。正月がイメージされています。
 十字架に映えています。

 2017年最後の礼拝も、大勢が集ってくださいました。
 さすがに明日を控え皆さま足早に帰って行かれましたが、愛さんもありました。

 今週は教会の定例行事は休みとなります。

 本日の礼拝説教は以下のとおりです。

 

【ヨハネ福音書2章1-11節】
 年末の日に相応しい聖書です。「清め」に用いる石の水ガメが6つありました。主はその水をぶどう酒に変えられます。実はこの聖書で「6」という数こそが大切なのです。これは何を表すものなのか。このヨハネ福音書には象徴的な記述がありますが、6とはこの福音書では「不完全」を表すものなのです。つまり「水がめによる清め」は、「清め」の用を果たさない不完全なものだということです。これが、今日の聖書を理解する大切な伏線となります。

 いよいよぶどう酒です。聖書全般でぶどう酒とは喜びの象徴です。それが無くなることから話が展開します。当地の婚礼は「77晩」開催されます。無くなることはよもや想定外だったのでしょう。主の母マリアはその事態を主に知らせます。母としては、血縁の繋がりから主に願うのです。対して主は「婦人よ」と味気ない答えです。母は、血縁の繋がりの立場から、主は神と人との繋がりの立場から答えます。未だ十字架と復活の時は来ていないから、奇跡は示し得ないと答えます。このままでは、母と主の会話も立場も平行線です。

 しかし母マリアは食い下がります。母の不手際でなく婚礼の主催者の不手際です。でも母は執り成すのです。主の「時は来ていない」の言葉を全く無視して、いや主への確かな信頼から「この人の言うとおりにしなさい」と言われます。主の言葉でなく、必ず何とかして下さるという確かな信頼があったのです。主も、慣習としての石の水がめを、喜びの用途として用いるために「ぶどう酒の奇跡」を為したのです。しかし「清め」とは何でしょうか。

 それはやがて迎えるイースターで私たちが覚えることです。主はこの世を清めるために、罪深い私たちを赦すために十字架に架かられたのです。その主はクリスマスにお生まれになりました。どこにか。不完全な世にです。この婚礼は実は主の登場から6日めの記載です。人の世は不完全、しかしその不完全なところに主は降りて下さったのです。欠け多い物を愛するために、「神は独り子をこの世に賜った」のです。この年もあと少しで終わります。新しい年も、共々に主のみ前に集いつつ、改めつつ、日々の力を頂く群れでありたいと思う。

2017年12月10日日曜日

12/9.10海と献花と教会 クリスマス動画


 曲は「 simple gift」です。
 徳山C2017年のクリスマスの様子です。

 
  12/9の小浜海岸の様子です。何か海岸の地形が変わったように思えます。
 沖の海流が変化したのでしょうか。
こちらは12/10徳山献花。ポインセチアです。クリスマスカラーが映えています。

 今週、聖書の学びは行われます。
 今週、来週ともに以下の日程で集会、礼拝が行われます。


12/12 (火) 徳山 聖書の学び 15時~16時



 
12/13 (水) 防府出張
12/16 (土) 12:00 益田 クリスマス礼拝
        
         19:30 六日市礼拝

12/17(日)10:45 徳山 礼拝 


いづれの礼拝、集会ともにどなたでもご自由にお集まりいただけます。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。




【マルコ福音書 1111節】
 マルコ福音書1221節には、「律法学者」の衣装そして内心が記載されています。「長い衣を」着て、「やもめの家を食い物に」する。もちろん、全ての律法学者が同じということはなかったでしょう。しかし主の目には当時の宗教者の一部が、そのような成り形で人々の前に居たのです。人目を引くための衣服を進んで着る。そして旧約ルツ記を読めば分かるように、本来は保護され、適切な援助を受ける「やもめ」たち、生活に困難を覚える女性たちを保護するどころか一層苦しめる。それが主の目に映る当時の一部の宗教者たちでした。

 今日の聖書「洗礼者ヨハネ」の、いわば奇抜な衣装と生き方は当時の宗教者へのアンチテーゼ(対照)だったのです。ラクダの毛皮と皮の帯とは、宗教者の衣服への対抗ですし、イナゴと野蜜という粗食は、「やもめの家を食い物」にして安逸をむさぼる宗教者への反論です。「主の道を整えよ」との言葉は、神さまと人との道をつなぐ、執り成す宗教者の本来的役割を意図的に見ない彼らへの注意喚起の言葉なのです。聖書は更に続きを語ります。

 ヨハネは「罪の赦し」としての洗礼を授けていました。この「罪の赦し」というのも、彼ら宗教者の貴重な収入源に他なりませんでした。ヨハネは「赦し」を「無償」で為しました。それも宗教者にとって憤りの源でした。そしてこのヨハネの姿こそ、成長された主に共通することなのです。それでは、私たちにとって「主の道を整える」の意味は何でしょうか。

 言うまでもなく神さま、イエスさまは、人の目には見えない道を通り私たちの所に来て下さいました。そして、私たちの知る一人ひとりの傍にも居て下さいます。道は既に整っているのです。しかし私たちには時に、主が共にある実感が持ち得ない。近しい隣人もただただ困難にあたふたするのみということがあります。私たちに出来ることは、主が共にあるという確信を保ち続けつつ、近しい人を覚えて祈る。そのことに尽きるのでしょう。


 






2017年12月3日日曜日

12/3 海と献花とクリスマス、動画

  12/2 礼拝は益田市小浜でも行われました。
 先週の写真が使い回されていますが、すみません。

  本日、礼拝が行われました。聖壇は紫、献花は情熱のバラ。
  礼拝後、教会員の指導する音楽教室のコンサートが行われました。
 こちらはラヴィアンローズの方々。
  こちらはピアノの独奏の男性。
こちらは教会員のチェロとピアノの協奏。
 お嬢様の結婚式で弾かれた曲が再度披露されました。
 そして。

 今年のクリスマスイルミネーションです。

今週、聖書の学びは行われます。
今週、来週ともに以下の日程で集会、礼拝が行われます。


12/5 (火) 徳山 聖書の学び 15時~16時

12/9 (土) 13:00 益田 小浜礼拝
        14:00 益田 元町礼拝
        19:30 六日市礼拝

12/10(日)10:45 徳山 礼拝 


いづれの礼拝、集会ともにどなたでもご自由にお集まりいただけます。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。



マルコ福音書111-11
 教会の暦は、社会の暦と違い一カ月早く新年を迎えます。「今年」は、201712月から来年11月末までです。そして今年、私たちはマルコ福音書を通してみ言葉を頂きます。この福音書の特徴の一つは、クリスマス物語が無いことです。主の記述に関して言えば、成長した主が突如、荒野で活動を始められるのです。だからと言って「クリスマス」の出来事、神の子としての主が地上に誕生されたことに無関心ではありません。今日の聖書にも、主のクリスマスの意義は表されています。その鍵の言葉は「ベタニア」という場所なのです。

 主が都エルサレムに入城なさる時、ベトファゲと「ベタニア」村の傍に関心を寄せられます。ベトファゲの意味は「イチジクの村」、ベタニアは「悲しむ者の村」。マルコ福音書では、この村はやがて「重い皮膚病の人が住んでいる」場所として説明がなされます。当時の人々が寄り付こうとしなかったベタニア村に、主は心を寄せられる。これが、クリスマスの一つの象徴的出来事です。つまり主は、神でありつつ人に関心を寄せて下さるのです。

 クリスマスは神の御子の誕生ですし、聖書の福音書はその神の御子の活動を記載したものです。言動については確かに世の耳目を引きましたが、姿形については華美を装いませんでした。むしろ主は、華美とは正反対の所に生きざるを得ない一人ひとりと共にあった。人々はそういう主に、世の変革者、革命の旗手としての役割を求め、大歓声を上げますが、当の主のお心は如何なものだったでしょうか。主の目線は「ロバ」と共にあったのです。つまり、低い所に押し込められて生きざるを得ない一人ひとりと共にあるということです。

 そして今日の結びがこの福音書の真骨頂です。ロバの子をお求めになった主は、エルサレム神殿見回り後に再び、ベタニア村へと帰られます。これはマルコ福音書の独自記事です。土地柄、ベタニア村にはエルサレムからの追放者が多く住んでいたと言われます。主はそのベタニア村にお心を寄せられたのです。クリスマスの出来事とは、まさに神が一人ひとりに共にあることです。主は今日の聖書でも、そのことをお示しになったのです。