2017年3月26日日曜日

3/26 礼拝と献花


 春らしい陽気の本日、礼拝の件かもまた春めいています。


こちらも献花です。あでやかな印象ですね。

 本日も徳山教会では礼拝が行われました。

 礼拝には本日、近隣のご夫婦、連れ立って来られた3名の方とも礼拝を守りました。

 礼拝前には自家用車の祝福式も行われました。

 礼拝後には愛さん。一升炊いたご飯があっというまに無くなりました。

 今週も徳山、益田、六日市では以下の礼拝、集会が予定されています。

3/28(火) 徳山 聖書を学ぶ会は休会となります。次回は4/4(火)15時からです。

3/31(土)13:00 益田 小浜礼拝
      14:00 益田 元町礼拝
      19:30 六日市礼拝

4/2(日)10:45 徳山 礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお集まりいただけます。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。




【ヨハネ福音書913-25節】
四旬節も後半の時期です。聖書に登場するファリサイ派は、人気を集めた主に嫉妬していました。前の段落で、主は盲人を癒し晴眼者とします。癒しの日は安息日でした。主のお働きは人々の知る所となります。人々はファリサイ派の顔色を案じて、ファリサイ派に言いつけます。晴眼者はファリサイ派の家で尋問されます。その目的は、主を罪人と証言させることです。

第一尋問は13-17節。第二尋問は18-23節。第三尋問は24-25節。段々と強い調子になっていきます。だが晴眼者はしなやかで強いのです。この強さの源は何でしょうか。晴眼者の強い理由は二つあると思います。①主による癒し 主による「見えない状態は神の栄光の顕現」との宣言です。癒して下さった主への感謝として強くしなやかになった。加えて、病を「神の栄光の顕現」と見るその見方にも嬉しかった。感謝の思いが溢れたのです。

これまで晴眼者は、町はずれで物貰いすることが仕事でした。眼も、本人や両親の罪の結果と言われ続けたのです。因果応報思想で自身や両親や先祖を呪っていたでしょう。だが主は、神の栄光と語ります。当人がその不思議な言葉の意味を問い、反復したでしょう。なぜ「盲人の状態が神の栄光か」と。因果応報から来る自己追求、自己叱責を止めさせることが主の意図することでした。晴眼者は新しい生活が始まる…否、無理なのです。

ファリサイ派の為すべきは晴眼者への完治宣告と身体の解放ですね。でも彼はファリサイの家から追い出されます。完治しても、盲人という立場のままという不思議な社会でした。そんな彼を主は共に生きるものとされます。私たちは、自分自身の状況をどう思うか。責め、呪う時もあるかもしれません。だが神は私たちを用いるのです。神さまの栄光の顕現として用いるのです。神さまが皆さんに何を為すか。共に祈り、考え、用いさせて頂きたい。
 


2017年3月19日日曜日

3/19 礼拝と献花と大阪行き

 本日は2組の献花がなされました。
 お一人はご自分の勤務先の大学の卒業式で頂いたというお花。
 華やかです。
もう一つは春らしいお花。
 花の名前は良く分からないけれど、素敵です。

 本日も礼拝と愛さんが徳山Cで行われました。
 礼拝後には、西教区の行事で牧師と教会員は、大阪のルーテル教会に行きます。

 
 今週も徳山、益田、六日市では以下の礼拝、集会が予定されています。

3/21(火)15:00 徳山 聖書を学ぶ会

3/23(木)13:00 益田 小浜礼拝
      14:00 益田 元町礼拝
      19:30 六日市礼拝

3/26(日)10:45 徳山 礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお集まりいただけます。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。



【ヨハネ福音書45-15節】
聖書に登場する「ヤコブの井戸」とは旧約聖書に由来があります。ヤコブは、次男でしたが長男の相続財産欲しさに、父と兄を欺いた人物です。自身の思惑で周囲を振り回し続けたのです。ただ神は、利己的なヤコブを顧み、旅中の渇きを潤すため、この地シカルを示した。そんな古事のある場で,逆に「人に振り回された」女性と主が不思議な形で出会います。

彼女は辛い過去を持つ女性です。当時、離縁に関して「夫が妻に恥ずべき所を見出したら」(申命記241-4)離縁してよいという決まりがありました。「恥ずべき所」とは、男性側の解釈で如何様にも捉えられる言葉です。不品行を働いて離縁される場合もあるでしょう。いい加減な理由で離縁することもあったでしょう。そして同申命記内に、女性側からの離縁切り出しについて述べている箇所は無い。女性の存在は軽視されていたのです。

五回の離婚を経験しているのがこの女性です。理由は不明です。初回の結婚当初から、男性たちの我儘に振り回されたのが彼女でした。道徳を重んじるサマリアの人にとって、彼女の行いは容認できるものではありませんでした。結婚した男性の方にも責めるべきことはあったでしょうが、申命記の記述故に、同郷の人々、特に女性から疎遠にされ、同棲の男からは正式な結婚約束を交わしてもらえない、人の情けと程遠い所に居る彼女です。

「水を飲ませて下さい」と主は彼女に頼みます。実際主は「渇いていた」のですが、それは同時に、彼女に自身の心身の渇きを話させる契機の言葉「誘い水」の言葉でした。主と彼女の問答は複雑ですが、15節で彼女は主のお心通り、自身の孤独と渇きを告白します。自分自身の状況を包み隠さず述べることが出来たのです。私たちにとって、「生きた水」とは何でしょうか。①神さまから託された恵み その水を互いに分ちあうこと です。

2017年3月12日日曜日

3/12 礼拝と献花

礼拝堂に捧げられた鉢植えの献花を、教会の姉妹が植え替えました。
感謝です。

こちらが本日の献花。


 今週も徳山、益田、六日市では以下の礼拝、集会が予定されています。

3/14(火)15:00 徳山 聖書を学ぶ会

3/16(木)13:00 益田 小浜礼拝
      14:00 益田 元町礼拝
      19:30 六日市礼拝

3/19(日)10:45 徳山 礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお集まりいただけます。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。



【マタイ福音書2017-28節】
主の受難予告の後、ある母が息子たちの栄達を願いますね。息子たちを思う母心を見て取れます。母とされた者は、幾つになってもその子を案ずるものです。一方で、神さまも我が子主イエスを案じています。だが神さまは自らの子を活かさず、一旦は十字架に引き渡すのです。四旬節という教会暦のとき、まず覚えたいことが神と私たちとの違いです。

だが他の弟子たちはこの母子に立腹。何に腹を立てたのか。この憤りは何が理由か。抜駆けの栄誉獲得宣言でしょうか。苦難を受け得ると明言した二人への焦りでしょうか。母が願った、母に願わした点でしょうか。主の受難予告後の身勝手な発言への憤りでしょうか。断言はできず可能性の一つを挙げているのですが、そのどれもが真なのでしょう。

しかし主は、仕えるという自身の姿勢を最後にお話になります。実はこの母は、聖書で味わい深い場面に再登場します。主の十字架時、主の最期を見届ける眼差しの中の一つなのです。この母の心は如何でしょうか。大言し、そこに居ない息子への恥の心でしょうか。十字架上で、このような母の心を主もご存じだったのです。復活後の主は、その御用のため二人を整えて行きます。やがて盃を(殉教)飲む二人。整えられていったのです。

教団讃美歌510は、母の日の讃美歌として知られていますが、これは実は史実に基づく讃美歌です。息子の放蕩や我儘や不品行を見兼ねたある母が、教会の神父に涙ながらに相談します。すると神父は「あなたの涙の子は滅びない」と力強く母に告げるのです。「涙の子は滅びない」皆さんの、涙しつつ祈る対象は決して滅びることはありません。主の守りの中で今日と言う日を生き、今週の日々を過ごすのです。だからこそ私たちも、主が勧められた「仕える」つまり、身近な所でお世話するという働きの一つに加わりたい。