2017年10月22日日曜日

10/21.22 海と献花と礼拝

  10/21 小浜の海です。荒れています。中央の●は鳥。飛ばされそうです。

10/22 徳山礼拝堂です。照明を落としての撮影です。影が十字架を照らしています。

先週も、うっかり更新をわすれていました。

昨日、本日ともに、益田小浜、益田元町、六日市、徳山で礼拝が行われました。


聖書の学びはございます。今週、来週ともに以下の日程で集会、礼拝が
 行われます。


10/24 (火) 徳山 聖書の学び

10/28 (土) 13:00 益田 小浜礼拝
        14:00 益田 元町礼拝
        19:30 六日市礼拝


10/29(日)10:45 徳山 礼拝 


いづれの礼拝、集会ともにどなたでもご自由にお集まりいただけます。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。



【マタイ福音書2133-44節】
先週の「温情のブドウ園」とは、主の語る対象も、お語りになった場所も違っています。しかしお語りになるのは主です。今日の聖書でも主人は「温情」をブドウ園と働く農夫たちに注ぎます。そもそも農夫たちは主人によって雇われた人々。主人は働きやすいように整備をします。しかし農夫たちはその主人の温情を仇で返します。救いようのない話です。

この話を私たちはどう読むか。主のお気持ちを汲めば、これはユダヤの昔から今に遡る話と読むのが妥当です。神は天地を想像し、それを人の管理に任せた(創世記)、しかし人は背信を繰り返し、預言者たちを侮辱する(預言書)、ついに農夫は主人の独り子も殺害する。主がこれから辿られる道を前もって語られたということです。話の場所はエルサレム神殿、目前には宗教者たちが居ますから、語る主も聞く宗教者たちも、緊張の面持ちでしょう。

ユダヤの昔の歴史は上の通りです。でも私たちは、この聖書の話をどのように自身に適応するでしょうか。「預かり物」で考えてみましょう。農夫が主人から預かっていた「ブドウ園」は、ユダヤの国土や人々でした。私たちが神さまからお預かりしているものは何か。ルターの讃美歌267、4節の原詩は「我がたから、我が妻子」と語っています。「自分自身」もそうですね。大きな所では、地球や環境も然りでしょう。大切な預かり物なのです。

 それらを「ほしいまま」にしている人間社会です。不遜な農夫は実は私かもしれません。主の憤りと悲しみは私たちに向いていることを自覚したい。それだけでなく、聖書最後の「隅の親石」にも注目したいと思います。そのような不遜な農夫のためにも、主は「要石」となって下さるのです。主が引用した詩編には「だから、今日を喜び祝おう」と続くのです(詩編11822)。「今日を喜ぶ」それは例えば、朝起きたときや寝る前に感謝の祈りを為すことで得られるものです。それが「預かり物」を有効に用いることです。
 

2017年10月8日日曜日

10/8 礼拝と献花

 10/7 徳山は曇天から一転して雨天。その中を中国山脈を越えて益田市小浜に着きました。
 山陰も雨だったのでしょうか。
そして10/8、各地で30度を超えていると先ほどニュースになりました。
日差しは確かに夏です。
献花は、召天された御夫君を覚えてのものです。

先週はうっかり更新をわすれていました。

昨日、本日ともに、益田小浜、益田元町、六日市、徳山で礼拝が行われました。


聖書の学びはございます。今週、来週ともに以下の日程で集会、礼拝が
 行われます。

10/9(月)納骨の祈り

10/10 (火) 徳山 聖書の学び

10/14 (土) 13:00 益田 小浜礼拝
        14:00 益田 元町礼拝
        19:30 六日市礼拝


10/15(日)10:45 徳山 礼拝 


いづれの礼拝、集会ともにどなたでもご自由にお集まりいただけます。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。



【マタイ福音書1821-35節】
 「赦し」についての主の話です。「あなた方が、心から兄弟を赦さないなら、天の父も同じようになさる」主のその言葉に驚くのは、私だけでしょうか。私たちはもちろん、「赦し」の大切さについては分かっています。けれどそれが実行できるかどうかというところで、み言葉を読む度に苦悩するのです。過去のことや、直近のことが脳裏に浮かび、誰かを赦せない自分自身を知らされるのです。主は私たちを苦悩させる方でしょうか。

 「赦し」を、一つの努力義務と考える時、私たちは行き詰まります。けれど主の意図は、私たちを行き詰まらせません。先週の聖書で主は、「赦し」について二つのことを言われました。一つ目はやはり、「とにかく赦す」。二つ目は、「神さまの赦しに共に立つ」。二つ目の場合、私たちが誰かを赦すということは不要なのです。「主よ、私はあの人を赦せません。けれど主があの人を愛して下さる事に感謝します」。主は、ご自身を通して、全ての人を赦すという道を、聴く弟子たちや私たちに開いて下さったのです。しかし。

 弟子ペトロは、主の赦しのことを曲解します。主が二つの「赦し」を語られた直後なのに、「兄弟が罪を犯したら、何度赦すべきか」と、自分が誰かを頑張って赦す、という所に留まり続けます。しかも「7回までですか」と。回数を数えることは、赦しではなく我慢ですね。話をロクに聞かず、赦しを自分だけのこととしたペトロが居たからこそ、「心から兄弟を赦しなさい」それが出来るか?と主はペトロに告げたのです。主は、人が人を心から赦すことは出来ないのをご存じです。だから「神さまの赦しに立つ」と告げたのです。

 例え話の内容については、分かり易いものです。神さまから多くを赦されたのに、人はその隣人を赦せない。自分の100デナリオン、自益のみを考えると、人のことを赦せなくなるのです。私たちは、神さまから赦されている、その神さまがあの人のことをも愛して下さる。それは、言うならば、自分が頑張って赦すことではありません。主の、無限の愛に委ねつつ、いささか住みにくいこの世を、信仰をもって生きるということなのです。