2017年11月26日日曜日

11/25.26 海と礼拝と飾りつけ

  徳山Cの献花です。教会の暦は来週アドベントですが、
 まさにアドベントのアドベント(待つ)の献花、クリスマスから―でした。
  さかのぼって昨日の海、最近小浜海岸では、海岸の地形が変わっています。
 何が起きているのか分かりませんが、昨日の波は荒かったでした。

立ち返って本日の徳山C礼拝後、飾りつけが行われました。
庭に自生するハーブが用いられ、匂いたつリースです。

今週、聖書の学びは牧師の出張の為、行われません。
今週、来週ともに以下の日程で集会、礼拝が行われます。


11/28 (火) 徳山 聖書の学び 休会です。

12/2 (土) 13:00 益田 小浜礼拝
        14:00 益田 元町礼拝
        19:30 六日市礼拝

12/3(日)10:45 徳山 礼拝 


いづれの礼拝、集会ともにどなたでもご自由にお集まりいただけます。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。




【マタイ福音書2531-46節】
 主は、今日の聖書できっぱりと線引きをなさいます。「善いことをすれば、たくさんの祝福があり、善いことと知りつつもしなければ、永遠の罰が待っている」と。歯がゆいお言葉と言えるでしょう。私たちの日々には、そんなきっぱりと線を引くことは出来ないのです。ルターは、なるほどと思える言葉を言います。今日的に直せば「私たちは実は乗用車で、運転席を巡って、主と悪魔とが争っている」と。悪魔が運転するときは、車は危険なほうに向くし、主の運転時にはゴールドドライブ、そんな日々を送っているのが私たちです。

 つまり、今日の聖書があるからといって、極端な解釈は不要なのです。「一度でも御心に叶わないことをしている自分は、永遠の罰だ」と決めつければ、永遠の罰を受けなければならない人で彼の地は溢れかえるでしょう。100%の善人はなく、100%の悪人もいない。それではこの聖書を私たちはどう読めば良いのか。ヒントは「羊と山羊」の個性にあります。

 羊は聖書の時代、群れなくては生きられない動物と見做されていたようです。一方で山羊は、レビ記の記述を読めば単独でも生きられる動物と考えられていたようです。実際、そうですね。羊には羊飼いや牧羊犬が付き添いますが、孤島で山羊が繁殖したという話も聞きます。つまり、羊とは関係性の中で生きる動物、山羊は単独で生きる動物。私たちには、そのどちらの時もあるとつくづく思わされます。羊的部分、山羊的部分を持つのです。

 実はこの後、主ご自身も多くの人の「山羊的部分」に直面されます。その時主は、山羊的な人々にも「永遠の罰だ!」との裁きをおっしゃったでしょうか。いいえ、山羊的な人々にも福音を語ったのです。他者とのかかわりを一方的に破却した「強盗」の人にも「天国」をお語り下さったのです。主はなぜ、山羊的な人とも共にあったのか。それは、山羊的な人にも天国が約束されていることを示すと同時に、その羊的部分が少しでも伸び、山羊的部分が少しでも減るようにという主の願いからです。皆さんの中には、山羊的部分はありますか? 私はあります。少しでもその山羊が減ることを、共々に願う群れでありたい。

2017年11月19日日曜日

11/16.19 海と礼拝と献花

 11/16の小浜海岸です。いつもとは違うアングルです。
 北風吹き込む海岸に立つ、松の木です。
 この後、いつもの家で礼拝が行われました。
  11/19徳山C廊下の十字架です。
  プレゼント包みはアドベントキャンドル。柳井の方が捧げて下さいました。
  11/19 清掃後の教会です。
  皆さまのご奉仕のおかげで綺麗になりました。

そして11/19礼拝堂の献花です。
 こちらも感謝なことです。

今週、聖書の学びは牧師の出張の為、行われません。
今週、来週ともに以下の日程で集会、礼拝が行われます。


11/21 (火) 徳山 聖書の学び 休会です。

11/25 (土) 13:00 益田 小浜礼拝
        14:00 益田 元町礼拝
        19:30 六日市礼拝

11/26(日)10:45 徳山 礼拝 


いづれの礼拝、集会ともにどなたでもご自由にお集まりいただけます。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。



【マタイ福音書251-13節】
 「油」が欠かせない時期となりました。油は自動車にもストーブにも、そして私たちの身体にも欠かせないものです。主の時代は「オリーブ油」が用いられていました。ちなみに油は英語で「オイル」ですが、これは「オリーブ」を語源とするものです。古くは灯火として用いられ、聖書でも「灯」の燃料としての記述があります。今日の聖書は、一読してもなかなかその意味がつかみにくい。というより、例え話の細部が気になってくるのです。

 ただ、細部に気を取られ過ぎるとみ言葉の真理を見失います。今日のみ言葉の真理は、「油を欠かさないように」という勧め、「油の補給場所があります」という支え、つまり「油」の意味を解きほぐすことで明らかになります。それで、「油」とはこの聖書の話の中で、どのような意味を持っているでしょうか。油は灯の原料ですし、その灯は所持者であるおとめたちを輝かすためにあるものです。油は、おとめたちにとっては自身の居場所や自分自身を明らかにさせるものですし、家の主人や花婿にとっては、道を照らす誘導灯です。

 ぼんやりとした表現になりますが、油は「私の元気の源」とでも言えます。今日の聖書の大きなテーマは「終末」でして、これはいわば、「私の地上の生涯の過程」を意味します。その過程の中で、おとめたちが待ちくたびれて皆寝てしまったように、私たちも疲れる時が来るのです。花婿なる神さまが来られるとき、つまり私たちが神さまにお会いする時、とてもその準備が出来ているとは言い難い。神さまに胸を張って、その時を待てるものとは言い難い。なぜなら、私たちは毎日忙しくしていて、自分の油の残量など測れないのです。

 その意味で私たちは「愚かな」おとめたちなのかもしれません。でも私たちの時代、油の場所は明らかです。それは教会。何と油の給油代は無償なのです。しかもセルフスタンドなのです。牧師の働きとは、皆さまに油をお届けすること。ただ一つだけ、皆さまに為して頂きたいことがあります。それは、車で言えば「給油口」を開ける事。つまり、共々に全能なる神さまのみ前に心を開いて集い、この無償の油を受けとる群れでありたいと願う。
 

2017年11月12日日曜日

11/11.12 礼拝と献花と海

 11/11の益田小浜の海。この日、小浜の礼拝出席者が「北海道や東北では大しけのようですね」
と言われましたが、その低気圧の余波をくらい、小浜海岸も大荒れでした。

  11/12の徳山C礼拝堂献花。十字架の下に花があるようです。

11/12 礼拝堂外の廊下の献花。こちらも十字架のたもとに花があります。

 11/11.12ともに、益田小浜、元町、六日市では礼拝が行われました。
 
ことに、六日市礼拝前には、急きょ滋賀県大津に転居が決まったお宅でも礼拝が守られました。

寂しい限りですが、新たな場所での生活が整えられることをいのります。


今週も聖書の学びはございます。今週、来週ともに以下の日程で集会、礼拝が
 行われます。


11/14 (火) 徳山 聖書の学び

11/16 (木) 13:00 益田 小浜礼拝
        14:00 益田 元町礼拝
        19:30 六日市礼拝

11/18(土)会議のための大阪出張
11/19(日)10:45 徳山 礼拝 


いづれの礼拝、集会ともにどなたでもご自由にお集まりいただけます。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。



【マタイ福音書2234-40節】
 「心と精神と思いを尽くし、神さまと隣人を愛すべし」とは、キリスト教の黄金律として知られています。古典の金言として見れば良い言葉ですが、自分のこととして見ると難しい言葉です。「全身全霊で神さまと隣人を愛する」など、主には可能でしたが、自分には出来ない。いわば「自分の影」を見つめさせられる言葉と言えましょう。しかし元々、この言葉を言われた主は、全ての人に公言なさるおつもりでなく、一部の人が対象だったのです。

 その一部の人とは、当時の宗教者です。マタイ福音書22章とは、主のご生涯の後半です。舞台はエルサレム神殿のど真ん中で、この言葉の対象はファリサイ派です。元来主は、その人々に語られたということを覚えたいのです。そう考えると、この言葉は「黄金律」ではなく「厳しい」言葉に他なりません。まず「心、精神、思い」についてです。なぜ主は、同じような言葉を用いて神さまと隣人を愛することをお伝えになったのか。それは、この三つの言葉に「同じようでいて、微妙に違い、かつ宗教者の課題を言い当てる」要素があったからなのです。

 すべて当時の意味ですが、「心」とは善悪の判断を自発的に司る機関でした。「心を尽くす」とは、自発的に神さまと隣人を愛していくことです。律法を達成することに頼り切っていた宗教者への批判です。「精神」とは、神さまの息吹を表す言葉です。彼ら宗教者は、神さまからの息吹でなく厳しさを人々に突きつけた、その批判です。「思い」とは、他者への関心です。実は今日登場した「ファリサイ派、サドカイ派」は、主を倒す目的のため一致していましたが、普段は関わりがありませんでした。自己満足、自己完結の信仰で他者に思いを寄せない当時の宗教者への批判です。その主の厳しさはマタイ福音書23章に、語調険しく続きます。

 さて、私たちはこの言葉をどう受け止めるか。「達成できていない」と自分自身を嘆くこともあるでしょう。しかし、そのような自分の影だけを見つめない。影があるのは、光があるからです。自分自身を照らして下さる神さまを覚えます。すると不思議なことに、「神さまから愛され、隣人から愛されている」という、受動の自身に気付かされるのです。