2018年3月18日日曜日

3/17.3/18 ハリセンボンと海と献花、折り紙

  3/17 小浜の海にハリセンボンがたくさん打ち上げられていました。
 
  本日の小浜海岸は少々の荒れでした。
  3/18 徳山礼拝の献花です。会員がお嬢さんを偲びつつ、捧げて下さいました。
3/18 徳山礼拝後、折り紙教室が開かれました。
 さくら。牧師室の壁で、一足早く咲いています。花見をせねば。

四旬節第5主日の今日、教会の礼拝ではこういうことがありました。
1 初ばいさんを迎える教会の幼子のために、N姉が証しをしてくれました。
  讃美歌237「ああ主のひとみ」を歌い、イエスさまのまなざしが、
  そのひとみがこどもたちに向いていることが話されました。
  宮沢賢治の「よだかの星」とも重なる話でした。
2 かつてN姉を育てられ、今は御国にあるおじいさまのために、祈りがなされました。  3 礼拝後、周南市内にお住まいの保護司の方が、折り紙を教えて下さいました。

今週、来週ともに礼拝、集会は以下の日程で行われます。

3/20 火曜日 聖書の学び 15時より

3/24  13時 益田市小浜礼拝
    14時 益田教会礼拝
    19時 六日市礼拝
3/25 10時45分 徳山礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

本日の礼拝説教要約は以下のとおりです。



【ヨハネ福音書1240-50節】
 日常生活の中で「叫ぶ」ことは、余程のことが起こった時です。聖書は「主の叫び」から始まります。これは、直前に主の心を「叫び」へと駆り立てる出来事があり、直後の主の言葉こそ「魂の言葉」ということです。誰に向いているのか。ユダヤ教宗教者たちです。他の福音書と同じく、ヨハネ福音書で主は宗教者たちと緊張関係を保っています。と同時に、主としては宗教者たちの心を解きほぐそうと試みておられます。主は、宗教者たちの抱える重荷をご存じであり、重荷ゆえに頑なになっている心を顧みて、何とかしようとされるのです。

 しかし宗教者たちは主の心を汲みません。むしろこの福音書初頭から主を不審者扱いするのです。祭司を遣わして主を尋問します。しかし主は遣わされた人々に神さまの愛を伝えます。当時一般的な「裁きの神」でなく、「愛の神」をお語りになったのです。それ故、「議員の中に主を信じる者」が出てきます。しかし「外聞や体面を恐れ、主を信じない」のです。当時は三位一体信仰でなく、唯一神への帰属が求められました。主を信じることは異端と見做されていた、だから「主を信じることは、神さまを信じること」と叫ばれたのです。

 続けての主の言葉に宗教者を責める要素はありません。「守らない者でも裁かない」と。「守らない」とは「守る意思がない」その者でも良いのです。彼らは一度「聞く」のですが、色々と理由を付けて「守らない」のです。一方で「拒み、受容しない」者には厳しい結末が語られます。「守らない」者と「拒む」者との違いは何か。「聞く人々」と「聞かない」人々です。主の言葉を一度でも「聞いた」人々には、主はじっくりと関わりを持ち続けられるのです。

 その関りは当時の宗教者はもとより、私たちの家族、近しい友人も同様です。この福音書は一読すると、厳しい二極性に目が留まります。「裁きと救い」「光と闇」など。ただ要点は「囲いの外の羊も導く(10)」ということなのです。愛を向けられている宗教者は、この後主を十字架に付ける算段を始めます。それも主はご存じでした。それでも主はお言葉を語り、そして復活の日を迎えられます。主の御心から外れる人は、誰もいないのです。


2018年3月11日日曜日

3/10.11 海と礼拝、たくさんの献花

3/10 益田小浜の海です。この後、礼拝が守られ、その後益田市内に移動し
 礼拝を行いました。夜は六日市で礼拝。星がきれいでした。
 3/11 徳山礼拝の献花です。
 玄関ホール
  受付の花
  礼拝堂 会員が庭で育成している花が捧げられました。
礼拝堂 白い椿です。

 四旬節第4主日の今日、教会の礼拝ではこういうことがありました。
1 初ばいさんを迎える教会の幼子のために、O姉が証しをしてくれました。
  讃美歌461「主われを愛す」を歌い、イエスさまが12弟子のために、
  最初の聖餐式を行って下さったことが語られました。
2 今週、召天日を迎えられる姉妹のために、祈りがなされました。
  その方のご母堂も集われました。
 3 礼拝後、教会員が実行委員長を務める「光市 なぎさ復活コンサート」に出かけてきました。

今週、来週ともに礼拝、集会は以下の日程で行われます。


3/13 火曜日 聖書の学び 15時より

3/17  13時 益田市小浜礼拝
    14時 益田教会礼拝
    19時 六日市礼拝
3/18 10時45分 徳山礼拝
   13時  折り紙教室

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

本日の礼拝説教要約は以下のとおりです。



【ヨハネ福音書3章1321節】

 聖書は私たちに、いつでも答えを指し示します。今日の聖書は「議員ニコデモ」との一連の対話の中にあります。議員ニコデモは老いたる人でした。ユダヤ教宗教者(議員)として、宗教政策の決定や祭祀に携わっていました。この時点の主は、ユダヤ教宗教者にとって煙たい存在でした。主のもとを訪ねたニコデモの意図が、本人のみなのか周囲の総意を受けてなのかは定かではありません。しかし彼は「夜」に主のもとを訪ねます。後ろめたい心があったのです。

 何の後ろめたさか。同僚の宗教者集団は、神殿再建の負担金集めのため、強引に振舞っていたのです。同僚の無体な姿に恥じ入り、人目を忍んで主のもとを訪ねたのでしょう。対する主の言葉は、実はニコデモへの愛に溢れたものです。14節「荒野の蛇」の古事の意味は、「傷ついた者への癒し」です。古事と主の高挙が「ように」という言葉でつながっています。主は「モーセは青銅の蛇を高挙することで人を癒したが、私は自身が高く挙げられることで人々を癒す」と言われます。その対象は全ての人です。ニコデモも、他の人々なのです。

 聖書の後半部の「裁き」には、目を開かせられます。信じない者は裁かれる。この時点での主のお言葉です。しかし主は、信じない者のために十字架に上がられました。信じない宗教者と共に在り続け、向き合い、その思惑を知りつつも十字架に上がられたのです。主はどこにいるのか。主は、悩み、苦しんでいる全ての人と共に居られるのです。戦後、浦上天主堂のマリア像は「被爆マリア」と呼ばれました。大震災後「主は津波で流され、被爆した人々と共にある」と考えられています。主は、困難な人と共にあり、癒しを給うのです。

2018年3月4日日曜日

3/3.3/4 海と礼拝と献花



  3/4 徳山Cでは礼拝後、花壇を整えました。
 道の駅「にしき」で買われた花が、教会庭で春を告げます。
  こちらは「レンテンローズ」。レンテンとは「四旬節」を表し、教会の今の時期を表す
言葉でもあります。何と花は紫と白。受難を意味する紫と、復活を意味する白。
教会員が自身の誕生を覚えて、庭の花を捧げて下さいました。
  こちらが、より紫が映えています。
  これは3/3の益田小浜の海。多少荒れていました。満潮のようでした。

庭の花を接写しました。

 四旬節第3主日の今日、教会の礼拝ではこういうことがありました。
1 初ばいさんを迎える教会の幼子のために、K姉が証しをしてくれました。
  讃美歌453「ささやかなる」から、神さまの愛が一人ひとりの心にしずくとして
  注がれていることが証しされました。
2 白内障の手術をなされた姉妹が、自分の目ではっきりと聖書、讃美歌が見える
  幸いの感謝の祈りをなさいました。
3 過日、召天された徳山教会のI姉の49日法要が済まれたことが覚えられました。

今週、来週ともに礼拝、集会は以下の日程で行われます。


3/6 火曜日 聖書の学び 15時より

3/10  13時 益田市小浜礼拝
    14時 益田教会礼拝
    19時 六日市礼拝
3/11 10時45分 徳山礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

本日の礼拝説教要約は以下のとおりです。


【ヨハネ福音書213-22
 主は、人の心にある深い思いを引き出される方です。「この神殿は建てるのに46年もかかった」とは、今日の聖書で宗教者が語った言葉です。実は、この一言に当時の宗教者の重荷が秘められていたのですし、主はその宗教者の深奥にある思いを引き出されたのです。

46年かかった」とは、文字面を見れば年月のことだけです。しかし建築には、年月と資金が要ります。神殿造営の命令はヘロデ大王が出したものですが、その負担をヘロデ大王は直接的には当時の宗教者に、間接的に領民に課したのです。ごく特別な祭りを、建設期間中にはいつでも開催出来るようにし、その上がりを建造資金に要求したのです。加えて、神殿に両替商人を置きました。当時の公用貨であるローマの貨幣は神さまが喜ばれないが、昔のユダヤの貨幣を神さまは喜ばれるのだ、という勝手な理屈をこねたのです。動物商人も両替商人も、ヘロデ大王の命令下、宗教者たちの負担軽減のために働いていたのです。領民たちはひたすら絞られ、宗教者たちも良心とは違う処での金もうけを求められていたのです。

46年かかった」それは「46年も大王に重荷を負わされてきた」宗教者たちの良心の声でもありましょうし「46年も領民に重荷を負わせ続けて来た」とのざんげの声でもありましょう。宗教者も板挟みなのです。そして、内心はともかく宗教者は領民たちに負担をかけた。領民たちも現実と負担との板挟みなのです。主は、全知全能の方ですから、宗教者と領民の心を分かります。主も板挟みだったのです。そこで主が取った行動は、取り急ぎ神殿の本来の機能回復としての宮清め。主の心は宗教者たちも弟子たちも分かりません。とりわけ収入源を絶たれた宗教者たちは怒りをくすぶらせ、主を十字架に付ける算段を始めます。


 しかし主は「三日で立て直す」と明言されます。主の十字架は、一面ではこの宗教者たちのたくらみに陥ったものです。でも神さまも主も、そのたくらみ水泡にします。復活をその後に予定していたのです。主は、私たちの抱える状況をご存じですし、そこから立ち上がる助けをも為して下さいます。立ち上がった私たちはどこへ行くのか。隣人のもとへ。