2018年4月29日日曜日

4/28.29 荒波と野の花、百合の花

  4/28 の益田小浜の海です。
 荒波ですが、すがすがしい天気でした。
  4/29 徳山献花1です。H家の庭の花が捧げられました。
  徳山献花2です。F家が百合の花を捧げられました。
徳山献花3です。K家の庭に咲いているバラの花が捧げられました。

 本日の献花当番が「教会」となっていたために、教会員の皆さまが
 ご自分の気の付くお花を捧げていただきました。

 復活後第4主日の日曜日、教会の礼拝ではこういうことがありました。1
1 先々週土曜日、会員宅の愛猫が居なくなりましたが、不明のままです。
  どこにいても、神さまの守りがあると聖書を通して祈られました。
2 教会の礼拝当番にあたっている方が、お仕事のために休まれました。
  代わりの祈りをささげた教会員が、その方のお仕事や生活のために祈りました。
3 肌寒さは残る4/28の夕方、六日市でも夕べに礼拝が行われました。
  礼拝後には迫る六日市合同礼拝のことが話し合われ、
  その後、キャラメル、ゴーフルみたいなお菓子、お饅頭がおやつとなりました。
4 益田の小浜、元町でも礼拝が行われました。
  元町の方は保育園にお勤めですが、4/29に「銭太鼓」という伝統音曲を
  子どもたちと共に地域の祭りで披露されるそうです。
5 徳山では、愛さんに味ご飯、味噌汁を頂きました。
  付け合わせにはとれたてのキャラブキ、わさび漬けが出されました。
  S姉が昨日山登りを為さり、その帰り道に収穫したキャラブキと
  買われたワサビ菜ということでした。

今週、来週ともに礼拝、集会は以下の日程で行われます。

5/ 1 火曜日 聖書の学びは休会です。
5/ 5 土曜日 13時 益田市小浜礼拝
        14時 益田教会礼拝
        19時 六日市礼拝
5/ 6 日曜日   10時45分 徳山礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

本日の礼拝説教要約は以下のとおりです。



【ヨハネ福音書15:1-10
 主は「ブドウの木」の話を通して、私たちに「つながり」を告げておられます。「神さまと私たち」「先に召された存在(人、動物)と私たち」とも、イエスさまを仲立ちとしてつながっている」。これは教会でしばしば聞かれることです。然りのことです。ではその「つながり」とは何か。要は、神さま、イエスさま、そして召された存在は、常に私たちのことを気にかけている。居る所は別々でも、向こう側(彼方)からこちら側への心は向いていることです。

 それは、ヨハネ福音書15章を呼んでも明らかです。文脈としては、主の弟子ユダが裏切るために退出し、ペトロが主に忠誠を誓うも離反を告知される13章の後に位置しています。「これからどうなるのか」という不安は弟子の中にあったでしょう。離散し、個別あるいは集団で潜伏する弟子たちの心情を見越す主の心配心もあったでしょう。それゆえに「つながり」を主は語るのです。主は「つながり」に加えて「弟子たちが実を結ぶ」ということを言います。この体たらくの弟子たちの結ぶ実とはなにか。どのようにしたら実るというのでしょうか。

 鍵の言葉は3節です。「清くなっている」という前後の脈絡にはない言葉が出てきます。原語では「聖別されている」「分けられている」という意味です。ブドウの花で言えば、実を結ぶべく受粉しているということです。弟子たちは今後、本心のままに動きますが、すでに「み言葉」によって「実を結ぶ者として分けられている」のです。全ての花は、自ずから実を結ぶことはありません。媒体とする物の故に実を結び得るのです。弟子たちは既に、主のみ言葉によって、やがて人生、宣教の実を結ぶ。「恵みと喜びは先立って与えられる」のです。

 ルターは、行為優先(奉仕、献金)の教えが勝っていた501年前のドイツで、「恵み優先」の聖書の教えを宣べ伝えました。聖書は初めから、「恵み優先、神さまの愛優先」を告げています。神さまの子どもとしての弟子たち、私たちはつい気を外に向けてしまいます。でも神さまが私たちの手を握るその強さは、まことに強いものなのです。私たちにとっての実は例えば「喜び(笑顔),感謝(ありがとう),祈り(気づかい)」でしょう。一つでも結びたい。

2018年4月26日木曜日

4/21.22 赤潮と献花

  はじめにさわやかな緑から。
 庭のブナの木です。青葉が育っています。
  礼拝堂献花。背後から朝日が十字架と献花を照らしています。
 なんと赤潮。4/21の益田小浜の海です。
 こういうこともあるのです。
最後は徳山の庭。「500円で買った」という花が、9面のプランターで咲き誇っています。
さすが道の駅の花。水がきれいで、こんにゃくとわさびが名産の場所です。
イノシシも飼われていますし、マンゴーアップルソフトクリームも売っています。

 復活後第3主日の日曜日、教会の礼拝ではこういうことがありました。
1 朝、会員宅の愛猫が居なくなったという知らせを受け取り、
  そのことが礼拝の中で覚えて祈られました。
2 礼拝前には、柳井CのNPO法人「一粒の麦」のメンバーの方々を支援する
  「古紙、段ボール」が大量に持ち込まれました。
  この古紙は毎週火曜日に柳井に運ばれます。
3 新緑を見出せる時期、六日市でも夕べに礼拝が行われました。
  礼拝後にはレモン饅頭、かりんとうがおやつとして出されました。
4 益田の小浜では赤潮が広がっていました。
  けがをされた方は、讃美歌を朗々と歌い、回復を感じさせています。
5 徳山では、大根菜飯、タケノコ煮物、卵汁を頂きました。


今週、来週ともに礼拝、集会は以下の日程で行われます。

4/ 24 火曜日 15時 聖書の学び

4/ 28 土曜日 13時 益田市小浜礼拝
        14時 益田教会礼拝
        19時 六日市礼拝
4/ 29 日曜日   10時45分 徳山礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

本日の礼拝説教要約は以下のとおりです。



【ヨハネ福音書211519
 聖書は「自身で読む」ことでも恵みが示されます。でも今日の聖書は「教会で聞く」中でその真意が分かります。私たちが日本語で聖書を一読して見出すのは「主は三度、愛を問う」ですし、思うことは「三度否認したペトロだから、三度愛を問うたのだろう」ということでしょう。私も当初はそう考えていました。ただその見方の中で浮かんでくるのは、「主の寛大さ、寛容さ」以上に、「弟子の裏切りを赦さない主」「赦しても、念を押す主」というものです。果たして主はそのような方か。今年、聖書を読んでいて新たな喜びが与えられました。

 それは、聖書を原典で読む中で与えられた喜びです。つまり主とペトロとの三度の問答は、ペトロの答えがずれているのです。結論から言えば、ペトロは二度「人間としての限界」を述べたのであり、主の三度目の問いは、その限界を受け止めつつ赦すというものなのです。一度目、主は「アガペー」という愛の言葉を用いてペトロに「愛するか」と問います。対してペトロは「フィリオ」という愛の言葉を用いて主に答えるのです。これは、どういうことなのでしょうか。

 主「ペトロよ、あなたは私を心の底から愛するか」ペトロ「心からは無理ですが、友を思うくらいなら愛せます」これが一度目の応答の真意です。主が「心から」の愛を問うているのに対して、ペトロは主の求めには応じえないのです。二度目も同様です。そこで主はペトロの心を解した。三度目の主「友を思うその心で良い、私を愛するか」ペトロ「はい、主よ」となるのです。

 始めは「心から」を求めた主でしたが、「友を思うその心で良い」と言われます。その言葉は結びの「年を取ると…」とつながって来るのです。「行きたくない所へ連れて行かれる」最期をやがてペトロは迎えます。そのペトロは「友として支える主」を心に納めていたわけですし、主もペトロを覚えていたのです。主は「あてつけ、意地悪」を為したのでなく、ペトロの心を問い、ペトロの心情、信仰に相応しいみ言葉をくださったのです。人の愛には限界があり、破れがあります。主はその限界を知りつつ、破れを知りつつ、破れたところを縫うような、時に応じた相応しいものを私たちに下さいます。まさに「慈しみ深い友なるイエス」です。

2018年4月15日日曜日

4/14.15 礼拝と献花

 本日の徳山C献花です。今はルーテル宇部Cで牧師をされている先生の
お母さまが植えられたと言われるもみじとローズマリーが捧げられました。

昨日の益田小浜の海です。
 礼拝に集われている方が、先々週土曜日にお風呂場で転倒され、
 耳後ろと左手を縫われたことを聞きました。
 傷がすみやかに癒えることを祈りました。月曜抜糸と言うことです。

  復活後第2主日の今日、教会の礼拝ではこういうことがありました。
1 徳山Cには、教会員子弟が使っていたグランドピアノが捧げられています。
  H兄が、そのピアノでハイドンの一曲を演奏されました。
2 下関Cのオルガン補修、宇部Cのトイレ工事、厚狭Cの屋根修理を覚えて
  また新年度を迎えた子どもたち、学校の教師を覚えて祈りが捧げられました。
3 徳山Cの礼拝堂、敷地が先人たちのお陰で備えられていることの
  感謝の祈りもありました。
4 島根県大田市、熊本県、東日本大震災の被災者の方々を覚えての祈りもありました。
5 イースター礼拝後に撮られた写真が配られました。H兄の御奉仕です。
6 礼拝後、タケノコご飯、溶きたまご汁を頂きました。


今週、来週ともに礼拝、集会は以下の日程で行われます。

4/ 17 火曜日 15時 聖書の学び

4/ 21 土曜日 13時 益田市小浜礼拝
        14時 益田教会礼拝
        19時 六日市礼拝
4/ 22 日曜日   10時45分 徳山礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

本日の礼拝説教要約は以下のとおりです。


【ヨハネ福音書211-14節】
 復活の朝、主は弟子たちに「ガリラヤに行け」とマグダラのマリアを介して告げられました。この福音書で、弟子たちはガリラヤに戻っています。主の言葉を受けての帰還でしょうか、妙に元気がありません。実際、弟子たちは伝道をするのでなく、漁をする。「人間を取る漁師」とされていたのが「魚を取る漁師」に戻ろうとしていたのです。でも「何も取れなかった」のです。心配事を抱えている時、他事をしても不首尾なのです。その心配事は、主のこと、自分たちの身の振り方でした。これからの事を不安がる心が弟子たちを支配していたのです。

 そこに主が現れ、漁の立ち位置変更をアドバイスします。すると大漁になります。「み言葉に耳を傾ける、その時、道は開ける」ということの一つのしるしです。しかしここでペトロが上着を着て湖に飛び込むという賢愚混在の行動を取ります。上着を着る事で主への敬意を表しますが、同時に、上着着用は溺死の可能性があります。訳が分からなくなった、主の復活を信じていなかったのです。そんなペトロがやっと陸に上がると、炭火がありました。

 さて、ペトロはこれまでも良く言えば柔軟な、悪く言えば風見鶏な、周囲の状況に翻弄される生き方を示して来ました。それは丁度、今日の聖書冒頭の「ティベリアス湖」の名の変化と同様、「人は周囲の状況変化に弱い」ということの示唆です。人がたとえ自身の状況の中で信仰やその心を変えるようなことがあっても、主は変わられません。ヘブライ人の手紙が証しするように「主は、昨日も、今日も、永遠に変わる事なく」私たちとの関りを持たれるのです。

 この湖では「ティラピア」という魚が多く取れます。当地では「聖ペトロの魚」という別名が付いています。夜更けから明け方まで漁をしていた弟子たちには何よりの御馳走です。炭火が用意してあったことも、もてなしの馳走に他なりません。何よりも、み言葉が与えられたこと、不調の中で導きが与えられたことも馳走と言えるのです。信仰の挫折、人生の挫折は時を選ばないで私たちを脅かすものです。その時こそ、み言葉が必ず示され、閉ざされていた道が開けるのです。私たちはその主の愛を受ける者です。日々感謝して生きたい。