2018年5月27日日曜日

5/24.5/27 海と礼拝と献花

  5/20午後、教会員のご友人が活けられた花です。
  こちらは5/27の礼拝献花。
 本日誕生日を迎えられる会員が活けられた花です。

  戻って5/20の献花その2.
  こちらはゴーヤ。徳山Cの一階、牧師室をグリーンカーテンで覆う予定です。
最後は海。5/24の益田小浜の海は穏やかで透明な水を確認できました。

 三位一体主日の今日、教会の礼拝ではこういうことがありました。

1 三位一体主日に併せて、本日の礼拝の讃美歌は全て「三拍子」の歌でした。
2 自宅療養をされているK兄のため、
  本日も仕事の中に置かれているS姉、Y姉、F姉を覚えた祈りがささげられました。
3 礼拝後には味噌汁、そして漬物を頂きました。
  極限まで煮込まれた白菜が、いい味をかもし出していました。
  白菜が苦手な子どもたちも、もりもり食べていました。
4 今週、来週ともに礼拝、集会は以下の日程で行われます。

5/29 火曜日 15時 聖書の学び
6/ 2 土曜日 13時 益田市小浜礼拝
        14時 益田教会礼拝
        19時 六日市礼拝
6/ 4 日曜日   10時45分 徳山礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

本日の礼拝説教要約は以下のとおりです。


【ヨハネ福音書3章1-12節】
宗教改革の原動力は、「教会のあるべき姿」を問い続けたルターの信仰でした。今日の主日名「三位一体」も、教会が自身の方向性を模索する過程で定まった教理です。「三位一体」の教えと関係あるのが、音楽の五線譜の冒頭記号「C」です。中世、五線譜の概念が生まれたヨーロッパでは、「三拍子」の楽譜冒頭に「○」と打つ、その意は「完全拍子」でした。そして「二拍子、四拍子」の冒頭には「C」、これはアルファベットのCではなく、元来は半円でした。「三拍子の音楽は三位一体を表す崇高な曲、それ以外は世俗音曲」との理解が為されていたのです。三拍子の讃美歌は、父、子、聖霊の神さまを表すという理解だったのです。

「三位一体」の教えは複雑です。しかしその示唆することは単純で、先ほどの「音楽」に例えれば、神さまは私たちを「三拍子のリズムに誘う」=力づけるということになります。聖書のニコデモがまさにそうでした。ファリサイ派の議員(高位宗教者です)としての肩書が記載されています。当時は、神殿再建のための借財を負わされていた高位宗教者、主のもとをわざわざ夜訪問します。肩書にそぐわない心持ちを抱いていたのです。冒頭で主を誉めますが、即座に主にその心根を見られます。「新しく生まれること」です。自身の働きについて思う所は多くあるものの、中々変えられないもどかしさの中ニコデモは主を訪ねたのです。

主は「霊」が「どこから来てどこへ行くのか」と言われます。聖霊のお働きの特徴が記載されています。主はニコデモの内面の葛藤をご存じですし、ニコデモがその葛藤を今まで誰にも分ち合おうとしなかったことをもご存じでした。意を決して夜訪れたニコデモに、「神さまのみ霊は、今の祈りの課題をいつ、どのような形で解決なさるかは分からないが、必ず良い方向に導く」と約束されたのです。ファリサイ派の彼にとって、望外の恵みの言葉に他なりません。

行き詰まりの中を歩いていたニコデモには、一筋の光明でした。どれだけのことが為せたかという団体に属していたニコデモの喜びは、やがて行動を伴います。教会とは、私たちこの世の旅人の休み場であり、ここから私たちは出かけて行く。加護は確かに私たちと共に。
 


2018年5月20日日曜日

5-19.20 海と献花と礼拝

  5/20 徳山礼拝献花です。 
 一週間前、更新をした「つもり」でしたが、何もしていませんでした。
  5/19益田小浜の海です。荒れていました。
 この日の夜、六日市では肌寒さを感じました。

  5/12の益田小浜の海です。
  5/13の徳山礼拝献花です。

 聖霊降臨祭(ペンテコステ)の今日、教会の礼拝ではこういうことがありました。

1 会員の一人が赤いドレス、また子どもの一人が赤いズボンを履いてきました。
  赤いズボンはたまたまでしたが、赤いドレスは意図されたものと信じます。
2 自宅療養をされているK家のための執り成しの祈りがささげられました。
3 礼拝後にはカレー、そして漬物盛り合わせを頂きました。
  S姉が竹原に日帰り旅行された時のお土産がその漬物でした。
4 16時からはS姉のご友人のKさんが、教会を会場にして音楽発表会をなさいました。

今週、来週ともに礼拝、集会は以下の日程で行われます。

5/22 火曜日 15時 聖書の学び
5/24 木曜日 13時 益田市小浜礼拝
        14時 益田教会礼拝
        19時 六日市礼拝
5/27 日曜日   10時45分 徳山礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

本日の礼拝説教要約は以下のとおりです。


【使徒言行録2章1-21節】
「新しいぶどう酒に酔っている(13)」とあざける人々の姿から、聖霊降臨祭の日課を解き明かして行きます。そもそも聖書は「酒」を、善悪を含めて教えています。箴言23章を見ると自戒の思いが与えられますが、酒は古今にその益と不利益が知られていたのです。主の時代のぶどう酒は、「新しいぶどう酒(醸造したてのもの)」は今日よりも大分アルコール分が高く、しかも漉()されていないものです。どういう影響を及ぼすのか。飲むと即効で酔い、翌日アルコールの余波が残る、新しいぶどう酒は平たく言えば「安酒」なのです。

聖霊降臨祭の不思議な出来事を周囲で目撃した人々は、感心する(12)人々もいましたが、「あざける」人々もいました。それはひとえに、これまでの弟子たちが「一つになっている(1)」という姿に留まっていたからです。「一つになる」それは、弟子たちの目線では結束に他なりません。ただ外部から見れば「入り難い、近寄り難い」という側面もあります。聖霊降臨を受ける前までの弟子たちは、外部から好意的には見られなかったのです。ある人々は「安い酒を飲んで大騒ぎしている」と思い、後にペトロもその件で弁明をしています。

聖霊降臨の出来事が無ければ、弟子たちと人々との溝、言い換えれば教会と世間の溝は深まる一方だったでしょう。主が十字架刑以前に述べられていた聖霊が、その溝を埋めるべく働いたのです。「五旬祭」とは旧約聖書では「十戒授与記念日」≒み言葉記念日です。かつて神さまは、ユダヤの人々を一つとする十戒を授与しました。この日神さまは、一つとなっていた弟子たちの群れを思いつつも、全世界の民を一つとなす「み言葉」を給うのです。

9-11節は現在の呼び方に直すと、東はイラン、北は黒海沿岸ロシア、西はトルコ、南はエジプトと、当時知られていた世界を網羅するものです。聖霊は、私には「片足の少年」を通して働いて下さいました。彼も私も、その時聖霊が働かれるとは思いもしませんでした。聖霊の働きはいつ、いかなる形で起こるかは不明です。しかし、必ず私たちに働くのです。そして、私たちを通して「この教会に、私たちと関わりのあるこの世に」働かれるのです。
 


2018年5月6日日曜日

5/5.6 献花と海と礼拝

  5/5 益田小浜海岸の様子です。海の水とは透き通っているもの、という
 思いを訪問のたびに与えられています。
 この後、小浜、元町、六日市で礼拝が行われました。

5/6 徳山礼拝献花です。復活節には百合の花。良く合っています。

 復活後第5主日の日曜日、教会の礼拝ではこういうことがありました。1

1 先々々週土曜日、会員宅の愛猫が居なくなりましたが、不明のままです。
  「今居る処で、神さまの守りがある」ことが祈られました。
2 朝、K姉から風邪のため休みますという連絡を頂きました。
  その方のために祈りがなされました。
3 礼拝式文ファイルが、B5型とA4型とあります。
  A4型が大きくて見やすいと評判です。F姉の編集、作成です。
4 礼拝堂の裏手のサクランボが生りに生っています。
  子どもたちの食後のおやつになっています。
  種はその辺に散らされています。子どもたちは小鳥とし烈な競合をしています。
5 益田、六日市でも、柳井のNPO法人「一粒の麦」支援古紙が集められています。
  昨日は私の車に満載でした。
6 六日市Cでは、この春にセカンドキャリアの場が与えられた
  佐藤明男牧師による説教が為されました。会員のK兄の義兄になります。
7 徳山Cでは礼拝後、礼拝に出席中の方と懇談、祈りの時が与えられました。
8 徳山Cの愛さんは鰹おにぎり、大根菜おにぎり、味噌汁でした。

今週、来週ともに礼拝、集会は以下の日程で行われます。

5/ 8 火曜日 15時 聖書の学び
5/12 土曜日 13時 益田市小浜礼拝
        14時 益田教会礼拝
        19時 六日市礼拝
5/13 日曜日   10時45分 徳山礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

本日の礼拝説教要約は以下のとおりです。


【ヨハネ福音書15章11-17節】
 友とは有り難く、得難いものであります。旧約聖書の箴言には「鉄は鉄によってみがかれ、人はその友によってみがかれる(箴言2717)」とあります。これ以外にも友に関する「箴言」つまりことわざが多くありますが、聖書の時代の人々も生きる上で「友」の存在に重きを置いていたことが分かります。「友」とは、第一義的には「人」を表しますが、今日では「人間以外のもの」を表すこともあります。長年生活を共にした「ペット」は、その意味で動物ではあるけれど、同時に「友」として私たちの生活に欠かし得ないものなのでしょう。

 今日の聖書で主は「友のために命を捨てる」「あなた方は友」「僕とは呼ばず、友と呼ぶ」とあります。聖書はそもそも、「友」という言葉をどのような趣旨で用いるのか。やはりそれは旧約聖書をひもとく必要があります。神さまと人との関わりで「友」が出てくるのは、神さまとモーセの対話の場面です。ある時モーセは「人がその友と語るように」モーセと語り合っていました。モーセの例でいえば、神はモーセと語ることで、重荷を共に担い、その人生を支える意思を示されたのです。そして今、主は弟子たちに「友」と幾度も呼びかけて下さるのです。

 なぜ主は弟子たちを「友」と呼ぶのか。それは、先週も同じことを記しましたが、ここでの弟子たちの状況を見兼ねてのことです。「主の弟子」であることは喜びでもありますが、それが弟子たちに重荷ともなったのです。「友」とは語り合う存在。主はお語りになり、また聞かれるのです。弟子たちは「この」後、逃げてしまいますが、主の言葉は確かに心に納められた。だから「その」後、主のみ言葉に生きる者として生きる者とされたのです。

 主がお語りになった書物が福音書ですし、主に聞いて頂くことを祈りと言います。だから「主のみ名によって神に願う」と主はこの聖書で結んでいるのです。主は友として私たちの言葉を聞いています。主のみ名によって祈る、そのことで、神さまが良いと思われることが必ず備えられるのです。主は私たちやその祈りをみがいて下さいます。だから私たちは、み言葉を頂いたものとして、近しい者や出来事を覚えて、祈り続ける者でありたい。