2018年9月30日日曜日

9/30 ロウソクと献花と礼拝

  15:20現在も、雨風は激しい徳山です。「台風第24号」が被害をもたらさないよう
 本日の礼拝でも祈られましたし、祈りました。
 本日の献花です。
朝から雨風が激しかったのですが、それでも教会に大勢の方が来られました。
 礼拝では、新しくロウソクが捧げられました。
 ロウソク着火前に聖別の祈りが祈られました。

本日の礼拝に先立ち、Kさん、Aさん、Sさんから欠席の連絡を頂いていました。
台風のため、来たくとも来られなかった方々がいることを祈りに覚えました。

 今週、来週の予定は以下の通りです。

10/2 火曜日  午前 水原牧師 柳井
        15時 徳山聖書研究会


10/3 水曜日 牧師 呉の被災地で奉仕
 
10/4-5 木曜日から金曜日 「一粒の麦」旅行同行



10/6  土曜日 13時 益田市小浜礼拝 休会といたします。 
        14時 益田教会礼拝 通常通り行われます。
        19時 六日市礼拝 通常通り行われます。

10/7  日曜日   10時45分 徳山教会礼拝


いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。

マルコ福音書930-37
 なぜ主は「人に気付かれるのを好まれなかったのか」と思います。大勢の人々に見いだされれば、主への要求も増します。主としては、ご自分のお弟子さんたちにより多くを教えたかったことがその理由と察します。地上の生涯の、残された時間を、不具合が見出されるお弟子さんたちのために用いたかった。だから「人に気付かれたくなかった」のです。その主のお気持ちは、しかし弟子たちには伝わりません。弟子たちは主を「恐れ」ていました。弟子たちの方から、主に歩み寄らず、自分勝手に振舞うのです。

 そのことは33節からの「誰が一番偉いか」の議論に結び付きます。なぜこんな議論が生まれたのか。伏線は「ペトロへの叱責」や「3人の弟子だけが登山に同行」などの過去の記載でしょう。ペトロがサタン呼ばわりされることで、後の弟子たちは出世をもくろんだのかもしれません。3人だけが登山のお供を命じられれば、後の9人は嫉妬するでしょう。人間らしさの塊です。だからこそ主は弟子たちのために時間をお取りになったのです。

 しかし当の弟子たちが打てども響かず、自分たちの立場保全をもくろんで議論するのです。だからこそ主は「一人の子どもを抱き上げる」のです。当時子どもは「無価値、奔放」の象徴でした。人間の尺度では、「どれだけのことが出来るか」という価値判断が社会で優先します。仕方のないことでしょうが、現実です。その中で私たちは時に苦悩するのです。「自分は無価値では?」と。しかし主は子どもを抱き上げた。この世の中に、価値なき人など誰もいない。「あなたがいる」それを主と私たちは喜びます。

 この子どもは、なぜ自分が抱っこされているか分からないでしょう。ちなみに主のことも「たまに来る良く分からないおじさん」位の印象でしょう。それでいいのです。私たちにとって教会は「たまに来る」場所かもしれません。主のことも「良く分からない」かもしれない。でも、大丈夫。聖書や主のことが良く分からない、たまに来る教会であっても、主は喜んであなたを迎え入れて下さいます。それがあなたの教会です。



2018年9月23日日曜日

9/23 礼拝と献花

 教会のバナー。数年前、Nさんを中心とした教会のご婦人方で作成しました。
そのたもとには献花。

教会の礼拝堂。そして献花。Kさんのお気持ちに寄り添うように、別のKさん、
前述のNさん合作の献花です。

本日の礼拝も予定どおり行われました。礼拝前にはまたまた別のKさんが教会に来られ、
祈って行かれました。礼拝に集い得ませんが、Aさん、Tさん、から、皆さまによろしくとの言葉を頂きました。

礼拝後にはF家のご奉仕によって、わかめおにぎりとシチューの愛さんを頂きました。

 今週、来週の予定は以下の通りです。

9/25 火曜日  午前 水原牧師 柳井
        15時 徳山聖書研究会


9/28 金曜日 牧師 呉の被災地で奉仕

9/29  土曜日 13時 益田市小浜礼拝 休会といたします。 
        14時 益田教会礼拝 通常通り行われます。
        19時 六日市礼拝 通常通り行われます。

9/30  日曜日   10時45分 徳山教会礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


マルコ福音書8章27-38節
マルコ福音書8章27-38節
 キリスト教の特徴の一つは、「主なるイエスの受難」ということにあります。その事柄を、バッハは「主の苦しみは、わがためなり」と讃美歌(136)に残しました。主の受難と、私たちと何の関わりがあるのか。私たちの日常的な苦悩に寄り添うために、あえて主は十字架に至る苦難と、十字架という極刑を受けられたということです。その受難予告を主は今日の聖書でなさいますが、弟子たちはその主のお気持ちを解しません。

 政治的おもわくによって「献上物」とされた「フィリポ‣カイサリア」の町で、主はご自身の噂を求めます。案の定、ローマ統治を嫌い昔を懐かしむ人々は、政治的提言を為した過去の人物を主に当てはめます。主はペトロにも問い、ペトロは「メシア」と答えます。ペトロもまた政治的改革者としての役割を主に求めていたことは、ここでは分かりませんが、後に明確になります。主がご自分の受難を予告なさると、ペトロは主を「脇にお連れしていさめた」のです。そのペトロを主はなんと「退け、サタン」と、激しい口調で叱り飛ばされるのです。

 ペトロにとって主は、栄光の人でした。その人の口から「受難」なる言葉を聞きたくなく、受難もして欲しくなかったのです。しかし主の受難へのお気持ちは確かです。当面は「ローマ統治」による苦しみにあえぐ全ての人に寄り添うために、広い意味では苦難を負いつつ全ての人の苦しみの現場に立つために、主は受難なさるのです。その主のお気持ちを解そうとしないペトロを「サタン」と厳しく然り、弟子たち全員にご自身の気持ちを明確に示されるのです。終盤に至る主のお言葉も同様、弟子たちへの今後の指針です。

 では、弟子たちは「自分を捨て、十字架を負う」という主のお言葉を完遂できたか。ものの見事に「自分を守り、主を捨て」る姿を示してしまいます。これが人間なのです。人間らしい姿でとってその後も生き続ける弟子たちのためにも、主は受難なさったのです。あなたの苦しみは、あなただけのものではありません。「自分の意思とは無関係に」巻き込まれる私たちに、主はかつても今も、これからも共に歩んで下さるのです。