2018年10月28日日曜日

10/28 礼拝と献花


10/28の礼拝献花です。宗教改革主日でしたので、聖壇布は赤です。
「やはり赤がステキね」というお言葉を頂きました。

本日は礼拝前に、Kご夫婦とKさんから欠席のご連絡を頂きました。
季節の変わり目でもあり、朝晩の冷え込みは厳しく感じられる日々です。
Tさんは御用事、Sさんも御用事のために説教後出かけられました。

礼拝後にはけんちん汁と、金山寺みその野菜あえのおかずでご飯を頂きました。

また昼食後には、残られた方で花壇整備をいたしました。

今週、来週の教会の予定は以下の通りです。

 10/29 火曜日  午前 水原牧師 柳井 
          15時 徳山聖書研究会

 11/2 金曜日  牧師 呉 安浦で奉仕

 11/3   土曜日 13時 益田市小浜礼拝 休会といたします。 
            14時 益田教会礼拝 通常通り行われます。
            19時 六日市礼拝 通常通り行われます。

   11/4 日曜日   10時45分 徳山教会礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。



【マルコ福音書1046-52節】
 「行きなさい」と主は癒された盲人に告げます。彼は、どこに行ったのか。「主に従うものとされた」が聖書の語ることです。美談や予定調和的な話と思えるかもしれません。ただ、この話だけでなく、マルコ福音書10章全体を通して見れば、この盲人の取った行動がいかに想定外だったか。そのことが浮かび上がって来るのです。併せて、この元盲人の今後についても、彼の「名前」が記載されている事実から、分かち合いたい。

 盲人だった頃の彼が為したのは「目が見えるようになりたい」という願いです。ここだけを取り上げれば、マルコ福音書10章の他に記載の「自己本位な金持ちの青年、弟子たち」の姿との近さを思います。むしろ、聖書がこのような自己の願いがあからさまな人間の姿を描いていることに着目です。人は、どこまで行っても自己本位な生き物なのです。「自分の財産を減らすのは嫌です」「今以上に偉くしてください」「目を治して下さい」。しかし主は、金持ちの青年や弟子たちとは違い、この盲人には向かい合うのです。

 なぜか。どのような違いを見たのか。それは「主に従う」という一点に集中します。金持ちの青年は主のみ前から離れた。ヤコブとヨハネも一時離れた。この盲人は、主に従う者となった。最も彼も主の十字架刑直前は離れざるを得なかったのでしょうが、その後、特にマルコの教会に属し、主のみ姿を語る者となった。主に愛されたことを語る者となった。だからこのマルコ福音書だけが彼の名前である「バルティマイ」を記載するのです。

 彼は癒される直前、大勢の人に「叱られ、黙らせようと」されました。実力行使を受けたことを意味します。これと同じことをルターは「ウォルムスの国会」で受けますが、彼も退きませんでした。聖書は、過去の偉人話だけを伝えません。過去の偉人を支えた主のみ姿を語るのです。「行きなさい」その言葉を私たちは頂いて礼拝堂を後にします。「行く」のは私たちだけではありません。様々なことに目が塞がれ、導きの光を見失う、いわば心の目が閉ざされた私たちと共に、主が歩んで下さる事をこの週も覚えたい。




2018年10月21日日曜日

10/21 献花と礼拝


 10/21 徳山礼拝献花です。

 気づかぬうちに秋が深まった印象があります。

 昨日、六日市礼拝の帰り、外気温は六日市で9度でした。
 須々万でも9度。冬ですね。

 10/7と10/14は更新ができませんでした。
 ただ、礼拝は10/6.7.13.14と、益田、六日市、徳山でそれぞれ行われました。

 今日は礼拝後、きつねうどんとおにぎりを頂きました。

 今週の教会の予定は以下の通りです。

 10/22 火曜日  午前 水原牧師 柳井
15時 徳山聖書研究会


 10/26 金曜日  牧師 呉で奉仕


 10/27   土曜日 13時 益田市小浜礼拝 休会といたします。 
            14時 益田教会礼拝 通常通り行われます。
            19時 六日市礼拝 通常通り行われます。

   10/28 日曜日   10時45分 徳山教会礼拝



いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。

マルコ 10章17-31節
 

 「金持ちの青年」が聖書に登場します。順調すぎる人生の人も、時にふと、考え込んでしまうことがあるのでしょう。「永遠の命」のためにはどうすれば良いか。この青年も、「自分が死んでからも良い身分でありたい」と考えたのでしょうか。対して主は「人との関わり」を告げます。彼には思いもしなかったことでした。「両親から受け継いだ」財産を守ることが命題の彼にとって、その財産を分かち合う事など想定外なのです。去る青年の背中に、主のひとみとまなざしが「いつくしみ深く」注がれるのです。

 主は23節以降で「財産のある者が…」と、資産家を拒絶する言葉を言われます。無論、資産家への拒絶ではない。この青年の例を言えば、「財産を持っていても、使いどころを知らない」「他者との関わりを育もうとしない」ことへの嘆きがあったのです。主の青年への応対は、冷たすぎると感じられるかもしれません。しかし主は彼にとって、必要だと思われるからこれらを語ったのです。人との関わりは、人を豊かにさせます。

 さて、「財産の使いどころ」「人との関わり」と言われても、私たちには「自分の生活」を案ずる思いが浮かびます。私たちには無理があることを主は、「人には出来ないが、神には出来る」という言葉で結びます。つまり、「神さまが結びつけて下さった人のために」私たちは、自分に出来ることを少しだけ頑張って行う。そのことが主や、文中で出て来た十戒が語り掛けることなのです。この青年も、やがて気付いたでしょうね。