2019年12月24日火曜日

12/22 クリスマス礼拝

  本日、徳山でもクリスマス礼拝が行われました。
 礼拝中の写真はありませんが、礼拝後の集会の一幕。
  クリスマスにまつわる話の朗読…。
こちらは防府。
 柳井も先日、クリスマス礼拝が行われました。

 今週、来週の予定は下記の通りです。

12/24 火曜日 19時半 クリスマス・イブ礼拝

12/25 水曜日 19時 六日市礼拝

12/27 金曜日 聖書を学ぶ会 休会
 
12/28 土曜日 15時 柳井C礼拝 

12/29 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
        15時半 防府C礼拝
 
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


マタイ福音書 118-25
「クリスマス」とは「キリストを礼拝する」という意味があります。ルカでは羊飼いたちが主を囲み、マタイでも占星術師たちが主を礼拝した古事に倣い、私たちも今日、お生まれになった主を礼拝するのです。否、私たちや羊飼い等に先立ち、その父母が主に対面した出来事が今日の聖書です。名づけに際し、旧約は「インマヌエル」ですが両親は「イエス」としました。この命名に、私たちがクリスマスの時に大切にしたい事柄があります。

今日の聖書の冒頭で、主の「父ヨセフ」の悩みが記載されています。悩みの種は、妻マリアについて。交渉はないのに、そのマリアが妊娠しているということでした。ヨセフは「正しい人(19)」とありました。どのような意味での正しさか。ヨセフは妊娠を秘匿しようとしましたので、律法的な正しさではない。また「縁を切らないで結婚する」という選択肢も選べましたが、これは母子の命を結果的に奪う事につながる。ヨセフは「母子の命を守る」ことを優先的に考え、そのために悩み抜いて、祈りつつこの選択を為したのです。

言葉は乱暴ですが、母子の命は妊娠が発覚した時点で風前の灯でした。「掟」が尊ばれる世の中では、その枠外にある者の命は無いも同然なのです。ヨセフはしかし、そんな母子と「共に在った」。旧約の時代から、救い主の名前は「インマヌエル(神共にある)」と予言されていました。ヨセフは神の預言を体現するものとして、その妻と子どもと「共にあった」のです。決断と共に、天使はヨセフに、出来事を受け入れる心と状況を備えます。ヨセフは故郷から「ベツレヘム(21)」に旅をします。故郷を離れる口実を得たのです。

その生まれた赤子は「インマヌエル」と名付けられたか、否。「イエス」と命名されました。旧約読みでは「ヨシュア」であり、「神さまによる救い」を意味する名前です。キリスト教では「神が共に、主が共にある」ことを覚えます。主日礼拝でも然りです。でも、そこから一歩を進み、深めたい。神や主は私たちと「共にある」だけではありません、私たちをそれぞれの渦中や困難から「イエス(救う)」方。その方をクリスマスで礼拝するのです。
 

2019年12月8日日曜日

12/8 礼拝と献花といろいろなこと

 12/1 防府教会の礼拝堂です。待降節第一主日でした。

 12/1 防府礼拝後に点灯させた徳山のイルミネーションです。
 
  12/6 教会入口のスロープがかなりうるさいことになっていました。
 見かねた関係者の方が、木のスロープを作って下さいました。

  12/7 柳井教会のクリスマスツリーです。
 礼拝出席者によってきれいに装われました。

12/8 そして今日の徳山教会。
 イスがなかなか素晴らしいことになっています。なぜでしょうか。

 今週、来週の予定は下記の通りです。

12/11 水曜日 19時 六日市礼拝

12/13 金曜日 14時 聖書を学ぶ会 於:徳山 
 
12/14 土曜日 15時 柳井C礼拝 

12/15 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
        15時半 防府C礼拝
 
12/18 水曜日 19時 六日市C礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。



マタイ福音書 31-12
「道」とは、「人生の歩み」の表現の一つです。挫折も徒労も失敗もあるのです。その中で生きて行くための支えを、聖書は洗礼者ヨハネの生き方を通して語り掛けます。「主の道を整えよ」とは、元来は旧約の預言者イザヤが告げた言葉です。「主が来られる」そのために、「自分自身の生の道を整えよ。」となります。ヨハネが属していたユダヤ教集団の言を取れば「神の前の清貧」を追求するという勧めです。遠い出来事と思えます。

若き日の洗礼者ヨハネは、何不自由ない生活を送っていました。「祭司家」の生まれだからです。日々の糧も将来も補償されていました。その彼が一転、全てを捨て荒野の修道僧となるのです。ヨハネを駆り立てた動機は不明ですが、1 何不自由ない生き方には多くの人々の呻きがあることに気付く。2 同僚たちの安穏とした生き方に疑問を持つ。そのような思いでヨハネは荒野に向かったのでしょう。真直ぐな人だったのです。

金銭的にも制度的にも、罪の赦しとしてのヨハネの洗礼は画期的でした。煩雑な儀式と金銭を要する「赦し」の儀式でなく、単純素朴な式。更に、神に近づく信仰でなく神が近付く信仰。前者がユダヤ教の立ち位置であり、後者がヨハネの立ち位置でした。それと分かる特徴的な身なりをしたファリサイ派に、ヨハネは激しい怒りの言葉を向けます。宗教の名のもとに安逸をむさぼる彼らに憤っていた、そして在りし日の自分をそこに見出して、更に怒りが増したのでしょう。怒ったままでヨハネは、厳しい主の姿を語ります。

ヨハネが語る通りの主が来られるとするならば、私たちの立つ瀬はないでしょう。しかし来週の聖書とも重なりますが、主は(私たちにとっても当時の人々にとっても)良い意味でヨハネの期待を裏切ったのです。挫折、徒労、失敗のない人生はない。「清貧」を求める余裕なく、深い落ち込みに生きる、生きざるを得ない人々と主が共に居られる。アドベント(待降節)第2主日とは、その生き方をなさる主が来られることを覚える時です。

2019年12月1日日曜日

12/1 礼拝堂と献花

  この写真は先週11/24の防府の礼拝堂です。

  これは11/28 徳山でのクリスマスツリー設置の様子です。
  11/30 防府の社会福祉法人 心促協会に出かけてきました。
そして12/1 徳山での礼拝でした。

 今週、来週の予定は下記の通りです。

12/4 水曜日 19時 六日市礼拝

12/6 金曜日 14時 聖書を学ぶ会 於:徳山 
 
12/7 土曜日 15時 柳井C礼拝 

12/8 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
        15時半 防府C礼拝
 
12/11 水曜日 19時 六日市C礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


マタイ福音書 2436-44
本日は待降節(アドベント)1主日となっています。「クリスマスに主イエスがこの世に来られる(アドベント)」ことを覚える主日です。毎年、待降節第一主日には「エルサレム入城」を聞いてきました。本年からは聖書日課の改訂によって、「主の再臨と終末」を聴くことになります。旧来の日課では、「エルサレムに来られる」ことを覚えて来ましたが、今年からは「再び来られる」信仰を通して、聖書から今日も恵みのみ言葉を得たい。

しかし三週間続けての終末の講解で、多少疲れがあるかもしれません。終末に関する聖書の教えは、二者択一を求める内容が多く、読み解く際には注意が必要なのです。例えば「ノアの古事(36-39)」にしても、「救われた者と流された者」その差は大きい。主の再臨が洪水につながる形で語られますので、違和を感じます。後半の「日常生活を送る者(40-44)」も同様です。この記述からは、終末に関して喜びでなく恐れを抱きます。

いわゆる「黙示文学」の背景が根底にありますので、終末の記述には択一的な言い回しがあります。確かにノアの出来事は「義人への招き」と言えるでしょう。しかし最終的には聖書は、やはり慰めに至るのです。続く「日常生活」の中で「目を覚ます」ことの具体例は不明なのです。この後主は三つのたとえ(み言葉を守り、備え、賜物を用いる)を為し、25章の結びでは「羊と山羊の仕分け」を為し、十字架に架かられます。主は神さまによる厳しい裁きを語りつつ、自身をいけにえ(山羊:スケープゴート)となされたのです。

この日私たちは、主が私たち(全ての人)の身代わりとしてお生まれになられることを覚えたい。マタイ福音書では主が、人間社会の様々な思惑に翻弄されながら誕生とそれ以後の日々を過ごされたことを記します。綺麗ごとだけではない、複雑な事情と社会の中に生きる私たちのもとに、主がお生まれになられたのです。主は終末の時だけでなく、今週を生きようとする私たちのもとに訪れて下さる。それを覚える群れで有りたい。