2019年1月27日日曜日

1/27 礼拝と献花









1/27の徳山礼拝堂です。
雪や所要のため、お休みの方が多い主日でした。

 こちらは、1/26 9時前後の徳山→益田の中間地点、河内峠の様子です。
「山口県道路情報サービス」http://road.pref.yamaguchi.jp/gmap/#からのものです。
わだちの跡がありますが・・・。とても通れませんでした。

1/27 13:30前後はこういう状況です。一週間後は通れるでしょう。


今週の教会の予定、牧師の動静は以下の通りとなります。

1/29 火曜日 11時   牧師 柳井行き
       15時 徳山聖書研究

2/1 金曜日 10時 世界祈祷日準備会
2/2 土曜日 14時 益田礼拝
       19時 六日市礼拝 

2/3 日曜日   10時45分 徳山教会礼拝



いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


ルカ福音書5章1-11節
 ルカの時代、ユダヤの国土は既にローマのものになっていました。ローマ時代、ユダヤ北部の湖は「ティベリアス湖(ローマ皇帝にあやかるもの)」でした。聖書に「ガリラヤ湖(地名)」として登場する湖です。しかしルカはその湖をあえて「ゲネサレト湖(楽器の琴)」と表記するのです。皇帝名や地名を流用しての記載ではなく、古くから用いられている「琴の湖」と記載する。そしてその湖名を、漁師を弟子として招く場面に表記するのです。

 そこには、弟子たちを「弦楽器」に準えるルカの意図もあると考えます。弦楽器は一本一本は個別の特徴があるものです。聖書でのペトロは、主との響きは余り宜しくないものがあります。主が湖畔を尋ねたのは朝方。その頃ペトロたちは漁の後始末。主がみ言葉を語っている時は、み言葉ではなく仕事の最中のペトロ。主は語り場所としての船を求めても、素直には応じないペトロ。大漁に驚きつつも、自ら退かず主に離れることを求めるペトロ。漁師のプロとしての自負が、ペトロをこのように動かせたのです。

 主から見れば手の付けられようのない骨太な弦としてのペトロでした。一方で湖畔には、み言葉を求める熱心な人たちがいます。なぜ主は、熱心に頭を垂れてみ言葉に聞き入る人々からでなく、背を向けるペトロを弟子として選ばれたのか。それは、神さまの懐の深さを示すためと言えます。神さまは、自身に向かい合う人はもちろん、そうでない人にも目線を向ける。感じ入ったペトロは「全てを捨てて」主に従う弟子となります。

 み言葉に熱心でない、生きるために自分の仕事を優先する。その姿勢のペトロを主が第一に弟子としたことをルカは記載しています。そしてこの後ですが、いろいろな味のある弦が、つまり漁師や他職業の人が主の弟子とされていきます。主の存命中も、それ以後にも時に不協和音を奏でる弟子の群れが今日の教会に続くことになるのです。一人ひとりの持ち味は当然違います。それでも、様々な音が重なって素晴らしい調和(ハーモニー)を生み出すのです。私たちは、他者とどんな音楽を奏でられるものでしょうか。


2019年1月20日日曜日

1/19.20 献花と海と礼拝

 1/20 礼拝後に、新たな式文立てが組み立てられました。
組み立て後に、新たな式文立てへの祝福の祈り、また
今まで用いられたものへの感謝の祈りが捧げられました。
  会員の方が、ご自宅マンションのバラの花をお捧げ下さいました。
  1/20 礼拝堂です。
1/19 思い立って久しぶりの益田小浜の海岸です。
 
今週の教会の予定、牧師の動静は以下の通りとなります。

1/22 火曜日  11時   牧師 柳井行き
        15時 徳山聖書研究

1/26 土曜日 14時 益田礼拝
        19時 六日市礼拝 

1/27 日曜日   10時45分 徳山教会礼拝


いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


【ルカ福音書416-30節】
 「ボタンの掛け違い」は起こってしまうものです。主も例外ではありません。聖書前半では、主がナザレ村の会堂でみ言葉の朗読と説教をなさっていました。しかし中盤で急展開を見せ、後半では主がナザレの崖から突き落とされそうになるのです。何が起きたのか。表面上もこれまでも、友好的と思えた主とナザレの人々との関係を悪化させたのは何か。ボタンの掛け違いへの主の応答は何か。み言葉は多くのヒントを語ります。

今日の聖書は、22節の言葉が鍵となります。22節の内容は、翻訳によってその内容が変化します。確かに日本語の聖書通りの意味もありますが、「皆はイエスをほめ(イエスの過去を口にし)、その言葉に驚いていった(その言葉を疑った)」というようにも訳せるのです。要は、ナザレの人々は幼少期や青年期の主の姿にとらわれ、主の言葉をすんなり受け止めなかった。それだけでなく、み言葉とその解釈とは別のことを口にした。それが主のみ言葉との「ボタンの掛け違い」となってしまった、ということなのです。

 しかし、このナザレの人々の姿は人間らしい姿です。主の姿を小さい頃から見知ったものとしては、主の言葉に戸惑いを覚えざるを得ないのです。平たく言えば、成長したご子息たちや生徒が立派なことを言えば、感心と同時に茶化したい気分にもなるでしょう。主も、ナザレ以外のところで名声を高めていました。帰郷した主に、ナザレの人々も複雑な感情を抱いていた。その感情が「ヨセフの子」という言葉に現れたのです。

 「売り言葉に買い言葉」のようですが、主も古事を引いてナザレの人々に応対します。怒った人々は主を殺そうとする。群集心理によって私刑が決められるあの十字架の先取りのようです。しかし主は「人々の間を抜けて」自分の道を行かれるのです。後の「怒ってはならない」の教えと反するようですが、主も人の子として、私たちに先立って歩まれました。勇気を出して「掛け違いが多い」世の中を生きていきたい。そしてどのような時にも「自分の道を歩む」私でありたい。主は、先導者、同伴者として私たちを導きます。
 


2019年1月13日日曜日

1/13 礼拝と片付け

1/13 本日の礼拝堂です。
本日の礼拝には、5歳の頃?に来られた方がほぼ13年ぶりに礼拝に来られました。
受験を控えておられるとのこと。良き将来の道が備えられるよう、皆で祈りました。

礼拝後、また先立つ先週の火曜日(1/8)にはクリスマスの片付けが行われました。

礼拝後にはおでんを頂きました。

昨日1/12 益田/六日市礼拝から帰って教会を開けると良い香りがしていました。
やはり大根です。

今週の教会の予定、牧師の動静は以下の通りとなります。

1/15 火曜日  11時   牧師 柳井行き
        15時 徳山聖書研究

1/19 土曜日 14時 益田礼拝
        19時 六日市礼拝 

1/20 日曜日   10時45分 徳山教会礼拝
  

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


【ルカ福音書315-22節】
 2019年は「戦後74年」を経た年です。私たちの中で、戦後の焼け野原、バラックの様相を知る人は僅かかもしれません。このルカ福音書こそ、「ユダヤ戦争後」に、密かやに上梓された書物でした。信仰の象徴である神殿は崩壊し、安住の場所である国土を蹂躙されたユダヤの人々に希望となるべく、ルカは主の立ち位置を様々な所で工夫して記載します。今日の聖書も含め、ルカの強調点は「同じ目線に立って下さる主」の姿なのです。

 そのような主の姿と対比的に描かれるのが、今日の聖書の「洗礼者ヨハネ」です。元々ヨハネは、両親ともに神殿祭司の系統で、自身も祭司の身分が終生保障されていました。しかしヨハネは、神殿祭司の立場を捨てて修道僧となります。父母の家を出て荒野に出向き、厳しい言葉を広く届けました。宗教者には既得権益の放棄と自浄を、政治家にはモラルを求め、声高な発言を繰り返したのです。しかし、宗教者はともかく政治家の頭であるヘロデはヨハネの発言をどう受け止めたか。逮捕、投獄という形で答えました。

 神の言葉を語る者として、宗教者の堕落を指摘するヨハネの言動は勇ましいものがあります。ただ、強弁が招いた破滅をルカが記載していることも事実です。そのような中で主は洗礼を受けられるのです。主の洗礼の意味は様々なことが言われていますが、このルカ福音書の上記の特徴点から重ね合わせて言えば「同じ目線に立つための洗礼」と言えます。神の子である主が、罪びとである人間と同じ位置に立つための洗礼なのです。

 マタイ福音書で山上から教えている主が、ルカ福音書ではどこにお立ちになっているか。エマオへの途上をとぼとぼ歩む二人の弟子に、主はどのようにして近づくか。先立つクリスマスで、神さまが天使に歌わせた讃美歌の歌詞は何か。「地に平和」つまり、戦後の悲惨な時期を過ごす人々の心に平安あれと歌うのです。私たちには、私たちの戦いがあります。最前線で戦い、或いは最前線で戦う人の補佐をする働きです。ルカが語る「同じ目線で生きる主」は、今週も私たちと共にある。共に前に少しずつ進みたい。