2019年2月24日日曜日

2/24 礼拝と献花、世界祈祷日準備

  3/1(金)世界祈祷日の「徳山・下松地区」の会場として当教会が用いられます。
 本日は礼拝堂でも、また集会室でもその準備が行われました。
 礼拝は、この度「試用版」が配布された式文を用いて進められています。
 
集会室はこのように、普段とは様変わりして「5つの島」が作られました。
 2/28(木)有志の方がテーブルクロス、花などを用意して下さいます。

 昨日は益田、六日市で礼拝が行われ、本日は徳山で礼拝が行われました。
 昨日、本日とも良く晴れていますので、夜の冷え込みが厳しくなるでしょう。

 今週、来週の教会行事、牧師動静は以下のとおりです。

2/26 火曜日 11時   牧師 柳井行き
       15時 徳山聖書研究

2/28 木曜日 午前中 牧師訪問日
       15時 世界祈祷日準備

3/1 金曜日 10時 世界祈祷日
 
3/2 土曜日 14時 益田礼拝
       19時 六日市礼拝 

3/3 日曜日   10時45分 徳山教会礼拝


いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


ルカ 7章 1-10節
 聖書にある「百人隊長」とは、ローマから派遣されて来た武官でした。一般的な百人隊長とは、ローマの権威のもと駐在地で働くものでした。具体的には現地で兵を徴収し、訓練し、有事に備える。平時には駐在地の治安維持を担当する。「警察署長」のようなものでした。一般的な(他の)百人隊長の姿は不明ですし、比較対象がない中での決定は不適当ですが、聖書の百人隊長の姿は、かなり練られたものであることは否定できません。

 この隊長の部下が病んでいました。部下は下士官(十人隊長?)として有能だったのかもしれません。その意味で「重んじられていた」とは妥当な表現です。ただその厚遇はかなりのものです。異邦人であるユダヤの「部下を自身の官舎で看病し(6)」「会堂を自費で建て(5)」「当地の宗教者からの信頼篤く(3)」、そして謙虚と。軍属にある方や警察への偏見ではないのですが、低姿勢で柔和、持つものを最大限に用いる姿が記載されています。

 主はこの百人隊長の信仰に「見たことがない」と言われます。無償の愛を駐屯地に示すことへの驚きです。ユダヤ人長老(町内会長)は「会堂を立ててくれたこと」を愛の証と考えました。「善いことをしてくれたから信頼する」とは、人間の通常の姿です。でもこの隊長が示したのは駆け引き無しの愛。「駐屯地行政」という自身の職務のために、賜物を惜しげなく差し出す姿です。確かにそれは大切です。では主が感じ入ったのは「行為」だけか。否、主のみ言葉への信頼に感じ入ったからこその癒しと聖書は語ると思います。

 部下への癒しは必ず実現する(主が言われたことは必ず実現する:エリサベト)との確信が、体調の抱く心でした。この隊長は確かに人間としての器が大きいものです。しかし器の大小でなく、欠けの多寡にかかわらず、「み言葉への信頼」こそが主の要点なのです。み言葉は私たちに様々に語り掛けます。過去も今もこれからも、み言葉は私たちの人生の足元を照らします。そのみ言葉の根幹には「愛」があります。神さまは私たちを愛の光の中で導く。その確信の中で、祈りつつ、導かれつつ、日々の歩みを為したい。
 

2019年2月17日日曜日

2/17 献花と礼拝

  2/17の徳山礼拝献花です。
 ゆりの花がつぼみの状態ですが、やがて花開くことでしょう。

ご自宅のマンション庭先に咲いた水仙が、別の教会員によって捧げられました。
よい香りが玄関に広がっています。

 朝は曇り空でしたが、今は暖かな春の日差しです。
本日も礼拝があり、その後は昼食をいただきました。

 今週、来週の教会行事予定は以下のとおりです。

2/19 火曜日 11時   牧師 柳井行き
       15時 徳山聖書研究

2/23 土曜日 14時 益田礼拝
       19時 六日市礼拝 

2/24 日曜日   10時45分 徳山教会礼拝


いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


ルカ福音書  6章37-42節
 旧約聖書の「十戒」や、律法文書は主の時代にも用いられる「裁きのための基準」でした。主の時代の人も、公式な判断基準によって「裁き」を行っていたのです。しかしその基準から外れる裁き、私的な判断基準による「裁き」があります。主が戒められたのは「私的な基準」による裁きでしょう。「公的な判断基準による裁き」を否定してしまうと、この世は成立しなくなってしまうからです。「私的な裁き」この言葉にどきりといたします。

 私たちは、それこそ主が言われるように「この人はこうだ」「あの人は…」と「決めつけ」をします。この主の言葉に心当たりがない人はいないと思います。人のことをいう時に私たちは自分の姿が見えていない。主はそのことを話の中で言われるのです。「人に厳しく、自分に甘い」私たちですし、「人を傷つけることには鈍感で、自分が傷つくときには敏感」な者なのです。それが「自分の目の丸太」という言葉に如実に表れているのです。

 そもそもこのような「行為への勧め」についても私たちは弱い。「裁くな」の言葉を聞いた当初は、他者への批判を控えようとするかもしれない。でもその気持ちを保ち続けることが出来るか、困難ですね。主の言葉には、私たちは退くことしか出来ないのです。「どうあっても裁き、自分を棚に上げてしまう」現実に生きる私たちがいます。そこに主も立って下さる「平地の説教」を聞いていたのです。つまりこの三週間、私たちは「裁き」ではなく、私たちの生の現実に共に立って下さる主のお姿を共に聞いていたのです。

 私たちが他者を「裁く」とき、そこには理由があります。裁くあなたが悪いのではない、その原因となった出来事や人物と向かい合いつつ、交わしつつ生きる私たちの苦労を主もまた共に担って下さる。そして同時に「主の祈り」の言葉をも想起したい。つまり「人を裁き」「人を許せない」私たちは、主に赦されて生きるものなのだということを。キリスト教では、「許し」は人間同士の事柄、「赦し」は神さまを通した事柄です。私はあの人を許せない、しかし神さまは同じあの人を赦して下さる。そこに立つ事を聖書は語ります。