2019年5月26日日曜日

5/22.25.26 礼拝と献花と庭

  5/25 この日は防府Cの生け垣のチェック。
 だいぶ伸びています。剪定せねばなりません。
  5/26 徳山C礼拝後に、花壇の手入れがなされました。
 濃い色が似あいますね。
  5/26 徳山Cの礼拝堂です。今年初めて冷房を入れました。
 外気は30度前後かと思います。
5/25 柳井C礼拝前に、敷地内の畑を撮りました。
 中央には収穫された玉ねぎ。新玉ねぎもいい味です。

  5/22には六日市Cでも礼拝が行われました。

今週、来週のシオン教会礼拝は以下、記載のとおりとなります。

礼拝時間の変更があります。どうぞご注意ください。

5/28 火曜日 15時 徳山聖研

5/29 水曜日 19時 六日市C礼拝

6/1 土曜日 15時 柳井C礼拝

6/2 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
       15時半 防府C礼拝 

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


ヨハネ1423-29
故人の思い出として聞いて頂ければと思います。私の(父方の)祖父は熱心な仏徒でした。キリスト者になった私に、所属する仏教系団体の本を渡して、キリスト教に関して色々と述べたことを思いだします。「仏か、キリストか」と真顔で言われた事には驚きました。それから祖父の家に行くと、随分と肩身の狭い思いをしたことを思いだします。「あれか、これか」選択することに困らせられる選びに直面することがあります。主の時代もそうでした。「棄教か、死か」の問いの前に、主も「み言葉を守るか、守らないか」と問いかけるのです。

「守るか、守らないか」このような択一の問いは弱ります。心情的には主のみ言葉に生きる者として、現実的にはこの世に生きる者として、その場に応じた態度を取ることがあります。結果として主の愛の言葉以上に、自身の本心、本音に忠実になる。私たちの現実は「平和、平安」ということはない。私たちにも「敵」がいることがその原因でしょう。具体的に反目する人、或いは仕事の重圧、私たちの心身に在す病苦、いわゆるストレスが私たちの信仰を阻む。しかしその中で私たちはこのみ言葉と説教を読んでいるのです。

つまり、私たちは既に「み言葉を守る者」とされている。そして「み言葉に守られる」者なのです。加えて主は「聖霊が全てを教える」と語ります。これこそが「あれか、これか」の前に立ちすくむ私たちへの福音なのです。見えない聖霊を語ることは、抽象論の応酬になる危険性も踏まえます。しかし聖霊とは、使徒言行録を通して「人や出来事を通して働く」と示唆されています。つまり、困難な選択を迫られるとき、それに伴う形で神さまの助けがある。それが「平和(平安、大丈夫)を与える」という主の言葉の内実になるのです。

29節「出かけよう」と言われた主は、この時は宗教者と対峙するお気持ちだったのか。しかし思い返されたかのように「ぶどうの木」の話を始められます。「神さまとあなたは繋がっている」ことを弟子たちに強調するために、主は留まられたのです。私たちもこの繋がりの中にあるのです。主が悩める私たちの心に共にある。覚えつつ、生きたい。
 

2019年5月22日水曜日

5/18.19.22 礼拝と献花

 5/19 防府礼拝後の写真です。
 ステンドグラスからの光が良し。
5/19 徳山礼拝後の写真です。

柳井や六日市の様子も撮りたいと思っています。

今週、来週のシオン教会礼拝は以下、記載のとおりとなります。

礼拝時間の変更があります。どうぞご注意ください。

5/21 火曜日 15時 徳山聖研

5/22 水曜日 19時 六日市C礼拝

5/25 土曜日 15時 柳井C礼拝

5/26 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
       15時半 防府C礼拝

5/28 火曜日 15時 徳山聖研 

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


ヨハネ1331-35
 「愛の掟」は、「愛敵の教え」と並び私たちを戸惑わせることがある主の言葉でしょう。「愛の範囲」「度合い」などが疑問として浮かびます。またそもそも「愛」とは、人の心に自ずと芽生えるものであり、強制や命令されるものではないとも感じます。そして、愛の掟を自らに課し、それがために自身の心に無理をすることは危険です。そもそも無理をする愛が愛なのか、というところも課題です。「愛の掟」を弟子たちはどう受け止めたのか。

 弟子たちは、私たち程には深刻に受け止めなかったと感じます。弟子たちのみならずユダヤの人々の心には「十戒」という前提がありました。今日の聖書の「新しい掟(34)」に対応する旧約聖書の教えです。「十戒」とは、神さまが人間に与えたものであり、その不十分さを十分お感じになった上で賜うものなのです。十戒は一度人間によって破棄されましたが、再度それが与えられました。また内容も、人間の性向を踏まえ記載されたものなのです。つまり「人は不完全、不十分」との前提で愛を行うことが示唆されるのです。

 「互いに愛し合いなさい」の言葉だけでは戸惑います。「主が私たちを愛された」ことは分かりますが、そのように互いに愛を向けることは出来ない。ここだけではそう結論付けることしかありません。けれど、主と私たちとは、その完全さに於いて比べようがありません。私たちなりの愛を向けて行く。それは例えば、ごくわずかな、ごく限られた範囲の愛なのかもしれません。しかし、すくまず、たじろがず、主に支えられて愛する者でありたい。

 そして栄光について。この時弟子たちは、去り行くユダの背中を見ていました(30)。弟子たちには、いよいよ主の苦難が始まるという思いが満ちていたことでしょう。苦難と死、そこに終始していた弟子たちです。しかし主は「栄光」と語り、神とご自身とが相互に栄光を帰し合うことと述べられます。「苦難と死」を通って復活に至り、弟子たちと共にあることを「栄光」と言われるのです。実際、この主は悩み多い世を、不十分な器を抱えながら生きる私たちと共にあります。自らを改め、主の愛を携えて生きる群れでありたい。
 

2019年5月12日日曜日

5/11.12 礼拝と献花

 5/11 柳井教会の礼拝堂です。
 礼拝堂中央の赤じゅうたんが、日焼けしてしまったので変えようか、
 そんな話を教会員さんといたしました。
2月に産まれた赤ちゃんの賛美の声と共に守る礼拝は格別でした。
  5/12 防府教会の礼拝堂です。
 今日は母の日。教会の母として、OさんとMさんにTさんからカーネーションが
 送られました。見えにくいのですが、献花がピンクのカーネーションです。
  5/12 徳山教会の礼拝堂です。
 夜、撮りました。 こちらもカーネーションが贈られました。
 徳山では讃美歌は教団讃美歌を用いています。
 「まぼろしの影を」510を賛美しました。

今週、来週のシオン教会礼拝は以下、記載のとおりとなります。

礼拝時間の変更があります。どうぞご注意ください。

5/14 火曜日 15時 徳山聖研

5/15 水曜日 19時 六日市C礼拝

5/18 土曜日 15時 柳井C礼拝

5/19 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
       15時半 防府C礼拝 

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


ヨハネ1022-30
 エルサレムは標高が800メートルほどの高原都市です。冬は寒く、雪が降ることもあったようです。聖書は「神殿奉献記念祭」が「冬」に行われたことを記載しています。しかし「冬」なのは、何も季節のことだけを言いたいのではないと考えます。主の胸中、主を取り巻く状況も「冬の寒さ」だったのではないか。そのような意図を感じるのです。そして「冬の寒さ」とは何も主だけのことではない。私たちも諸事に直面した時に感じるのです。

 「冬の寒さ」とは、時に厳しく時にまとわるように迫るものです。この時主は既に「宮清め」を為した後でした。主を見るユダヤ人宗教者の目線は厳しいものがあります。エルサレムとはその宗教者が渦巻く場でもあります。「神殿奉献祭」とは、経緯は省きますが「国威掲揚祭」のようなものです。主に問われることは「いつまで気を揉ませるのか」と。救い主なら救い主に相応しい行動をとって欲しいし、違うのであればそのように断言して欲しいということなのです。主に厳しい目線と、人数の圧迫で迫る宗教者たちです。

 このような厳しさの中にたたずむ主は決然としています。「私と父とは一つである」つまり、神さまがいつもご自身と共にあると最後には言われます。一方、迫られた直後には、問われたことと何の繋がりがあるのか分からないことを述べられます。宗教者が望むことは「政治変革するメシア」であり、主が言われるのは「忍耐を語り、共にあるメシア」というズレまでは分かりますが、その後「羊のたとえ」が意味することは何か。これこそ「あなたを導くみ言葉に耳を傾けよ。み言葉は常にあなたを導こうとする」という約束なのです。

 「冬の厳しさ」の状況は時に私たちに迫ります。私たちは例えば祈りの中で「主よ」と祈りますが、この宗教者への答えと同じく、意図しないもの、想定しないことが帰ってくることも多々あります。しかし神さまは、常に、今置かれている場所の中で私たちを導こうとされるのです。主の「私と父とは一つである」の言葉を大切にしたい。私は私なのですが、その私に主が共にある。つまり神さまの導きと支えが私たちを常に覆っているのです。