2019年8月20日火曜日

8/17.18 礼拝

 8/17 柳井Cの礼拝堂です。
野の百合が捧げられました。
8/18 徳山Cの礼拝堂です。
ヒマワリが捧げられました。

今週、来週の予定は下記の通りです。

礼拝時間の変更があります。どうぞご注意ください。

8/20 火曜日 15時 徳山聖研 休み

8/21 水曜日 19時 六日市C礼拝 休み

8/24 土曜日 15時 柳井C礼拝 
 
8/25 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
       15時半 防府C礼拝

8/27 火曜日 15時 徳山聖研 休み

8/28 水曜日 19時 六日市C礼拝 

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


ルカ福音書 1249-53
 キリスト教は「清貧」「道徳」の教えを説く印象があるかもしれません。明治期の宣教師の影響も大きいでしょう。確かに「清く、正しく、美しく」は大事なことには違いありません。しかし当初、主の周囲に「清貧」「道徳」は二の次な人々がいたことも事実。主はその人々と親しく接し、「神の国の到来」を告げたのです。人間の行いである「清貧」「道徳」でなく、神の行為である「苦悩からの助け」を念頭に置いて、今日もみ言葉を聞きたい。

 さて、今日の主のお言葉を記載すれば「苦しみ(50)」に居られることが浮かび上がってきます。「受けねばならない洗礼(50)」の故です。ご自身の十字架をお語りになっています。ではなぜ主は十字架へと向かわれるのか。一つには、当時の宗教者との対立でした。彼らが「罪人」と定めた人々に手厚く接した。人気への嫉妬ゆえに主は奸計と知りつつ、十字架へと向かいます。主は彼らとの間には、「平和(51)」は創らなかったのです。

 ですので、「地上に火を投ずる(49)」、「分裂だ(52)」とは、言うまでもなく一般家庭への無差別な過激な言葉でない。むしろ、当時の宗教者への対立の意思を弟子たちに示したことになるのです。対立姿勢を鮮明にすることによって、一つの家庭で分裂が起きるかもしれない(52-53)。主は「八方美人」はなさらず、焦点にあるのは「苦悩からの助け」「現実に生きる人」への働きでした。その端緒をみ言葉に見出すことが出来ます。

 「家族の分裂、分断」のことは考えさせられます。近しい肉親だからこそ、分断の際には心傷むのです。聖書記載の事柄(52-53)が、自身のことを言われているような気にもなります。しかし主は私たちを痛めるために語ったのでない。直後の13章にもある「不条理」や、「理不尽」に接することがある私たちのために、これからの日々も共に居て下さるのです。「火」に類する十字架を越えた主が「苦しみ」に生きる私たちを導くのです。
 

2019年8月13日火曜日

8/4 平和礼拝と 8/10.11礼拝

  8/11 防府礼拝後に撮った写真です。牧師館と、刈った草。
  8/11 徳山礼拝後です。
こちらは8/11 防府礼拝後。柳井Cの写真は、携帯電話を忘れたため…。

 更新が一週開いてしまいました。暑さの為、何か抜けていました。

 今週、来週の予定は下記の通りです。

礼拝時間の変更があります。どうぞご注意ください。

8/13 火曜日 15時 徳山聖研 休み

8/14 水曜日 19時 六日市C礼拝 休み

8/17 土曜日 15時 柳井C礼拝 
 
8/18 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
       15時半 防府C礼拝

8/20 火曜日 15時 徳山聖研 休み

8/21 水曜日 19時 六日市C礼拝 休み

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


ルカ福音書 121321
「調停人でもなく裁判官でもない(14)」。それでは主はどのような方なのか。そして問いを発した人とどのように向かい合うか。今日の聖書が語る結論は、「同伴者(共に生きて下さる方)」としての主の姿が記載されているのです。共々に、み言葉を聞きたい。

(主に)訴えるには、訴える事情があったのです。その是非を判ずることは困難です。さて、「遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください(13)」彼()の言葉を私たちはどう受け止めるでしょうか。続けての主の言葉に「貪欲に…用心しなさい(15)」とありますし、例え話は「愚かな金持ちのたとえ(16-20)」があります。主に訴えた彼()が、「金に汚く欲張りで「愚か」」なのでしょうか。しかしそれは先入観であると思います。当時、財産は長子に帰結するものでしたが、長子には弟たちをも養うことが求められました。けれどこの弟は、生活に困っていた、つまり兄から蔑ろにされたと考えられます。加えて、訴えた町の宗教者に無下に扱われ、為す術なく主に頼みに来たとも考えられます。

文章上はこの弟の背景が分かりません。だからこそ主も、弟でなく群衆に「貪欲への注意(15)」を喚起しつつ、続く例え話(16-20)をなさるのです。この金持ちの、何が「愚か」だったのか。富の使い方を知らなかったという意味で「愚か」だったのでしょう。翻訳上の問題ですが、原文を読むと「私の穀物」「私の財産」など「私の…」という言葉が何度も出て来るのです。授かり物を自分のためだけに用いる、あるいは自分の財産に固執することが問われますし、その問いは冒頭のこの弟に跳ね返って及ぶことになります。

 主は調停人ではありませんでした。しかし同伴者として、この弟と共に諸事に向かい合って行くに違いありません。貪欲、ここでは富ですが、それを抱え込む生き方ではないものを教えて下さるでしょう。富の問題を聖書が語る時、額が問題ではないのです。そして「富がないからいいや」ということでもありません。自身の祈りの課題を、自身だけに固執しない。主に差し出してゆくとき、主は「調停人」ではなく「同伴者」として私たちの課題を祈りとして神さまに執り成して下さるのです。そして、私たちは既に、与えられたものとしての富の使い方を主に教えられています。主が与えられる使命を行っていきたい。
 

2019年8月2日金曜日

7/27.28.30 防府と徳山と草刈り

  7/28 防府教会の礼拝堂です。
 8/1には敷地内草刈りが行われました。
 7/30 徳山教会の敷地内草刈りが行われました。
7/28 徳山教会の礼拝堂です。

 来週の教会、牧師日程は以下の通りです。

礼拝時間の変更があります。どうぞご注意ください。

8/6 火曜日 15時 徳山聖研 休み

8/7 水曜日 19時 六日市C礼拝

8/10 土曜日 15時 柳井C礼拝 
 
8/11 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
       15時半 防府C礼拝

8/12 火曜日 15時 徳山聖研 休み

8/13 水曜日 19時 六日市C礼拝 休み

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


ルカ福音書 103842
「マルタとマリア」の話が与えられています。この話は「信仰と奉仕」を天秤にかける話ではありません。「信仰」の大切さは言うまでもありませんが、「愛が無ければ(コリント書13)」という言葉もあるように、奉仕もまた大切です。実際、教会から奉仕を欠いたら立ち行かなくなります。一方で「奉仕」に集中しつつも「信仰」を欠けば、自己満足かもしれません。「信仰と奉仕」とは、「車の両輪」なのです。では、この話は何を私たちに語るか。

背景を見れば「み言葉を聴くこと」が主要なテーマですし、「招くこと」も問われていると思います。「マルタとマリアの姉妹」は「ある村(38)」に居たと記されます。この二人の姉妹は、ヨハネ福音書によれば「ベタニア」という村に住んでいました。「悲しみの家」という意味の名の村です。マルコ福音書ではこの村に「重い皮膚病の人が住んでいた」という記述があります。時代的な制約の中にある箇所です。「主を家に迎え入れた(38)」マルタ、「み言葉に聞き入る(39)」マリア。神さまの優しさに飢えていたかもしれません。

まさか単なる世間話ではないでしょう。主の時代、一般的に「女性がみ言葉を聴く」ことはあり得ないこととされていました。働きの分担が決められていたのです。しかし人の心には、神さまの思いを尋ねたい気持ちは沸き起こります。「神義論(神さまの義しさ)」を求める思いがマリアの中にあったと察します。一方でマルタ。彼女も「もてなし(ディアコニア)」を、それこそ「埃まみれ」になって行っていたことと思います。これは誠心誠意、彼女の真心だったのですが、「思い通りにならないマリア」にいら立ってしまうのです。

マルタは懸命に働いていました。しかしその懸命さがマリアの傾聴を妨げたときに、主が語られたのです。マルタの台所の奉仕を責めず、むしろ「必要なことは一つ」と言われます。神さまのことを求めるマリアを妨げず、共々にみ言葉を聴こうとの「招き」でありましょう。主の眼差しには、マルタもマリアも決して失われてはならない者でした。み言葉を聴くことを中心にしつつ、マルタとマリアが同居する「信仰と奉仕」の人生を送りたい。