2019年9月15日日曜日

9/14.15.18 礼拝堂と献花

 9/15 防府Cの礼拝堂です。
連休の中日でしょうか。今日は少なめの礼拝でした。
同様に9/15の徳山Cの礼拝堂です。こちらは連休の中日にも関わらず、
普段の方々が集われました。

9/14には柳井C礼拝、9/18には六日市Cの礼拝が行われます。

今週、来週の予定は下記の通りです。

礼拝時間の変更があります。どうぞご注意ください。

9/18 水曜日 19時 六日市C礼拝 

9/20 金曜日 14時 聖書を学ぶ会 於:徳山 
 
9/21 土曜日 15時 柳井C礼拝

9/22 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
       15時半 防府C礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。



ルカ福音書 151-10
 東日本大震災の後、複数の方々(高校生/ご高齢の方)が「失って 始めて分かる ○○○」という「川柳」を投書していました。先の西日本豪雨や北部九州豪雨でも、掛け替えのないもの(ピアノ、毛布、写真)を無くされた方々の状況を見ることがありました。「掛け替えのないもの」とは、一人ひとり違うものです。普段は変わらずに用い、接しているのです。無くなった時に初めて、それがどれだけ重要だったかを思い出させられるのです。

 今日の聖書は、実に有名な主の話です。聞き手は「徴税人や罪人(1)」がいる一方で、「ファリサイ派や律法学者(2)」も集っています。主はまず「失われた羊」の話をします。彼らにとっては羊は「食べ物/財産/捧げもの」という動物でした。しかし羊飼いにとっては、それが失われるとき、掛け替えのない一匹となるのです。羊飼いはこの羊を「探す」のですし、見出された時には「大いに喜ぶ」のです。喜びの姿は、次の話にも共通します。

 「ドラクメ」とはギリシアの貨幣で、「デナリオン」と等価交換も出来ます。なぜこの女性は「異国の貨幣」を大事にしまっておいたのか。色々な想像ができますが、それが失われてしまった時にはこの女性も根気よく探し続けます。見出した時には、やはり「大いに喜ぶ」姿が記載されています。何事かが失われた時、つまり物理的には物陰や片隅に沈んでいる時、心理的には絶望や失望の最中にあるとき、神はあなたを探し求めるのです。

 銀貨には感情はありませんが、羊には不安があったのかもしれません。それぞれの主人は「見つけ出すまで」羊を探し回りますし、「ともし火を付けて」銀貨を探すのです。「悔い改め」について主は双方の話の結びで言われます。「回心」の大切さが語られていると思いますが、それに先立って「あなたの方を向いている神」を主が語って下さるのです。一大事があれば、物理的にも心理的にも留まってしまうのです。しかし、主もそこに留まられます。時が来れば、主と共に動き出したい。「私の目にあなたは尊い(イザ433)

2019年9月9日月曜日

9/7.8 礼拝

  ・・・気づいたら九月。更新が滞っていました。
 ということで、9/8 の防府礼拝の写真です。
こちらは9/7 柳井Cの全景です。良い天気でした。

 今週、来週の予定は下記の通りです。

礼拝時間の変更があります。どうぞご注意ください。

9/10 水曜日 牧師 佐賀県 大町町

9/11 水曜日 19時 六日市C礼拝 

9/13 金曜日 14時 聖書を学ぶ会 於:徳山 
 
9/14 土曜日 15時 柳井C礼拝

9/15 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
       15時半 防府C礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


ルカ福音書 1425-33
 たとえ話とは、伝えたい事を分かりやすく伝えるためにあります。「言いたい事」が掴みにくい時、「例え話」にその意味が示されています。主の話は「家族や自身を憎み、十字架を負わなければ弟子でない」という強烈なもの。厳しい話は、後半部の例え話を読み解くことで様変わりします。つまり一読すれば主の厳しさのみを感じるこの話も、恵みの話と変化します。拒絶する主ではなく、私たちを招き導く主のお姿を今日も聞きたい。

 主のたとえ話は二つ。「塔の建造」と「迎え撃つ王」の話です。勧められていることは、「手元に十分な費用があるか否か(28)」「手元の兵が十分かどうか(31)」を「腰を据えて(28.31)」考えることです。自身のもとにあるものを見直し、見返し、着目することを意図するのです。自身の手元、家族、命とはいかなるものか。その一つ一つは、不思議な巡り合わせ(神さまの配剤)で自身のもとに与えられたものではないか、と思わされます。

「努力して自身が獲得した」と見做す時には、「それを憎む」選択はあり得ません。主の冒頭の話を聞いた人々も「良く分からない」という印象でしょう。そのための「塔」と「戦い」の話なのです。聖書で塔と言えばバベルの古事。増長し、思いあがった人の姿が記載されている話です。また「出陣(31)」の時点までは相手の兵力が分からなかった王も、二万という想定外の相手兵力を見、和を求める。例え話では、人生に於いて足りなくなること、不測の事態が起こることも示唆されますが、その解決が冒頭の話なのです。

 「憎む」とは「選ばない」「委ねる」こと。「憎む」との言い方は強烈ですが、要は「命や家族のことを任せ、背負うべきものを背負って従う」ことが言われています。では「委ねる」ときにはどうなるか。主が「委ねた」ものを愛して下さるのです。神さまが下さったものなのですから、たとえ私たちが手放したとしても、それらは疎遠に扱われません。「不測の事態」の前に、腰を据えて様々な恵みの一つひとつを思いつつ、委ねて日々を生きたい。