2019年11月24日日曜日

11/22.23 礼拝と献花とクリスマス用意

 11/24 防府Cの礼拝看板です。
 この看板は、柳井Cの方が毎週祈りを込めて書いて下さっています。

 11/21 徳山cでのクリスマスイルミネーション 設置風景です。
 一人の方が高所に昇り、設置して下さいました。

 こちらもその様子。奥は牧師室となります。

 11/24 礼拝後に子どもたちもツリー設置をしました。がんばりました。
 後片付けまでも…。

  礼拝堂飾りつけの様子。

そしてこうなりました。献花はポインセチア。

 今週、来週の予定は下記の通りです。

11/26 水曜日 19時 六日市礼拝

11/29 金曜日 14時 聖書を学ぶ会 於:徳山 
 
11/30 土曜日 15時 柳井C礼拝 藤井邦夫牧師(宇部教会)
        10時 社会福祉法人 心促協会 理事会(水原牧師)
        16時 西教区常議員会 大阪(水原牧師)

12/1 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
        15時半 防府C礼拝
 
12/4 水曜日 19時 六日市C礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


ルカ福音書 215-19
ルターの言葉と「されている」ものに、「たとえ明日が世界の終末だとしても、私は今日リンゴの木を植える」というものがあります。今日の聖書は「終末」を語ります。その記載は「時は未確定(9)、現象は確定的(8.9.11)」です。ここから、恣意的に終末が語られることもありますし、カルト的扇動者の二者択一を迫る言い方は恐ろしさすら抱かせます。主はどのようなお気持ちで今日の言葉を語られたのか。共々に考えて行きましょう。

今日の聖書の語る終末は、大枠では「励まし」と言えます。「自然災害は終末の徴」でなく、その渦中で主が「励まして」下さる。現実的に、様々な出来事が起きています。それは私たちの周囲も同様です。「突然の」出来事に言葉を無くすのです。主と、さまざまな時代の扇動者との違いは「励まし」か「脅迫」かにあります。主は「惑わされないように(8)」、「言葉と知恵を授ける(15)」と語られます。鍵は「忍耐」という言葉にあります。

結論に行く前に、もう一つの枠「チャレンジ」も覚えたい。冒頭で人々は神殿に見とれています。目に見える荘厳さの陰には、当時の宗教者「への」負担と、当時の宗教者「が」人々に貸した46年分(ヨハネ220)の負担がありました。ルターの時代も然り。地方教会の苦悩が宗教改革の引き金の一つになったのです。何がチャレンジか。多くの出来事の中で、見えない神の愛、主の生き方に心を寄せるという事柄です。具体的には、自分のためにはもちろん、他者の為にも祈ること。それが求められていることでしょう。

終末とは、「世の終わり」そして「私の地上の命の終わり」とも解せます。様々な出来事にこれからも出会って行くのでしょう。「忍耐」を求められることもあるでしょう。しかし聖書の忍耐は「下に留まる」意味。そして今年読んだルカは、「低い場所、底辺」に注視する主の降誕を記載するのです。主が語る「忍耐」とは、決して孤独な作業ではありません。主と共に耐え忍び、主の御顔に照らされながら、時に俯き、そして前を向いて生きたい。
 

2019年11月17日日曜日

11/12.16.17 館山と柳井と徳山

 11/11(月) 早朝の柳井です。
 この日は9月の台風で被害を受けた屋根修理の開始日。
 足場組みから始まりましたが、折しも柳井では大雨でした。

 11/12(火)遠くに富士山を臨みつつ、館山から東京に向かうバス車内です。
千葉県館山市内で活動するボランティア団体(NCC系)に加わり、
 復旧支援活動に携わりました。

11/16(土)柳井Cです。屋根は直りました。
 無事故とのこと、感謝でした。

11/17(日)徳山Cです。
 小田原教会からの客も加わった礼拝でした。

 今週、来週の予定は下記の通りです。

11/19 水曜日 19時 六日市礼拝

11/22 金曜日 14時 聖書を学ぶ会 於:徳山 
 
11/23 土曜日 15時 柳井C礼拝

11/24 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
        15時半 防府C礼拝
 
11/27 水曜日 19時 六日市C礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


ルカ福音書 2027-40
「論語」を学校で扱い始めた時に、その読み方をまず教わりました。古典には読み方、解し方が長い年月を経て蓄積されているのです。聖書の「黙示文学」と呼ばれるものも然りです。書かれ、語られた背景に立ち、その上で私たちに意味することは何かを共に聴くのです。「復活」も、元来はそのような黙示文学の背景、つまり信仰者の苦しみ、生活の刻苦という前提で、旧約時代に語られたものです。それを否定する「サドカイ派」です。

人の復活とは、旧約では黙示文学(ダニエル/ホセア)に見出せます。信仰者への迫害が甚だしい時代、当座の苦しみと死を越えて人を救いに導く神を預言者たちは黙示で語り、人々はそれを望みとしたのです。転じて主の時代、権益と結びついた世襲制の特権階級、サドカイ派というグループが居ました。彼らは復活を否定。理由は2つ、モーセ五書に未記載であり、語る必要が無かった(彼らの対象は裕福な信仰者)からです。

サドカイ派は主を困らせる意図で質問します。模範解答は「長男」となります。「では次男以下は…」と返し、主に言葉を詰まらさせる目的です。しかし主は、サドカイ派の立場を最大限に尊重しつつ、答えられます。ユダヤの伝統的な死生観(人は死ぬと陰府に行く)を引用し、偉人三者を助けた神さまの偉業を思い、「陰府」以降の復活を語られます。学者たちは主の答えに感銘か皮肉を感じ、これ以上の質問を為すことはないのです。

主はサドカイ派の学問的立ち位置を尊重された。しかし、そもそも主にとっては、復活は学問の一つではありません。復活とは「旧約時代の黙示文学の背景」即ち、苦しみ、寂しさを抱えつつ生きる信仰者の嘆きへの応答でした。この主は時代を越えて私たちにも語られます。アドベントを控えた教会の暦は、終末(やそれに伴う復活)の事柄が語られます。ユダヤの理解では、人は死ぬと陰府に行く。しかし主はそのような陰府をご自分の十字架によって滅ぼされた。終末には恐怖なく、懐かしい人との再会があるのです。
 

2019年11月10日日曜日

11/9.10.13 礼拝と献花

 11/6(水) 益田訪問時の教会遠景でした。
祈祷会を行い、そのまま六日市Cに向かいました。

11/10(日) 防府Cの礼拝堂です。
聖壇の色は緑。ここ最近、赤(宗教改革)→白(全聖徒)→そしてみどりと
変わりました。

今週、来週の予定は下記の通りです。

11/12 火曜日 牧師 千葉県館山市

11/13 水曜日 19時 六日市礼拝

11/15 金曜日 14時 聖書を学ぶ会 於:徳山 
 
11/16 土曜日 15時 柳井C礼拝

11/17 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
        15時半 防府C礼拝
 
11/20 水曜日 19時 六日市C礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


ルカ福音書 1911-27
 主の話は、大変に後味が悪いものとなっています。27節「打ち殺せ」と。もちろんこれは主のお言葉でなく、たとえ話の「ある立派な家柄の人(12)」の言葉です。27節の言葉が無ければ、「ある立派な家柄の人」が誰かを特定するのは難しくないのですが、この言葉の故にたとえ話は難しいものとなるのです。主誕生の年、ヘロデ大王が逝去しました。不人気な後継者が、「王になるのを望まない(27)」デモ隊を武力鎮圧したという出来事がありました。主のこの話はおそらくその史実を下敷きに置いていると思います。

 主の話の要点は「ムナの運用」そこから「与えられたものを用いる」勧めとなります。マタイ福音書の「タラントの話」と似ています。あちらはそれぞれ「5.2.1」のタラント(才能、賜物)が与えられた。こちらは「それぞれ等しく1ムナ」ずつです。「才能」と異なる、神さまが私たちそれぞれに等しく与えられるものは何か。「命? 神の言葉? 」安易な結論は出せません。概算ですがタラントは5,000万円、ムナは50万円ほどの価値の貨幣単位です。

与えられたものを用いる。例えば「命」を用いるとは、他者のために自身を捧げること(人のため自分の持ち物を用いること)でしょう。「み言葉を用いる」とは、様々な形で主のみ言葉を具体化してゆくことでしょう。伝道活動というと大きくなりますが、主の愛、主の支えを有言無言で伝える。いずれにしても積極的な生き方への勧めです。賜物を、風呂敷に包んでしまうか、用いて行くか。「行い」に傾斜する箇所ですが、続きがあります。

直後に主は「エルサレム入城」をなさり、そこで「ロバ」を用いられます。世間的に見れば、乗り物としての評価は最低なものを「用いる」のです。「用いて行く」という選択肢に加えて、「用いられる」という選択肢もあることを覚えたい。聖書の根底には、存在の大切さがあります。「神は全てのものを見て良しとされた(創世記)」。ムナとは、「わたし」でもあります。神さまが私を用い、時に応じ、時にかなった益をもたらして下さるのです。