2020年2月23日日曜日

2/22.23 礼拝と献花と梅

  2/22 柳井礼拝所の梅です。満開とまではいきませんが、きれいですね。
  こちらは2/16の防府礼拝所の梅です。
  こちらは、2/23の徳山礼拝所。受付にアルコール消毒が置かれました。
こちらは、2/23の徳山の礼拝堂。
 本日は、西日本福音ルーテル教会所属ののご夫婦が礼拝に集われました。

 今週、来週の予定は下記の通りです。

2/26 水曜日 19時 六日市礼拝

2/28 金曜日 聖書を学ぶ会 於:徳山
  
2/29 土曜日 15時 柳井C礼拝 

3/1 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
        15時半 防府C礼拝
 
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


マタイ福音書 171-9
次の水曜日から「四旬節」に入ります。主の十字架と復活を思い起こす時となります。人間という、様々な限りを持つ者には無理な「受苦と新生」を、主はその身において実現なさいました。主が、人の子であり神の子であることのしるしでした。今日の聖書は主が「神の子」であることを明らかにします。そしてこの「主の変容」は、「栄光から苦難」を表すと同時に、「苦難から栄光」を現す主の十字架と復活を先取りする出来事なのです。そしてその「変容」は、主ご自身のみのことでなく、私たちにも関わる出来事となります。

「六日の後(1)」という言葉で聖書が始まります。主の受難予告と、諫めるペトロ、叱責する主の出来事の「六日後」でした。神の天地創造の六日目の御業は人間の創造。それと重ね合わせるならば、弟子たちの「再創造」という所でしょうか。叱責されたペトロを含む3人の弟子たちは、山上で主の容姿が変わるのを見ます。「輝く」姿は、神であることを示すものでした。舞い上がるペトロは「聖所」を三つ建てることを進言するのです。

ペトロは主に、栄光のまま留まって欲しかった。恐らく青銅の蛇像を持つモーセ、ラクダの毛衣を着たエリヤと共に、神の崇高さに留まることを願っていたペトロでした。それが直前の主による叱責の理由でした。そうです。主は栄光に留まることは無い、「死者の復活(9)」の言葉を通して、改めて(1621)ご自分の十字架を弟子たちに覚えさせるのです。受難と復活を弟子たちに覚えて欲しい主の思いが、「6日後」に起きたのでした。

主の十字架は、ユダヤの祭りの「過越祭」の時に起こりました。これは「死の天使が過越す(出エ12)」ことを記念した祭りでした。その古事の通り、主は自らの前に置かれた「死」を過越し、今なお復活の主として私たちを導くのです。私たちにはいくつもの「過越し」を願う祈りの課題があると思います。「憎しみ、分裂、苦難、病」など。神としての主は、私たちの祈りの課題が何であるかをご存じです。また人としての主が、悩みつつそれらを抱える私たちと共に歩んで下さるのです。そこに確信を置いて日々を生きたい。
 








2020年2月10日月曜日

2/8.9 礼拝堂と梅

  2/9(日)徳山教会の入口です。
 教会を利用される、「歌声を楽しむ会」の利用者の方がスロープを作成して下さいました。家を解いたその廃材を用いられたとか。家の廃材が、神の配剤で用いられています。
  2/8(土)柳井教会の梅の花です。一分咲き?
2/9(日)防府教会の梅の花です。一分咲き?

 今週、来週の予定は下記の通りです。

2/12 水曜日 19時 六日市礼拝

2/14 金曜日 聖書を学ぶ会 於:徳山
  
2/15 土曜日 15時 柳井C礼拝 

2/16 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
        15時半 防府C礼拝
 
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


マタイ福音書 513-16
イスラエルの観光名所の一つに「死海」があります。塩分濃度が高い湖、地上で海抜が最も低い位置にある湖。この湖や湖周辺にある「塩」は、食用には適さないということです。何故か。それは、「不純物」が混入している、具体的には「にがり」があるため、苦みを感じるということです。聖書の「(貴重品である)塩が味を無くして捨てられる」という話はこの死海塩を下敷きにしていると思われます。塩の本質が失われることがないように、それは転じて言えば、「私たちの本質が失われないように」という主の御心でしょう。

それでは、「私たちの本質」は何か」。それは「私たちが地の塩、世の光」ということです。私たちはここでも主のみ言葉に思う所が多くあります。「とても自分が…どうして私が…」と。特に主のみ言葉を聴く人の中で、「病み、患う(424)」方々はその思いが強いことでしょう。また当時の宗教者はその人々に対し、「荷物」「献品」を求めるのみの所もありました。しかし主は、あなたこそが必要だ、この世に大切な存在だ、と言われます。

なぜか。それは、光や塩の働きを考えることで分かります。光の働きは、周囲を照らすこと(15.16)ですし、その輝きは見えることに意味があります。光は「見える働き」とでも言えるでしょう。一方で塩は味付けの際に(13)、見えなくなることが肝心です(塩が見えていたのでは、辛くて食べられないでしょう)。塩は「見えない働き」とでもいえるでしょう。そうです。誰もが「見える働き、見えない働き」をそれぞれに行わせて頂いているのです。

塩の働きは、物を保つ、保持するためにも用いられます。誰もがそこに居ることで、周囲との関りに必要不可欠な味をかもし出すのです。一時の離脱は、その穴を実感させられます。また今日は柳井で祝福式がありますが、子どもの存在は私たちに光を感じさせてくれます。「神さまは私のことを必要として下さる」という神さまの愛の本質に立ちたい。その中で、私たちは光、塩として用いられていきたい。「欠け、欠点、不足」があっても、その「欠け、欠点など」から、あなたの光も塩をも周囲に自ずと漏れ出していくのです。
 

2020年2月5日水曜日

2/1.2礼拝と梅

 2/1の柳井礼拝所です。いつもは礼拝堂なので、今日は外から。

  2/2の徳山礼拝所です。左の写真は白梅。
2/2の防府礼拝所です。紅梅を中心にして礼拝堂をパチリ。

今週、来週の予定は下記の通りです。

2/5 水曜日 19時 六日市礼拝

2/7 金曜日 聖書を学ぶ会 於:徳山
  
2/8 土曜日 15時 柳井C礼拝 

2/9 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
        15時半 防府C礼拝
 
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


マタイ福音書 51-12
  聖書の個別の話を読む時、自分自身の貧しさに気付かされる時があると思います。その貧しさとは、物質的、精神的双方のことを言います。特に「(神さまを思う)霊の貧しさ、(他者を思う)愛の貧しさ」です。マタイ5章から始まる「山上の説教」などはまさに、貧しさを指摘されるものでしょう。しかし、聖書を個別にでなく連続して読み、とらえる時、貧しさを含めた自分自身が全て主の眼差しの中に置かれていることに気付くのです。

 さて、「至福の教え(4-10)」の一部は、他者に関わることへの祝福が記載されています。悲しむ者(4)、義を求める者(6)、平和を実現する者(9)、迫害される者(10)は、神の民(隣人)の苦難に関わった人々への言葉。また、柔和(5)、憐み(7)、心が清い(8)は、善なる心を持つ人々への言葉。主はこれらを「ガリラヤ巡回」を経て(23-25)、ご自分の周囲に集まる人々に語られました。そもそもこの巡回も、「人々がイエスの所へ…病人を連れて来た(24)」とあるように、人々相互の「関わり」があったことを思わされます。

 助け、関り合い、支え合う心や行動は美しく、大事なことです。しかし主は一方で、行いや実践に至らない状況をも見止められます。それが「心の貧しい人々(3)」への幸いです。「心」とは何か。直訳では「霊」となります。「霊の貧しさ」つまり「信仰の未熟」「愛の不足」を日常生活で思いつつ、歯噛みしつつ生きる人々への「幸い」が語られたのです。信仰や愛において貧しさを示した実例は、聖書で多くを上げる事が出来ると思います。

その貧しさを抱える私たちが、なぜに幸いなのか。そして「天の国を受け継ぐ」とはどういうことか。これは他の「至福の教え」とも重なるのですが、「神さまの相続人とされている」「神の子とされている」ことになると思います。具体的には、心の貧しい者と共に生き、その人々を招き、徹底的に支えて下さった主が共にあることです。この出来事、事実に立つとき、私たちの中に自ずと他者への関わりの思いが、尽きない泉のように湧き出でてくるのです。貧しさ、不足、欠如とは、不幸ではない。そこがむしろ、出発点なのです。