2020年8月30日日曜日

8/29.8/30 礼拝堂と献花

 


 写真は過去のものから頂きました。

 一枚目は徳山の礼拝堂。水仙が出ていますから、季節も自ずから推測できますね。

 二枚目は防府の教会。 これの空もなんとなく冬を思い起こさせます。

今週、来週の礼拝は下記の通りです。

8/31 月曜日 人事委員会(パソコン会議システム) 

9/2 水曜日 午前中から午後 益田訪問
       19時 六日市C礼拝

9/4 金曜日 14時 聖書を学ぶ会
 
9/5 土曜日 15時 柳井C礼拝 

9/6 日曜日 10時45分 徳山C礼拝 
       15時半  防府C礼拝
   
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
 

 「小さな思いを受け止める」  マタイによる福音書 16:2128 (32)

「あなたのパンを水に浮かべて流せ、月日が経ちそれを見出すだろう(旧:コヘ11)」という言葉があります。神さまの御心は、現実の中で予想も出来ないことを起こすという意味の「知恵」です。私たちの心には「現実に対する願い」があり、「祈り」となることもあります。一方で「現実」を踏まえ、「願いや祈り」が調整される。今日の「叱責ペトロ(23)」も同様でした。主は、人間の「現実、葛藤」の中での「祈り、願い」の整え方を語られるのです。

 

主は、ご自身が今後、支配者層から苦しめられ、死に、復活されると語られます(21)。「復活信仰」は、旧約聖書には基本的にはその概念はありません。「聖書を逸脱」し、支配者層からの敵視の発言を、弟子たちは緊張感で受け止めたことでしょう。主はこの世と、限定的でなく、広く開かれた関わりをなさるおつもりだったのです(25.27)。しかしペトロは主にそれを求めない。ペトロは主に、これまで散見された神性を堅持して、統治者として振舞って頂きたかった。「神の統治」はペトロやこの時代の多くが抱く「祈り、願い」でした。

 

「神の御子ならば…救い主ならば…」という「主への固定化」の思いが叱責の一因でした。主によるペトロへの叱責の意図は、「政治的メシア」との決別ということでした。主にとって、政治を執り仕切り、宗教者と穏健に生きる事は、あり得ないことでした。その意味で、主の「自分を捨て、自分の十字架を負う(24)」とは、主がご自身に向けて語られた言葉と言えます。人には「自分を捨てる」ことは難しいのです。苦しみの渦中の「古今の人々」に、現実の中での「共なる助け」となるため、主は十字架と復活をここで明言されるのです。

 

25節「自分の命のためでなく、主のため生きる」とは、文字通りではこれ程、困難なことはありません。しかし「我利我利ではなく、他者を思いつつ、祈りつつ生きる」ならば、いかがでしょうか。「他者」というと何か縁遠く思いますが、たとえばあなたの身近な人。その方の上に、たとえ「小さな祈り、思い」でも向けること。神さまはきっと、あなたのその小さな思いを受け止めて下さる。主は、かつてそうであったように、今も「渦中の人」と共にある。

 

2020年8月23日日曜日

8/22.23 礼拝

在りし日の徳山C礼拝堂、献花です。


 こちらは柳井。今は大型マンションが建っている所からの撮影です。

 礼拝後12時ほどから、周南市では雨が降り出しました。

雨も少しならばよいのですが・・・。

今週、来週の礼拝は下記の通りです。

8/26 水曜日 19時 六日市C礼拝
 
8/29 土曜日 15時 柳井C礼拝 

8/30 日曜日 10時45分 徳山C礼拝 
       15時半  防府C礼拝
   
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
 

 「小さな信仰を基として」  マタイによる福音書 16:1320 (31)

昔の運動会の競技に「棒倒し」がありました。小柄の方々が土台を、大柄な方々が外側を、素早い人は外周りに付いて固める。体つきの大小を長所として、それを用いる指導が為された演目でした。本日と来週、聖書は「ペトロ」の生き方を語ります。彼の名前は「大岩、巌(いわお)」と理解されることもあります。でも、ヘブライ語の「ケファ」は「小石・軽石」。そのペトロが教会の礎とされ、キリスト教の初期の伝道を担う。前半生を聞きたい。

 

「フィリポ・カイサリア」は「皇帝フィリポの土地」という意で、避暑地としてローマ皇帝に献上されたユダヤの土地。主はそこで自身の噂を求めます(13)。集まって来た答えは、いずれもユダヤの昔の「預言者」たちでした。この地はローマ支配を嫌っていたのです。彼らの答えからその求める傾向を知り得ます。一概に言えませんが、エリヤは強さ、エレミヤは優しさ、ヨハネは神の接近。町の人々は、神さまのそのようなお言葉を求めていたのです。

 

これらの求めを聞いた主は、ペトロにも水を向けます。答えたペトロの「メシアです」とは、回答としては申し分ない。これこそ「強さ、優しさ」を携えていた旧約の名君、ダビデをほうふつとさせる、聖書的伝統に立つ言葉です(失敗もありましたが…)。しかし主は、これらを言い得たのはペトロの独りの力でなく、神さまであると告げます(17)。神さまのお力と、ペトロの力量を区別されます。それは、続くペトロの呼称にも表れます。つまり、主の意図は、ペトロは「ヨナの子(バルヨナ)」であり、「小石や軽石」の如きものであることです。

 

教会の発展にはペトロの働きが不可欠でした。その前提に立ちつつも、ペトロは岩ではなく石。それも他の人々と共に、キリスト教の土台を支えた石、主と私たちとをつないだのです。「天の国の鍵」は、ペトロ、弟子たち、私たちにも授けられ (19)たのです。この世の尺度では、小さなことは低評価。しかし主は、ご自分の弟子の一人「シモン」を「ペトロ(小石)」と呼び、土台作りには「小」もまた必要であることを告げるのです。私たちは、主と誰かを「つなぐ」働きへと用いられることも思いつつ、「小さな者」として日々を過ごしたい。