2020年11月29日日曜日

11/29 礼拝堂

 待降節第一主日。飾りつけがなされました。

 玄関のリースは手造りです。飾られているものは、

 あるご夫婦が散歩の途中で見出された木の実。そして庭の花。

 こちらは玄関。子どもたちが頑張ってツリーを飾りました。

 こちらは礼拝堂。躍動感がありますね。

 紫の布が踊ります。

 柳井と防府、六日市のアドベントの様子は次週にいたします。  

今週、来週の予定は下記の通りです。
 
11/30 月曜日 10時 牧師 テレビ電話会議
 
12/2  水曜日 19時 六日市C礼拝

12/4 金曜日 14時 聖書を学ぶ会
 
12/5 土曜日 15時 柳井C礼拝 

12/6 日曜日 10時45分 徳山C礼拝 
        15時半  防府C礼拝
 
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
 
 マルコによる福音書 132437 (新約聖書89ページ)
 

 説教                 「今こそ来ませ」

待降節に入りました。ラテン語では「アドベントゥス」。主がクリスマスにこの世に、私たちのもとに「来られる」のを覚えます。例年、この日の日課は「主のエルサレム入城」でした。今年は「終末に関する教え」となります。ロバの子に乗られる主のお姿はどことなくユーモラスで親しみやすい、しかしこの「終末の教説」は、主の時代にも起きていた自然災害を思わせるものです。感じ方はそれぞれですが、今年もこの日「主の来臨」を聞きたい。

 

それでこの「主の来臨」を聴く際に覚えたい事、それは主も、当時の「黙示文学」の形式を用いて語られたことです。特に「天地鳴動」や、その後の再臨(24-27)、日時は未定ながら不意の主の到来(32-37)。ここから導き出されるのは、私たちにとっては、喜びでなく緊張の心、安心ではなく不穏な心かと思います。しかし不安大なる当時の人々は、いよいよ「この世が終わって新しい世に導かれる」という希望と期待が抱けたでしょう。

 

ただこの話の相中に、主としてのお優しさのお気持ちを思います。「いちじくの木」の話を通してです。書かれている通り、「夏の近づきは葉の成長で分かる(28)」。実際、そうですね。ただ主がこの話をなさった時期はいつか。「過越祭…の二日前(141)」ですから春。温もりと冷たさ、過ごしやすさと厳しさが同居する時期に、夏の話をなさるのです。この「温冷」は私たちの日常と言えます。そこに告げられる「確かな温かさ」の希望なのです。

 

或いは「無から有の希望」がここにある。この時期のいちじくは落葉しているのでしょう。ただ「過越祭」を経て本格的な春になると、一斉に芽吹く。今は希望や喜びが見出せなくとも、時の中で見出し得る。私たちはそれを「主の来臨」あるいは「主が共なる約束」に見出すことが出来ます。主のご降誕は、今年は大きな意味を持つ。昨年の如く出来ないことは幾つもあります。しかし、昨年どころか変わらないものがある。それが降誕なのです。

 

2020年11月25日水曜日

11/21.22 礼拝と礼拝堂

 

 久しぶりにパソコンから写真を掲載することができました。

 11/22(日)午後は広島県三原教会に、牧師就任式のために出かけて来ました。

 上記は三原教会の正面外です。

 長く教会を支えておられる方々との礼拝でした。

今週、来週の予定は下記の通りです。

 
11/24 火曜日 10時 牧師 松山出張
 
11/25 水曜日 19時 六日市C礼拝

11/27 金曜日 休会 聖書を学ぶ会
 
11/28 土曜日 15時 柳井C礼拝 
        16時 牧師 常議員会

11/29 日曜日 10時45分 徳山C礼拝 
        15時半  防府C礼拝
 
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
 
 

  「羊と山羊の飼い主」 マタイによる福音書 25: 3146(新約49ページ)

幼い頃に見た、江戸期の諸資料の記憶が残っています。「からくり絵草子」で、内容は「仏教の地獄」の説明。「悪いことをすると地獄に行く」が心に刻まれたものと思います。だからと言って、その絵草子を見てから真人間になったかというと、そんなことはありませんでした。諸宗教にはいわゆる「死後の世界」を語ることを通して、道徳的教説に結び付けることがあります。今日のこの聖書を、私たちはどのように理解するのか。共に聞きたい。

 

聖書記載の「最後の審判(31-33)」の当初に行われることは、人の二分化です。基準は「無心の一善(37)/無感心(44)」となります。このような審判が今後いつ開かれるのかは分かりません。ただ、書かれていることから、「無心の一善」への促しが為されることは確かです。教会の歴史でも、私たちの教会でも「全ての人のそばに立つ主のみ姿」を表して来ました。具体的には様々な活動が、かつて為され、現在進行形で為されています。

 

ただ幾つかの問題が浮かび上がってきます。言うまでもなく私たちは、出会う人全てに聖書通りには成し得ない、単純な二分化は出来ません。メトロノームの如く、日々揺れながら生きるのです。主はその心持ちを抱える私たちに、「羊と山羊」を話して下さったのです。旧約でも評価は不定です。彼らは「自由な動物」であり「捧げ物の動物」でもありました。しかし決定的なのは、両者ともに「罪の担い手(レビ1610)」とされていたことでした。

 

聖書の末尾で「永遠の火(41)」「罰(46)」に目が引かれます。ただ、かの日にそのように「整えられる」のは私たちの中の「山羊的な部分」ではないか。むしろ、山羊的な部分を持っているからこそ、主が十字架に架かられ、復活なさり、私たちを日ごとに導かれるのではないか。私たちにはこの主があることを確信し、身近な方々に「主の導き」があることを祈り、関わりたい。羊飼いなる主は、山羊の要素も持つ私たちをも導かれるのですから。