2021年5月25日火曜日

5/22.23 聖霊降臨祭の教会

  

5/22(土)聖霊降臨祭の柳井チャペルの様子となります。


5/23(日)同じくペンテコステの防府チャペルの様子です。


今週、来週の予定は以下の通りです。

どちらの集会・礼拝もお気軽にお尋ねください。

 
5/26  水曜日   六日市チャペル礼拝は、家庭礼拝となりました。 

5/29 土曜日 15時 柳井C礼拝  

5/30 日曜日  10時   徳山C聖書の学び
        10時45分 徳山C礼拝 
        15時30分 防府C礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

  今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。

 使徒言行録2113 (新共同訳聖書、新約214ページ)

 

 説教              「心の糧をいただく場所」

「聖霊の降臨」は、「五旬祭」の出来事でした。この祭りは「天下のあらゆる国からのユダヤ人(5)」が集い、律法授与の記念祈祷と麦の収穫感謝をすることが目的でした。使徒言行録はルカ福音書の続編です。明らかな違いは、弟子たちが「エルサレムに留まる」姿でした。祝福を受けた直後の弟子たちは神殿に赴き活動しますが、この日も含む以降は、仲間内での活動でした。「聖霊の降臨」は、仲間内での出来事を超えさせるものでした。

 

ルカ福音書では「祝福を受け、神殿で神賛美する弟子たち」がいました。日課では「聖霊を受け、伝道に勤しむ」弟子たちがいます。共に、神さまからの力を頂いて生きる人間の姿が明示されます。魂を削られるような出来事に直面する私たちに相応しい箇所です。そもそも「律法の授与」時も同様でした。意気消沈するモーセに、神は「律法と大きな音(2018)」を示します。するとモーセは、神の介入を実感し、再度人々に関わり始めます。

 

この日の聖書は、弟子たちの変貌と、それを見た人々の驚き(12)に留まります。語った内容は不明です。ただ「神の偉大な業(11)」が鍵となります。弟子たちは恐らく、この五旬祭の意義を多国語で語ったと察します。迷いの中にあった先祖に、神が律法を授与されたこと。或いは、麦作の日々の苦労に神が労って下さること。転じて、迷いつつ、日々の苦労を重ねて生きるものに、神が労いを賜うこと。聞いた人々も、喜びに至ったと思います。

 

労さなければ植えた麦が枯れるように、私たちの日々は多くの義務と作業で満ちています。律法達成の義務が当時の人々に課せられていたように、私たちの日々も同様かと思います。その中で聖書は、主イエスは、人間の行いに依らない神の愛、恵みを私たちに注ぐと言われます。その一つは聖霊。かつて神は聖霊を弟子たちに下し、伝道者へと変えられました。私たちは週ごとに、特に今日頂いた聖霊に支えられ、日々を過ごしていきたい。

 

 

2021年5月12日水曜日

5/8.9 礼拝と献花、礼拝堂

 柳井チャペルの玄関には、教会員が手掛けている花畑があります。

  こちらは、5/9の防府教会の礼拝堂。

今週、来週の予定は以下の通りです。

どちらの集会・礼拝もお気軽にお尋ねください。

 
5/12  水曜日   六日市チャペル礼拝は、家庭礼拝となりました。 

5/15 土曜日 15時 柳井C礼拝  

5/16 日曜日  10時   徳山C聖書の学び
        10時45分 徳山C礼拝 
        15時30分 防府C礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。

 ヨハネによる福音書 15917 (新共同訳聖書、新約198ページ)

 説教              「いつくしみ深い神さま」

 主イエスは、「ぶどう」に続き「友」という言葉を用いて弟子たちに「つながり」を語ります。ユダヤの人々に馴染み深い旧約物語には、対照的な二つの「友人関係」が登場します。「ダビデとヨナタン」は「サムエル記」等、「ヨブと三人の友人」は「ヨブ記」。前者は共栄、協和的な関係性が特徴。後者は「友人」がヨブに、押し付けや独善的な関わりの姿が見えてきます。主がこの話の中で弟子たち、つまり私たちに伝えようとすることは何でしょうか。

 

 主の「私はあなた方を友と呼ぶ」との言葉は、弟子たちへの「ダビデとヨナタン」の前例に似ている勧めと察します。この前例の特徴は「窮地を助ける」ことです。ダビデの窮地をヨナタンは助け(サム上20)、後年ヨナタン戦死後、彼の血筋を探し保護したのがダビデでした(サム下9)。主がこの時見られていた弟子たちの状況はまさに「窮地」でした。そこに「互いを愛する」という相互の支え合いが、個々の窮地を脱せる要点であると語られます。

 

 「互いに愛し合う」ことは「命令」と主は言われます。言葉だけでは「思いの押し付け」で、ヨブへの「三人の友人」の様相かもしれません。しかし主はこの「命令」以前に大切なことを言われていました。それが「ぶどうの木と枝」との「つながり」です。ぶどうの果実が一朝一夕では実らないように、み言葉の結実に時が必要です。でも、確実に弟子たちにその愛が、栄養が注がれていた。その実感に立ちうるときに、他者への支えが生まれるのです。

 

 ところで「私があなた方を選んだ」弟子たちの中には、退出したユダ、空元気のペトロ、そして心を騒がせる(141)弟子たちがいました。堅固ではなく、頼りない信仰の弟子たちです。主は、その弟子たちを選び、同じく弱く、不十分な人々の隣人として生きることを求められたのです。讃美歌「慈しみ深き」は、人生において多くの苦難を体感した青年の作詞です。「主が友である」「主が協和される」ことを支えにし、日々を過ごしていきましょう。