2014年9月28日日曜日

9/28 礼拝献花とメッセージ

  本日の受付の献花。秋の桜です。この時期、多く見る機会がありますが、
 間近で見るとまた一つ、秋を感じます。
 ちなみに今日の徳山の天候は、秋とは程遠い残暑でした。
礼拝献花は、百合をメインに彼岸花をサブに。秋の花の共演です。
 今日はピアノコンサートもありました。
 山口県光市出身のピアニスト、矢野吉晴さんによる1時間の演奏でした。
 矢野さんは、現在は青森にお住まいですが、帰郷の際には
 いつも 私どもの教会で演奏して下さるそうです。

 こちらも教会員のチェロの共演がありました。

 礼拝後には、サンドイッチ、ドライカレー、ミネストローネ、
 フルーツヨーグルトを頂きました。

 来週も礼拝は、日曜日10:45から行われます。
 どなたでもご自由にお越しください。

 本日の説教要旨です。新約聖書35頁からです。





説教要旨】 マタイによる福音書1815-20節 
私たちは、人間関係の中で生まれ、生きるものですし、何れ召されます。この教会でも、「先生、召されてから後のことは分かりますが、召されるまでが日々、色々あって不安なんです」と聞きます。特に私たちは、人間関係の難しさに立ち止まります。弟子たちも同様でした。主はその弟子たち「兄弟が罪を犯したら」と告げます。互いの関係性を教えるのが今日の主です。

聖書は、まずは一対一、次いで関係者を交え、速やかな解決を肝とすべし、なのです。特に、何はともあれ「行きなさい」と主は語られます。その勇気を持つ時、兄弟を得ると言われます。叶わない時には二、三人を交える。それでも解決しないならば教会に訴えよ、です。当時の教会は裁判所の役を担っていました。だから、神さまに問題解決を委ねるという意味なのです。

しかし問題が裁判でも結審しない場合です。主は相手を「異邦人か徴税人と看做せよ」と言われます。当時人々は、徴税人他とは交際しませんでした。だから、相容れない者と看做せ、私たちは、諦めていいんです。でも私たちは、「徴税人」に対しての主の行いを知っています。主は彼らとの付き合いをしました。私たちは諦めますが、主の人々への関わりは続くのです。

有る人が、他人と激しい争いになりました。二人はある日、聖餐に預かりました。二人は礼拝後、言葉は交わさなかったそうですが、互いに主の関わりを信じていた。私たちが生きる世の中では「共に聖餐に預かる」ということはない。しかし信じたいことがあります。この世の人間関係がややこしくなり、崩れる時もありますが、主が私たちの騒動の相手を憎むかというと、違います。「憎む時」にも主の愛はその人に注がれます。覚えながら過ごしたいですね。



 

2014年9月21日日曜日

9/21 礼拝のお花とメッセージ


本日も、10:45から礼拝が行われました。
本日の礼拝献花です。まだつぼみですが、今週一週間の秋の和やかさの中で
開花するのでしょう。

礼拝後は、枝豆おにぎりと、豚汁のおみそしるでした。
豚汁(←これをなんと読むか)ですが、私はトンジルと読みます。

来週も礼拝は、日曜日10:45から行われます。
どなたでもご自由にお越しください。

本日の説教要旨です。新約聖書34頁からです。



説教要旨】 マタイによる福音書181-14節 
宗教は倫理的な教えを伴います。今日の聖書にも「心を入れ替える」の言葉が出てきました。これを言われたお弟子さんたちには戸惑いの心が生まれたことでしょう。結論は「主は倫理の前に戸惑う私たちをご存じ」だということです。それで、日課を解する上で、直前のペトロへの問いかけが重要です。神殿税支払いに際して、主はペトロの分も併せて払うという記述です。

それを知る「一行」は、なぜ彼だけと思うでしょう。その出来事を引き受け「その時」と聖書は書き始めます。「誰が一番偉いか」のお弟子さんたちの問いかけは、直前の出来事から生まれたのです。主は一人の子どもを呼び、引き合いに出し、弟子たちに「心の入れ替え」を告げます。この子どものように心を真直ぐ、素直に持つようにとのことです。唸ってしまいます。

お弟子たちは改心を告げられ、身の置き場を無くしたことでしょう。しかし、「羊飼いの話」はお弟子たちを戒めるための話と解さず、慰めの使信と受け止めたいのです。この一連の出来事の中で、確かに軽率とはいえ、お弟子たちの心は迷うことでしょう。真の羊飼いとしての主は、迷い出た、今迷っている弟子たちを探し求められる、ということがここで書かれています。

私たちは「一匹の滅びもみ心ではない」の言葉を、心から受け止めたいと思います。そして今回の一連の出来事の「神殿税」の話がありました。お弟子たちには、困惑を引き起こす出来事でしたが大切な使信があります。主はペトロの分を自身の分として出した、肩代わりなさったのです。これが「贖い」。主の意識では神殿税は払う必要のないものでしたが払われます。それはペトロが生き易いようにするためだからです。それはまた,私たちに同様の「贖い」です。
 


2014年9月14日日曜日

9/14 礼拝の花とメッセージ





本日の礼拝献花です。「野の花を見よ」との聖書に従い、
全て教会の庭のお花です。テッポウユリ、彼岸花、もみじ、つた…。

本日も礼拝が行われ、礼拝後にはおにぎりとスープの愛餐でした
次週の礼拝は、9/21(日)10:45~行われます。
どなたでもどうぞご自由にお越しください。

本日の礼拝説教は、以下のとおりです。




説教要旨】 マタイによる福音書1613-20節 
今日の聖書には、主がとある場所を訪問された記述があります。その場所はフィリポ・カイサリア。当時はローマ皇帝をカエサル(“皇帝”の意味)と呼び、当時のこの地方の総督名をフィリポといいました。湖沿いの街で、大変にこの風光明美な避暑地だったようであります。フィリポはその街を、ローマ風に改築したと言われています。そこに主のご一行が到着します。

主はご自身の噂を尋ね、お弟子さんたちは主の噂を持ち帰ります。この場はローマの香り高い場所ですが人々は、旧約聖書や直近の偉人を主に当てはめます。市井に生きる人々の気持ちは、真の神さまを待ち望む心なのです。そして主は噂を集めた弟子たちにも問います。シモンが「メシア」と答えます。「私の救い主」の意味です。そして「ペトロ」の名を付与します。

シモンは豪華な街を見、街の人々の生の声を聞きます。変革を求め、助けを求める人々の声。だが主をメシアと答える。どんな状況でもシモンは主を救い主と見るのです。でもシモンが主を見る以上に、主はシモンを良く見ていた。その証拠の一つがここでシモンに下された「ペトロ」の名前です。意味は「石」です。やがてペトロは、やがて主の十字架の直前に離反します。

ペトロは主を告白した同じ口で主を否むのです。そのような覆水盆に帰らずの過ちを犯すであろうペトロでも、主は「鍵」を渡すのです。主を救い主とする告白は、一時(もちろん、何度でも)の人間的な弱さによってくつがえるはずがありません。この「鍵」は何か。人は召されると、鍵付きの二冊の本が渡されると言います。一冊は善行の本、一冊は悪事の本。善行の本には良いことが書かれている。悪事の本を開けると、ただ一言「主によって赦される」感謝。
 






2014年9月12日金曜日

9/7 礼拝の花と説教





 本日の礼拝献花でした。

 証しは、ルーテル神学校一年生の多田哲さんでした。
 電車事故の中で示された出来事が語られました。

 次週の礼拝は、9/14(日)10:45~行われます。
 どなたでもご自由にお越しください。