2014年11月30日日曜日

11/30 礼拝献花とメッセージ





 
 本日の礼拝献花です。手前にあるのは、アドベントキャンドル。
 さっそくご用となりました左の一本目です。
 ちなみに、甘い香りがしました。そうです、アロマキャンドルなのです。

 来週は黄色でしょうから、柑橘系の香りでしょうか。
  献花も、彩り豊かなものでした。

 礼拝後には、大根の葉っぱ振りかけおにぎり、味噌汁の愛さんでした。
 大根の味噌汁が美味しい時期になりましたね。

 来週も礼拝は、12/7(日)10:45~行われます。
 どうぞお越しください。

 本日のメッセージ要旨です。

 


説教要旨】 マルコによる福音書111-11節 
教会暦では新年を迎えました。その初めの日曜日に、イエスさまがエルサレムに入城なさる話を日課は示します。主の時代から遡ること前、ある人物が「真の王はロバの子に乗って王都入城する」と預言しました。そしてイエスさまは聖書で、ロバの子に乗って入城を果たします。見物人は興奮です。いよいよ預言が成就されるという心持ちです。その歓声が記されています。

降誕から始まったイエスさまのご生涯の教えは、神さまからの愛でした。その教えの要点は、神は熱情ではなく赦しであり、怒りではなく優しさでした。しかし当時の宗教制度は神の熱情、怒りを基軸とするものでした。その教えを元に潤う宗教者、政治家、受益者にとって、主の教えは利益の妨げでした。城門では歓呼の声でしたが、街中の宗教者は殺意を抱いていたのです。

イエスさまは最終的に自身を世に奉げられました。何のためか。それはイエスさまがなぜロバを選ばれたのか、にかかっています。当時ロバは荷物運搬用で飼い主の意のママに用いられました。制度の最下層に居た人々と同様の扱いでした。主はロバに「必要」と呼び、ご自身の伴とされた。どんなものでも用いられることを示すため、ロバの子もまた用いられたのです。

 イエスさまのエルサレム入城は、「罪と恵みを交換する」出来事と言えます。人々はやがて怨嗟の声を上げます。それは、イエスさまに、当初の神殿改革のような目に見える成果がないためでした。主はその罪をも背負い十字架へと一直線で、全ての罪を恵みへと変えたのです。赦されざる罪はなく、受け取り得ない過ちもないのです。このイエスさまは今年も私たちの心に近づかれます。主を真実に迎える時、罪は恵みへと変えられるのです。覚えたいですね。

2014年11月27日木曜日

11/27 徳山チャペル イルミネーションと教会紹介


2014年の徳山チャペル クリスマスイルミネーションと、
教会内のクリスマスの様子です。

音楽は、「荒野の果てに」( angels we have heard on high )
アメリカのJohn Rutter氏による編曲です。
本家はyou tube:https://www.youtube.com/watch?v=82z5KnuKjXQです。

動画作成は、Windows付属のmovie maker

今週の雨で、牧師室壁面のイルミネーションが大分、崩れました。
なおさねば。

2014年11月23日日曜日

11/23 illuminations



test
音楽はJohn Rutter // angels we have heard on high
you tube:https://www.youtube.com/watch?v=82z5KnuKjXQ
動画作成はwindows movie maker.

11/23 礼拝献花とメッセージ


 昨日から、周南市徳山は9月上旬を思わせる陽気でした。
 
 本日も、秋らしい天気の中で、礼拝と愛さんが守られました。

 愛さんは、カレー粉から作ったというカレーライス。
 何か懐かしい味わいでした。

 礼拝後は、来週から始まるアドベント(クリスマス前の待降節)
 のための、礼拝堂内外の整備が行われました。





 礼拝堂には、「聖霊の風」をイメージした布が登場。





 礼拝堂の中をぐるりと取り囲んでいます。


受付には、イエスさまの降誕の様子を物語る、降誕人形劇(Nativity)。




 クリスマス・ツリーも玄関でお出迎えです。




 一方、今まで玄関にいたアドベント・キャンドルは、礼拝堂に移動しました。
 これから一週間ごとに、ロウソクが一本ずつ灯ります。
 11/30.12/7.12/14.12/21に灯ります。

 





 玄関ではリースが、礼拝堂壁面にはイルミネーションが準備されました。

 あと数時間後、どんなになるでしょうか。

 来週も礼拝は、11/30(日)10:45~行われます。
 どなたでもご自由にお集まり頂けます。

 本日の礼拝メッセの要旨です。

 


説教要旨】 マタイによる福音書2531-46節 
「善行は良い結果を、悪行は悪い結果を伴う」とは、よく知られた言葉です。今日の聖書もその類型に倣いますが、最終的にイエスさまはその類型を突破されました。聖書はいわゆる「最後の審判」の記述です。いずれ、左右の裁きの座の前に立たされる私たちです。元々は、苦労の中で善を行う弟子たちを励まし、無為である敵対者たちへの裁きという意味がありました。

とは言え、本当の意味で弟子たちは善であったか。やがて弟子たちは、善側の人々と真反対になってしまいます。人は、善を為し得る時も、為し得ない時もあるものなのです。今日の聖書と自身を照らし合わせて読めば、私たちは山羊の側となってしまうのでしょう。しかしイエスさまは、み言葉で私たちを絶望させるか。み言葉から絶望のみを受け取ってはなりません。

確かに聖書には、微に入り細に至ることが記載されている。しかし、正しい人も無為の人も、自らの行いが選びの指針とは気付きません。神の選びは人の思いを越えるのです。自らを山羊や羊だと、今のうちから決めてしまうのは宜しくないことです。そもそも十字架上で犯罪者の一人に主は何を語るか。主に向かう心ゆえに、天国を約された主の言葉を思いだしたいのです。

 それは、今日の聖書を味気なくさせることでしょう。実もフタもなくしていまいます。でも、それが神の愛です。因果応報や当時の宗教観とも真っ向から対立するのです。私たちは、誰もが「私は山羊の側」と言わざるを得ない者です。だが主は、十字架の最期に至るまで、罪深き者と向き合い、赦されたのです。だから私は、皆さんこそまことの「羊」と言い得ます。羊のような迷える日々です。だが、主のもとにある赦しを見据え、やがて「緑の牧場」に集いたい。

2014年11月16日日曜日

11/16 礼拝メッセージと献花





 本日の礼拝献花です。「あかときいろ」は、ちょうど今の時期の
山の遠景ですね。冬の前、ひと時ですが、景色が眼の保養となります。

 本日は、礼拝後に高菜おにぎりと味噌汁の愛さんを頂きました。

 来週も礼拝は、11/23(日)10:45~行われます。

 どなたでもご自由にご参加いただけます。
 どうぞお集まり下さい。

 本日の礼拝メッセージです。




説教要旨】 マタイによる福音書251-13節 
イエスさまの時代、人の生涯が船と例えられました。当時は風力船、人力船でした。時代は今日、便利になりましたが、根底の人間の姿は変わらないでしょう。周囲の波風に先行きを定められる私たちです。聖書の話は結婚式の話です。一読して分かるように、5人の不注意な乙女は文字通り「油断」しました。「油断してはいけないよ」が、話の要点として感じられます。

洋の東西を問わず、昔話には「愚でなく賢」という類型があります。その類型に洩れず、私たちは「賢」を望みます。しかし実際の自身はどうか。「油」を持ちうる時、枯渇寸前の時、皆無の時があることを知ります。伝統的な結論は、賢女に倣い「油」の備蓄をしよう、です。今は例え皆無であっても、「終末→命の終わり」に向けて蓄える勧めが為されてきたはずです。

しかし「待ちくたびれる」乙女たちの姿にも着目したい。「賢女」も「愚女」も寝てしまいます。確かに結論は「覚醒しなさい」ですが、そうなり得ないのです。緊張感を持ちつつ生きることは大切でしょうが、そうなり得ない人の姿も語られることが恵みです。そこで、誰の心にも浮かぶ「なぜ、賢女は非寛容だったのか」ということに、大いなるヒントが隠されます。

なぜ賢女は非寛容かが大切です。「油」とは他者に分け得ず、分け得ない物のたとえです。それは心持ちです。キリスト教的に言えば、「花婿→主と共に居たいとの心持ち」。一般的に言えば、「心持ちを前に向けて生きる願い」です。それらは、他者に分け得ません。しかし、賢女が「愚女」に関わりをもったように、私たちも、生き方は分け得ずとも、関わりは持つ事ができます。波風多い日常の中、喜びを自身が持ち、その喜びを他者に関わる日々でありたい。
 

2014年11月9日日曜日

11/9 礼拝献花とメッセージ


 本日は、礼拝のなかで子ども祝福式が行われました。
 高校生から0歳まで、11名が祝福の源とされました。

 礼拝後には教会員もちよりの愛さん会が行われました。

 礼拝は来週の11/16(日)10:45からも行われます。
 どうぞご自由にお集まり下さい。

 礼拝説教の要旨です。

 

説教要旨】 マタイによる福音書2234-40節 
西郷隆盛の座右の銘は「敬天愛人」です。天を神と換言すれば、今日の聖書そのものです。隣人愛は分かりますが、「神を愛する」とは、キリスト教独特の考えなのでしょうね。東亜文化圏では「神」とは、恐れや崇敬の対象でこそすれ、愛の対象という教えはないのでしょう。聖書は「神を愛し、人を愛する」と結びます。「律法」とは聖書時代の人々の法律書。その要点を問われるのが主です。問う人の心持ちは、答えさせることで主を貶める不純な心持ちです。

例えば主が、律法の一つの文章を「これが大切」として上げても、その裏をかく心持ちでいるのがファリサイ派なのです。何とかして上げ足を取ろうという作戦なのです。対する主の答えは、質問者の浅はかさを越えます。何故なら主は、掟の一つを述べず、掟全てを与えた「神への愛」を語るのです。また、普段のファリサイ派がなし得ない「人への愛」を語るのです。

「敬天愛人」は、律法を守らせることを第一としていたファリサイ派には達成不能でした。いわば主はファリサイ派を「言い込め」ました。直前で主はサドカイ派も「言い込めた」。当時のユダヤ教の2流派を敵に回したのです。この「敬天愛人」の教えはそれだけの迫力を持ちます。西洋、東洋の文化的な差ゆえか、「神と人への愛」が希薄な自身を知らされる言葉です。

その結論と共に想起したいことがあります。聖書には「宝の民」の言葉があります。愛の命令以前に、神は守護を宣言するのです。そして今日の聖書「心、精神、思い」を尽くす愛が求められていますが、原文では「あなた」が付く。「あなたの心、精神、思い」の中での愛です。器を越えた愛を主は語らず、求めないのです。小さな心や精神、節穴の思いの愛を抱きたい。

2014年11月2日日曜日

11/2 礼拝献花、益田チャペル会員作品、メッセージ

 本日の礼拝献花です。召天者記念礼拝として行われた本日の礼拝、
献花もそれに合う形でした。
ユリはキリスト教、白菊は日本。聖餐式を伴う礼拝でした。


こちらは、益田教会の会員の作品です。
 「トロッケンゲビンデ」というものです。
 なんと、全て穀物で出来ている風景作品なのです。

こちらも同上。これは、松の実を始めとする木の実の作品です。
 
 本日も礼拝後、おにぎりと味噌汁の愛餐でした。

 来週も礼拝は、11/9(日)10:45~行われます。
 礼拝の中で、子ども祝福式が行われます。
 どなたでもどうぞご自由にお越しください。

 礼拝メッセージの要旨です。

 

説教要旨】 マタイによる福音書51-12節 
本日は召天者記念礼拝です。私たちは、懐かしい方々を前に見ています。これらの方々はかつて私たちを守り、支えた方々です。年長の肉親はもとより、年少でも動物でも、私たちに純粋さや信頼を教えてくれました。年月の移ろいと共にこれらの方々も年齢を重ね、召されました。既に何かは為し得なくとも「共に居ること」が恵みでした。本日もみ言葉を聴きましょう。

聖書は「幸いの教え」です。「薄い信仰」「喪失」「感情を溜める」「涙」「お人よし」「搾取」「係争中」「非難」の中にある人々に主は幸いを語るのです。主のみ力ならば、これらの方々は、直ぐにその反対の方向に替え得たでしょう。「強い信仰」「蘇生」を始めとする現実的な豊かさ、丈夫さ、安心などが与えられたはずです。けれど主は不思議な力を行使しないのです。

それで、なぜ「幸い」か。2つあります。1つ目。まず良いものが与えられる、の約束です。約束や希望を持つ人生は、張り合いがあります。もっともこの後、偉人、賢人、富める者が増加したという記載はない。実際の所人々の生活や信条は変わらなかったでしょう。変わったこととは、主が共にあるという事柄です。それこそが2つ目の幸いです。「辛い」という字は、十字架の上に立つことです。「幸い」は、自身の十字架と共に主の十字架もある事なのです。

 今読んでいるマタイ福音書は「共にある主」を語ります。そして主が、共にいようと選んだ対象は、凡足るものを持つ者です。聖書は、凡であり、貧を祝福し、世でまた一歩を生きることを促します。かつて、前にある召天者の方々は私たちに寄り添いました。今はみ国で主に寄り添われています。共にある主を想いつつ、召天者を想いつつ、日々を送る群れでありたい。

説教要旨】 マタイによる福音書51-12節 
本日は召天者記念礼拝です。私たちは、懐かしい方々を前に見ています。これらの方々はかつて私たちを守り、支えた方々です。年長の肉親はもとより、年少でも動物でも、私たちに純粋さや信頼を教えてくれました。年月の移ろいと共にこれらの方々も年齢を重ね、召されました。既に何かは為し得なくとも「共に居ること」が恵みでした。本日もみ言葉を聴きましょう。

聖書は「幸いの教え」です。「薄い信仰」「喪失」「感情を溜める」「涙」「お人よし」「搾取」「係争中」「非難」の中にある人々に主は幸いを語るのです。主のみ力ならば、これらの方々は、直ぐにその反対の方向に替え得たでしょう。「強い信仰」「蘇生」を始めとする現実的な豊かさ、丈夫さ、安心などが与えられたはずです。けれど主は不思議な力を行使しないのです。

それで、なぜ「幸い」か。2つあります。1つ目。まず良いものが与えられる、の約束です。約束や希望を持つ人生は、張り合いがあります。もっともこの後、偉人、賢人、富める者が増加したという記載はない。実際の所人々の生活や信条は変わらなかったでしょう。変わったこととは、主が共にあるという事柄です。それこそが2つ目の幸いです。「辛い」という字は、十字架の上に立つことです。「幸い」は、自身の十字架と共に主の十字架もある事なのです。

今読んでいるマタイ福音書は「共にある主」を語ります。そして主が、共にいようと選んだ対象は、凡足るものを持つ者です。聖書は、凡であり、貧を祝福し、世でまた一歩を生きることを促します。かつて、前にある召天者の方々は私たちに寄り添いました。今はみ国で主に寄り添われています。共にある主を想いつつ、召天者を想いつつ、日々を送る群れでありたい。