2015年9月27日日曜日

9/27 礼拝


最近、ようやく「残暑」という言葉が感じられる「暑い」日々です。

本日も、山陽三教会では礼拝が行われました。
徳山は礼拝後、カレーライスの愛さんでした。
柳井、防府ともに、本日は甲斐牧師夏期休暇の中、信徒による礼拝が
行われました。

来週も礼拝は、10/4(日) 
       徳山10:45~
       柳井10:30~
       防府15:30~
 10/1(木)には、
       益田14:00~ 
       六日市19:30~ です。 どなたでもご自由にお越しください。

 本日の説教要旨です。



【マルコ福音書93037節】
主の話には、神の国に近しい者として子どもが登場します。主のみ前で子どもたちは行儀良いですね。少なくとも主に抱かれます。その直前の弟子たちの、子ども染みている様子が際立ちます。ただ親にすがるしかない嬰児に主は、神にすがるという「模範」を語るのです。弟子たちは危機感がありませんが、併せて主は、このような弟子たちにも、そのご生涯を通して恵みの出来事を知らせるのです。見てゆきましょう。

主は前半部分で、二度目の受難予告を弟子たちに語ります。主は常に真剣です。所が弟子たちは主の予告に複雑な感情を示します「分からなかった」と。主の語る内容が腑に落ちないということです。なぜ主が死ぬのか。つまりメシアと死とが結び付かないのです。でも主の真意を確かめられません「怖くて尋ねられない」と。そして話を脇道に持って行くのです。それが「誰が一番偉いのか」という後半部分に至ります。

「誰が一番偉いか」いい大人がこんなことをと思うのは恥ずかしいです。「能力があるか」との意味なのですが、何れでもこれは、子どもっぽい言葉です。聖書はその言葉を子どもでなく弟子たちに言わせるのです。弟子たちへの痛烈な批判があります。弟子たちはこの時は不明だが今後、主の元に来た子どもたちを排除してしまいます。

主の言葉を頂いた弟子たちは改心したでしょうか。いいえ、胸が痛むほど物分かりが悪いのです。主の意に沿わぬ村に放火を試み、主の元に来た別の子を叱り飛ばし、三度目の受難予告の際に栄達を願う弟子たちです。しかしこの弟子たちですら主は受け入れたのです。それが主のみ心です。不遜な者も受け入れられたのです。私たちも同様なのです。不遜さや、心のにぶさに項垂れても主は導かれます。想起したいです。
 


2015年9月20日日曜日

9/20 礼拝の献花とメッセージ


 本日も、山陽のルーテル教会では礼拝が行われました。
 礼拝後には、各チャペルで茶菓や愛さんによる親睦が行われました。

 徳山では、会員作成による太巻きでした。
 サラダ、カニカマ、玉子サラダなど、初めて食するものもありました。

 益田、六日市では今週も礼拝が行われます。
 六日市では、今稲刈りが進められている時節です。
 どなたでもご自由にお越しください。

 来週も礼拝は、9/27(日) 
       徳山10:45~
       柳井10:30~
       防府15:30~
 9/24(木)には、
       益田14:00~ 
       六日市19:30~ です。 どなたでもご自由にお越しください。

 本日の説教要旨です。
 


【マルコ福音書82738節】
人生には、悲しみや憂いというものが付いて回ります。この世でも聖書でも「重荷」と呼びます。人が抱える物は重荷のみではありません。聖書によれば「十字架も抱える」のです。随分と荷物が多い私たちですね。けれど十字架は主と共に担うものなのです。今日の聖書では、そのことがはっきりと言われます。見ていきたいと思います。

主は自身の噂を尋ねます。ペトロは「メシア」と答えます。優良回答と思えるけれど、果たしてこれが主の求めた答えでしょうか。当時、主に求められたメシア像は、政治改革者でした。しかし、主は一挙に世の変革を為すのでなく、徐々に為されます。それが、弟子たちとのすれ違いになるのです。そのすれ違いは、日課後半で明らかです。主は受難予告をなさいます。その主を「脇で諌める」ペトロを、主は厳しく戒められます。

主の思いと、十字架を担うという後半の関連は何でしょうか。真に感謝なことがここにあります。私たちはもちろん、担うべき自身の十字架を負います。そこに意味を主は見出すのです。私たちが十字架を担う事で、それを抱えて生きることで、主の平和が徐々に進むということです。私たちの歩みは、徒労や疲れがある。それでも平和は為し得るし、作り得るのです。私たちは、日々主が用いられるものとされるのです。

聖書には「自分を捨てて十字架を担う」とありました。時として私たちは自身の十字架すら捨てたくなりますね。そんな私たちは、主から捨てられることはないのです。確かにペトロは一時主を捨てました。そのペトロを主は忘れずに拾われました。信仰者には、人生の重荷を下ろし、十字架を共に担う人がいるのです。私たちは、改めて、自身に手を述べて、私たち自身の十字架を共に担おうとされる主を覚えたいと思います。

2015年9月13日日曜日

9/13 礼拝献花とメッセージ


 本日の礼拝献花です。ピンクと白の穏やかな色合いでした。
 この日曜日は、山陽三教会では礼拝が行われました。
 今は夏の日差しが教会庭を照っていますが、風は涼しげです。

 来週も礼拝は、9/20(日) 
       徳山10:45~
       柳井10:30~
       防府15:30~
 9/17(木)には、
       益田14:00~ 
       六日市19:30~ です。 どなたでもご自由にお越しください。

 本日の説教要旨です。

 



【マルコ福音書73137節】
旧約聖書の「創世記」には神さまの「全て良しとされた」と言う言葉があります。私たちは「良し」とは思えない時があります。だが「良し」と神さまがお語り下さいます。それは、神さまが「良きを備える」ためです。今日の聖書も、最後に人々が「全て、素晴らしい」と言います。「全て良し」と同語です。主の奇跡を見た喜びの言葉です。諸事の前に立ち止まる私たちが「全て良し」と思えますか? 聖書に聴きたい。

主は不思議な行程をたどります。ティルス→シドン→デカポリス→ガリラヤ湖と。これは、一言で言えば道草です。主はそれだけ多く働くのです。目的地で一人を見出します。彼は聴覚と発語に障がいがありました。主は不思議な行為をなさいます。耳に指を、唇につばを塗るのです。当時つばには癒しの力があると信じられていました。昔の日本も同じ? 「エファタ」は呪文ではありません。主は呪術でなく当時の医療を為したのです。

それが「全て素晴らしい」の言葉に至ります。その中で見過ごせない主の行為があります。それは「深く息を付く」の言葉です。これは「溜息」「呻く」とも訳せる言葉です。目前には舌が回らない人がいます。本人は何がしかを主に訴えたいのですが「呻く」ことしか出来ません。主はこの人を前に「同じく呻く」のです。主の奇跡の根底には「共感」があります。「聞こえない」彼にも主は、心に届くと信じ言葉をかけます。

「深く息をつく」「呻く」「溜息」は私たちの日常でしょう。ローマ書には「霊が弱い私たちを助け、言葉にならない呻きを祈りとする」(ロ8:26)とあります。私たちの溜息も祈りとなるのです。ただ一つ覚えたいのは、主のみ前で溜息を為すということです。「全て良し」の言葉と共に、先に進む力が与えられるのです。全てを主に委ねたい。


2015年9月6日日曜日

9/6 教会の礼拝と献花、柳井Cの畑

毎週火曜日には水原牧師が、水曜日には甲斐牧師が柳井チャペルに行きます。
 柳井チャペルには、「一粒の麦」の方々が働いておられますが、
 その働きの一つ、畑でこんなに見事なオクラが育っています。


本日の徳山チャペルの献花です。
 私の不注意から、本日お二人の方が献花を持ち寄られることになりましたが、
 いわば「合作」のような形でこの姿になりました。
 ありがとうございました。

  今週、来週ともに、シオン教会では礼拝が以下のように
行われます。何れの礼拝、集会もどなたでもご自由にお集まりいただけます。

来週も礼拝は、9/13(日) 
       徳山10:45~
       柳井10:30~
       防府15:30~
 9/10(木)には、
       益田14:00~ 
       六日市19:30~ です。 どなたでもご自由にお越しください。



【マルコ福音書72430節】
今日の聖書は「ティルスの地方」が舞台でした。どのような地方か。異邦の地でした。主の時代、聖書の神は地域的な神とされていました。これにはもちろん、時代的な制約のせいなのですが「神はユダヤ人を愛し,異邦人は次」という理解でした。果たして神さまは一民族のみの神さまでしょうか。そうではないことを主が示されます。

この話の結論は、主は当時の枠組みを乗り越えた話です。母は娘の癒しを願う。対して主は「失われた羊」の大事を言います。主の初めの意図は「先ず身近な所から」「子どもたち」を助けるということでした。主は「犬」という、当時の理解では「蔑称」とも取れる言葉を言います。だが彼女は主の答えを逆手に取るのです。子犬でもパンくずは頂くと。「恵みは特定の所のみではない。」余りに余る恵みと考える女性です。
 
願いを一人の方に保ち続けるのは忍耐が要ります。主がこの女性に見たのはその強さ、ひたむきさでした。故に主は当時の枠組みを超えて彼女に近づくのです。別の箇所で、主はどんな人にも「太陽も雨」も降ると言われます。その中で、日傘や雨傘、帽子や雨合羽を持つか持たないかでは違うのです。皆さんは果たして、自身の守りを持つでしょうか。持つのです。今日の聖書の要点は、主は自身の枠を超え、この女性の日傘、雨傘となったということです。目前の人が大切であり、即ち私たちなのです。

話にパンくずが出てくることにも注目です。パンくずも異邦人も、取るに足らないものの代表格でした。だが主の眼差しに、取るに足らないものはないのです。「主よ」と呼ぶことを大切にしたい。「耐えられないような試練には併せない。逃れの場がある」と聖書は語ります。様々なことが重なる世の中で、寄る辺を持ちつつ生きよう。


2015年9月1日火曜日

8/30 献花と礼拝メッセージ


 ご自宅のバラを剪定した教会員が、お花のおすそわけをして下さいました。
 バラの花です。

 日曜日も、山陽三教会では礼拝が行われました。
 写真は本日撮ったために、日曜日には劣りますが、それでも十分です。

 今週、来週ともに、シオン教会では礼拝が以下のように
行われます。何れの礼拝、集会もどなたでもご自由にお集まりいただけます。

来週も礼拝は、9/6(日) 
       徳山10:45~
       柳井10:30~
       防府15:30~
 9/3(木)には、
       益田14:00~ 
       六日市19:30~ です。 どなたでもご自由にお越しください。




【マルコ福音書7115節】
食前に手を洗うか否か。誰もが「手を洗いなさい」と言われた経験をお持ちでしょう。ユダヤの社会でも手洗いは大切でした。宗教上の問題と衛生上の観点からです。ところが手洗いがおろそかになることがあります。水が貴重品という背景もありました。当時、監視の意味を込めてユダヤの宗教者が規定違反を摘発していました。特にイエスさまや弟子たちは要注意扱いでした。聖書はその出来事を私たちに語ります。

当時のユダヤの宗教者は「汚れ」を問題とします。「汚れ」は「コイノス」と原語で云います。これは元々は「公共」の意です。教会とは神と人との「コイノニア」の場です。この原語は「コイノス」でした。誰もがそのままで神さまの前に集い、人と接することが出来ます。でもユダヤの宗教者は「公共」を「汚れ」と看做します。ユダヤの宗教者には、神の前に「そのまま」はあり得なかったということなのです。

イエスさまはこの宗教者たちの言葉を聞いて「神の掟を捨てる」と厳しく言われます。食前規定が「神の掟の放棄」と。なぜか。主にとって食事とは生命の維持という意味だけではないのです。食事とは神と人との交わりのためなのです。イエスさまにとって、礼拝も交わりだが、食事も交わりなのです。うしろめたい所があっても、それを何と言われようとも、イエスさまは、誰をもみ前に集うことを喜ばれます。

主はそのままの姿でご自身の元に来る人を拒みませんでした。「そのまま、ありのまま」の教えに生きた。教会はこの主の教えを大切にする群れです。特に礼拝後の交わりを「コイノニア」と呼ぶことがありますが、これは「そのままを大切にする群れ」ということ。私たちは、シオン教会の群れとして、その教えをを大切に生きたい。