2026年3月31日火曜日

3/25六日市水仙、3/28柳井メダカ、教会、3/29徳山、3/29防府水仙



3/29(日)防府礼拝所。水仙が良い香り(良すぎる香り)をはなっています。
3/29(日)徳山礼拝所。空気はすっかり春模様。
3/25(水)六日市礼拝所そばの水仙。こちらは香らない品種とか。

3/28(土)「一粒の麦」理事さんから、子どもにメダカを頂きました。

3/28(土)柳井礼拝所の正面。春霞ですね。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


4/1 水曜日 16時 六日市チャペル礼拝 

4/4 土曜日 15時 柳井チャペル イースター礼拝 

4/5 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル イースター礼拝

       15時30分 防府チャペル イースター礼拝

4/8 水曜日 16時 六日市チャペル イースター礼拝 

4/11 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

4/12 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

3/29(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 


受難主日 説教 

マタイ福音書2745-56節 「この方はまことに神の子」

水原一郎

 この受難主日は、「主イエスの十字架での死」を覚える日です。けれども私たちは、この出来事からすぐに意味や教訓を引き出すことを控えたいと思います。むしろ、十字架の前で発せられた一つの言葉「この方はまことに神の子であった」という百人隊長の告白を、そのまま心に収める時としたいのです。私たちは今、主イエスの死を「理解する者」としてではなく、その出来事の前に立たされる者とされています。マタイは、弟子でも信仰者でもない、一人の異邦人、ローマの百人隊長に視線を向けます。彼は処刑を執行する側の人間でした。その彼の口から、この告白が語られます。


 主イエスは、十字架の上で叫ばれました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。これは、人間の絶望の言葉であると同時に、なお神に向かって呼びかける祈りの言葉です。しかし、その場に居合わせた人々は、この叫びを受け取ることができませんでした。「エリヤを呼んでいる」と取り違え、嘲りと距離の中で聞き流します。百人隊長もまた、この叫びの意味を理解した者ではありません。彼はただ、国家権力の命令のもとで、処刑の現場に立たされていた者でした。主イエスの叫びは、説明されることなく、意味づけられることなく、隊長の前に置かれていたのです。


 やがて主イエスが息を引き取ると、神殿の幕が上から下まで裂け、地が揺れ動きます。マタイは、出来事の意味を解説しません。ただ、神の側で何かが決定的に起こったことだけを描きます。その時、百人隊長は言います。「本当に、この人は神の子であった」。彼は、神殿の幕の象徴性を理解していたわけではありません。律法を学んでいたわけでもありません。そもそも神殿とゴルゴタの丘とには距離がありますから、この出来事を知ることはないのです。それでも、この告白が彼の口から発せられます。これは、彼が何かを「見抜いた」結果ではありません。むしろ、十字架の出来事そのものが、彼にこの言葉を言わせたのです。主イエスは力を示さず、神を呪わず、ただ神を呼びながら死んでいきました。その事実だけが百人隊長に示されています。その死は、ただの敗北ではなく、人の罪と断絶を神ご自身が引き受けられた出来事でした。


 マタイ福音書は、一貫して「中心ではない、周り」に置かれた人々を通して、神の子が示される物語を描いています。最初に幼子イエスを礼拝したのは、異邦の占星術の学者たちでした。また、異邦とされた女性が、信頼をもって主にすがります。そして最後に、「神の子」を告白したのは、十字架刑を執行する側の異邦人でした。神の子は、理解され、受け入れられた中心ではなく、拒まれ、失敗し、破れた場所で現されます。マタイは、十字架を「信仰の勝利」として描きません。むしろ、すべてが崩れ落ちた場所で、なお神が人と共におられるという事実を、静かに示しているのです。


 百人隊長は、ユダヤの伝統も、律法も、主イエスの教えも知りませんでした。過越の祭りという歴史的出来事の中で、偶然その場に立ち会ったに過ぎません。それでも彼は、「神の子」という言葉を口にします。これは、十字架の出来事そのものが、彼を通して語った告白です。神が沈黙されているように見えるその時、なお神は、ご自身の子を通して語っておられたのです。私たちもまた、問いを抱え、答えを持たぬまま、それぞれの十字架の下に立たされる者です。それでも、その場に神の御子はおられるのです。受難主日は、このことを、沈黙の中で引き受ける日なのです。



2026年3月24日火曜日

3/18六日市、3/21柳井、3/22防府、3/24徳山

 

3/24(朝)徳山礼拝所の、先週の献花と今週の献花の様子。

今朝は晴れで、朝の光が礼拝堂に満ちています。

3/22(日)防府礼拝所。カラーの鉢植えに、水仙が。

この水仙、すばらしい香りです。説教壇にまで届きます…。

3/21(土)柳井礼拝所。四旬節の礼拝でした。
3/18(水)こちらは六日市礼拝の直前。水仙が咲いています。


今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


3/25 水曜日 16時 六日市チャペル礼拝 

3/28 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

3/29 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝

4/1 水曜日 16時 六日市チャペル礼拝 

4/4 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

4/5 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

3/22(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 

四旬節第5主日 説教 

ヨハネ福音書1128-45節 「墓の前で、主は泣かれた」

水原一郎

① 私たちは、「死」に対して二つの距離感をもって生きています。遠い国の戦争、見知らぬ人の訃報。それらに心は痛みますが、日常の中に埋もれます。これは「三人称の死」、つまり「誰かの死」です。しかし、自分のすぐそばにいる人、家族、友人、愛する者の死に直面したとき、私たちは全く違う仕方で打ちのめされます。時間が経っても癒えず、深く心をえぐることさえあります。これは「二人称の死」、「あなたにとって、大切な人の死」です。今日の福音書に登場するマリアは、まさに「二人称の死」のただ中に立ちます。兄ラザロを失い、取り消すことのできない現実に立たされているのです。


② マリアは主イエスのもとに来て、こう言います。「主よ、もしここにいてくださいましたなら、私の兄弟は死ななかったでしょう。」この言葉は、非難というよりも、間に合わなかった現実の前でこぼれ落ちた、悲しみと信頼の入り混じった叫びです。マリアは、主イエスを信じていなかったのではありません。信じていたからこそ、主イエスの不在が、取り返しのつかないことを引き起こした、痛みとして感じたのです。主イエスは、泣くマリアと、共に泣く人々をご覧になります。そのとき、福音書は「心に憤りを覚え、動揺された」と記します。この憤りは、人々の涙に向けられたものではありません。人の命を奪い、関係を引き裂き、愛する者を引き離す「死の力」そのものに向けられた憤りです。


③ そして、短く、しかし決定的な言葉が記されています。「イエスは涙を流された。」ここに、今日の福音の核心があります。主イエスは、死を遠くから眺め、説明し、意味づけるお方ではありません。「誰かの死」として処理されがちな現実を、「あなたにとって、大切な人の死」として引き受けられるお方です。主イエスは、死によって引き裂かれた関係のただ中に立ち、マリアの涙を、ご自身の涙として流されました。私たちの家族の死、教会の愛する兄弟姉妹のその喪失は、主イエスにとっても他人事ではありません。主イエスは、私たちの「二人称の死」を、真正面から引き受けてくださるのです。


④ しかし、主イエスは涙だけで終わられません。墓で、大声で叫ばれます。「ラザロよ、出てきなさい。」それは、死の支配に対して発せられた、権威ある命の呼び声でした。閉ざされた墓、終わったとされていた命に向かい、神の言葉が放たれたのです。ラザロの復活は、再び死を迎えるという意味で、最終的ではありません。それでも、この出来事ははっきりと告げています。死は、最終的な支配者ではないことを。ラザロを眠らせた死は、主イエスの言葉の前で、絶対的な沈黙を保つことはできなかったのです。


⑤ しかし、この奇跡は、安らかな結末をもたらしませんでした。ラザロが生き返ったその直後から、人々はイエスを殺す計画を立て始めます。ラザロを墓から呼び出すために、主イエスは、十字架へと歩み出されたのです。その歩みは、偶然ではなく、神のご計画の中で引き受けられた道でした。主イエスは、命を呼び出す声の代価を、ご自身の死によって支払われました。それでもなお、主は叫ばれます。「出てきなさい」と。それは、墓の中のラザロだけに向けられた声ではありません。死に慣れ、諦めの中に閉じこもっている私たち一人ひとりに向けられた声です。四旬節の歩みの中で、墓の前で泣かれ、なお私たちを呼び出される主の声に押し出されて、私たちは今ここを、生きる者として歩み出したいと願います。


2026年3月17日火曜日

3/11六日市、3/14柳井、3/15防府の桜、3/15徳山の桜、

 

 3/15(日)防府チャペル裏手にある桜。一足早いものですね。
 3/15(日)徳山チャペル礼拝堂。
 3/14(土)柳井チャペル礼拝堂
 3/13(金)徳山チャペルの外の桜。

 この桜を植えたと伝えられるご婦人のもとに、来週面会します。

 3/11(水)六日市チャペル礼拝前。

 何か、新しい命を思い起こさせます。


今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


3/18 水曜日 16時 六日市チャペル礼拝 

3/21 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

3/22 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝

3/25 水曜日 16時 六日市チャペル礼拝 

3/28 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

3/29 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

3/15(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 


四旬節第4主日 説教 

ヨハネ福音書91-41節 「あなたの中の、神の業」

水原一郎

 今日の福音書には、生まれつき目の見えない人が登場します。弟子たちは主イエスに尋ねました。「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか、それとも両親ですか」。苦しみには原因があるはずだ、という問いです。しかも「生まれつき」であるなら、本人以外に理由を求めるしかない。そうして人は、苦しみを誰かの罪に結びつけます。この思考は遠い昔のものではありません。私たちもまた、「なぜ自分が」「誰のせいなのか」と問い続けます。その問いは理解を求める叫びであると同時に、苦しみを裁きへと変えてしまう危うさを含んでいます。


 主イエスは、その因果論を退けられました。「本人の罪でも、両親の罪でもない」と。けれども、ここで主は苦しみの理由を説明されたわけではありません。なぜ彼が盲目なのか、その背景は語られないままです。聖書は、すべての苦しみの「原因」を解き明かす書物ではありません。ここで起きているのは「神の沈黙」でしょうか。もちろんそれもあります。それに加えて「問いの転換」です。主は「なぜ」という問いを抱く人に語ります。それは「いま、この現実の中で神が何をなさるか」ということです。そこに視線を向けるよう、優しく促す方なのです。神は苦しみを望まれた、とは語られません。しかし同時に、それを無意味な闇、出来事として放置される方でもないのです。


 主イエスは言われます。「神の業が、この人に現れるためである」と。この言葉は、神が彼を盲目にしたという宣言ではありません。すでに存在しているこの現実のただ中で、神の業が現れるという宣言です。神は苦しみを作り出す人ではなく、その只中にあり、「なぜ」と問いかける人に働きかける方です。主イエスは土をこね、彼の目に塗り、シロアムへ遣わされました。彼は従い、洗い、見えるようになります。ここで変えられたのは「目が見えない」という出来事の意味づけでした。苦しみはもはや「罰のしるし」として固定されず、神が働かれる場として開かれたのです。


 しかし物語はさらに深まります。癒された彼は、宗教指導者たちに問い詰められ、ついには会堂から追い出されます。見えるようになった者が排除され、見えると自負する者たちが実は見えていないことを露わにします。主イエスは言われます。「私は世の光である」。光は慰めであると同時に裁きです。光は闇を照らすだけでなく、私たちの思い込みも照らします。盲人は「あの人」から「主よ、信じます」へと信仰を深めていきました。しかし指導者たちは、自分は見えていると言い張ることで、かえって盲目にとどまりました。ここで問われているのは、私たちがどちらに立つのかということです。


 この福音は、今日の私たちにも向けられています。私たちの苦しみの理由がすべて説明されるわけではありません。罪と苦しみが無関係だと単純に言えるわけでもありません。しかし少なくとも、目の前の苦しみを直ちに神の罰と断定することはできないのです。四旬節、私たちは主イエスが十字架において人類の闇を引き受けられたことを覚えます。神は苦しみの外から論じる方ではなく、その中に立たれる方です。「神の業が現れる」。「神の業」とは、病気が消えること、仕事の成果が出ること、苦しみが消えることではありません。共にいてくださる神を知るようになること。成果が出なくとも、私という人間の価値が揺るがないことを知ること、絶望だけが最後の言葉でないと知ること。それもまた、神の業です。私たちはそのことの証人とされているのです。



2026年3月10日火曜日

3/7柳井、3/8防府、3/10徳山、3/9グリーンピース、3/10じゃがいも用意

 

3/10(火)ジャガイモの作付け用意を始めました。
3/9(月)今年はグリーンピースに挑戦します。
3/10(火)徳山礼拝所の朝。
3/8(日)防府礼拝所。今度は道路がわの桜が咲きました。
3/7(土)柳井礼拝所。

3つの礼拝所では、「世界祈祷日」を覚えての祈りが捧げられました。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


3/11 水曜日 16時 六日市チャペル礼拝 

3/14 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

3/15 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝

3/18 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

3/21 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

3/15 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

3/8(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 

四旬節第3主日 説教 

ヨハネ福音書45-42節 「のけ者から、必要な人へ」

水原一郎

① 今日、福音書に登場するサマリアの女の背景は「孤独」というものでした。彼女は「正午ごろ」、井戸に水を汲みに来ました。これは、単なる時間の描写ではありません。当時、水汲みは朝夕の涼しい時間帯に、女性たちが連れ立って行うのが普通でした。正午の井戸には、誰もいない。彼女は人目を避けるようにして、誰とも顔を合わせずに水を汲もうとしていたのです。つまり、村の中の「のけ者」でした。


②  なぜ、彼女はそんな目で見られたのか。聖書は、彼女に「五人の夫がいたこと」、そして「今の相手とも結婚していないこと」を記しています。どのような事情があったのかは、もはや分かりません。正確な事情は本人が知るのみです。ただ、憶測は先立ちます。彼女は人々から「結婚という関係を築くことに失敗した女」や「期待される役割を果たせなかった女」という烙印を押されていたのです。そんな彼女に、イエスは語りかけます。「水を飲ませてください」と。「あなたは、私に水をくれることができる。あなたには、それができる力がある」と言うのです。のけ者、恥の女、誰からも相手にされないと思っていた彼女に、「あなたは必要だ」と告げるように、なのです。


③ なぜ、主イエスはこの女性にこのように向かい合うのでしょうか。4節には、主イエスの行動が「サマリアを通らねばならなかった」ものと語ります。サマリアという土地が、当時のユダヤ社会の枠の中で、出来るならば避けることが望ましいこと、しかし道路の都合上、通らざるを得ない場所であるという意味です。ただそれは、当時の世界観の説明であるだけです。主イエスは、サマリアを通ることに戸惑いはなく、律法をこの女性との出会いに際し振りかざすこともなさいません。要は、「失敗した女性」という見方をしないのです。主イエスはこの女性と出会い、その心にみ言葉を語ろうとされるのです。なぜこのように向かい合うのか。それは、「神は愛」だと示すためなのです。


④ かつて夜、主イエスのもとを訪ねたニコデモにも、主イエスは3章で「神は愛」と示しました。同じように、この状況に渇く女性に主イエスは「神は愛」と示すのです。ことに「神は、霊と真理をもって礼拝する者を求めておられる」。神は、「特別に正しい人」や「過去に傷がない人」ではなく、「正直に渇きを差し出す人」を求めておられるのです。彼女はそのことを悟ったとき、もはや井戸の水には執着せず、水瓶を置いて町へ駆け戻りました。そして人々に「イエスに会ってください」と語り始めました。かつては人目を避けていた彼女が、今は人々の前に出て、自らの口で語る人に変えられました。


⑤ 今日の私たちにも、同じ福音が語られています。主イエスはそんな私たちに、「水を飲ませてください。私は、あなたを必要としている」と語りかけてくださいます。私たちが抱える渇き、孤独、過去の傷も、すべてをご存じのうえで、神は私たちを必要としてくださる。なぜなら「神は愛」だからです。だからこそ、私たちもまた、周りの人の「水を飲ませてください」という声に耳を傾けたい。それは、大きなことではなく、小さな助けで十分です。たとえば、誰かの悩みに耳を傾けること、孤独な人に声をかけること、「あなたはここにいていい」と伝えること。私たち一人ひとりが、**「必要とされる喜び」を知るとき、心の渇きは癒され、井戸の水ではなく、「命の水」**によって潤されていきます。主は今日も、私たちに語りかけています。「水を飲ませてください。あなたは、必要な人です」と。その招きを、静かに心に響かせたいと思います。アーメン。











2026年3月3日火曜日

3/1防府、3/3徳山

 

 3/3(火)朝の徳山礼拝所。

 昨晩は「春の嵐」でした。

 今朝も小雨で曇り空。けれど礼拝堂は今朝も光の中にあります。

3/1(日)礼拝前の防府礼拝所。

聖餐式が行われました。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


3/4 水曜日 16時 六日市チャペル礼拝 家庭礼拝となりました。 

3/7 土曜日 14時半 関係者の記念会

       15時 柳井チャペル礼拝 

3/8 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝

3/11 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

3/14 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

3/15 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

3/1(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 


四旬節第2主日 説教 

ヨハネ福音書3章1節-12節 「明けの光の中で」

水原一郎

① 今日の福音書には、ニコデモという人が登場します。ユダヤの指導者の一人で、「ファリサイ派の教師」でした。このニコデモが、夜の闇に紛れて、そっと主イエスを訪ねました。先立つヨハネ福音書2章で、すでに主イエスは神殿で商人たちを追い出し、大きな波紋を広げていた時期でした。ニコデモは、主イエスの行動に危うさを感じる反面、心の奥底では主イエスに惹かれるものがありました。だから夜を選び主イエスを訪ね、言います。「神が共にいなければ、あなたのなさるしるしは行えない」と。この言葉は、表向きの挨拶ではなく、心の葛藤に揺れる者の精一杯の問いかけでした。


② 主イエスは答えます。「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ここで「新たに」として使われている言葉は、実は「再び」とも「上から」とも読める言葉です。ニコデモはこれを「再び」と受け取り、「年老いた者がどうして母の胎に戻れるでしょうか」と問い返します。しかし主イエスが語られたのは、「上から」の誕生でした。人間として、赤子に帰ってやり直すことではありません。年齢を重ねても、神さまと共に始まる新しい命です。それは「水と霊によって」生まれる命。預言者エゼキエルが語った、神が清い水を注ぎ、新しい心と霊を与える、その約束の成就です。ここで求められているのは努力ではなく、神さまが自分の命に共にあるという、起源の変換です。


③ 主イエスは続けて語ります。「風は思いのままに吹く。どこから来て、どこへ行くのか、あなたは知らない。霊から生まれる者も、皆そのようだ。」神の働きは、私たちの理屈や計算を遥かに超えています。私たちはどうしても、目に見えるしるし、はっきりした答えを求めます。議員であるニコデモにとっては、祭儀を行うことや律法に基づいた生活を送り、他者に教えることこそが、そうした「確かさ」でした。しかし、神の救いは風のように自由です。人間の計画を超え、静かに、思いがけない場所で働き始めます。


④ 主イエスはニコデモに厳しく問います。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。」これは、ニコデモの信仰の根を揺さぶる問いでした。そして主イエスは続けます。「人の子は上げられなければならない。」それは十字架を指し示す言葉です。新しく生まれるとは、単なる内面の変化ではありません。十字架に上げられるキリストを見上げること。自分の理解や積み重ねが通用しない場所で、ただ神の愛を受け取ることです。「神は、そのひとり子をお与えになったほどに、この世を愛された。」この愛は、十字架というかたちをとります。ニコデモはこの夜、その意味をまだ知らされてはいませんでした。彼は問いの中に立たされただけです。


⑤  ニコデモはこの後、長い夜を迎えます。ヨハネ福音書では、7章で彼は慎重ながらも主イエスのために発言し、19章では、十字架の後、葬りのために香料を携えて現れます。彼が理解し、恐れを脱したのか、語られていません。ただ確かなのは、十字架のもとに彼が立っていたという事実です。始まりは夜でした。しかし物語の頂点は、十字架の夕暮れです。四旬節を歩む私たちもまた、身近なこと、近しいことの意味を十分に理解できないまま、明日へと導かれます。神の愛は、私たちの理解を待ってから働くのではありません。むしろ、闇のただ中に十字架を立て、そこから新しい命を始められます。夜がすぐに朝に変わるとは限りません。しかし、夜でも十字架の主を仰ぐのです。私たちは理解が不十分でも、既に神から始まる命の中に置かれています。