6/22(日)防府チャペルの礼拝堂です。不思議な百合です。
6/21(土)柳井チャペルの礼拝堂。聖霊降臨節が始まりました。
教会の色は、徳山チャペルも含めて「緑」となります。
成長を表す色となります。
6/22(日)徳山の礼拝では、ご入院中の方の闘病を覚えて祈りが捧げられました。
これは六日市礼拝所の方が、わざわざ取り寄せてくださったものです。
子どもにとっては、教会の「緑」より、こちらの「緑」のほうが喜ばしいでしょう。
今週以降の行事は、以下のとおりです。
いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。
6/25 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝
6/28 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時 防府チャペル礼拝
西中国地区講壇交換のため、西川晶子牧師による礼拝です。
7/2 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝
7/5 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
7/6 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 休会します。
10時45分 徳山チャペル礼拝
15時 防府チャペル礼拝
6/22(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。
聖霊降臨後第2主日 説教
ルカ福音書8章26節-31節 「音を上げる時、主は聞かれる」
水原一郎
① 本日の聖書箇所は、ルカ福音書8章26節~31節です。ここに登場するのは、悪霊に取り憑かれた一人の男。その男の「助けを求める声」に応える主イエスの姿が描かれています。私たち自身のうちの「叫び」に主が向き合われることをも覚えます。
② 26節、「一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた」。この一文には、主イエスの意志と目的が込められています。一行の中心には主イエスがおられ、主はユダヤの地を離れ、「荒海を越え(8:23-24)異邦とされるゲラサに向かいました。上陸したのは、賑やかな港町ではなく、人里離れた場所でした。そこにいる「ある男」のためでした。27節、「イエスが上陸されると、悪霊に取り憑かれた男が出てきた」。主は彼に出会うため、その場所を選ばれたのです。
③ 28節、男は「イエスを見ると」突然、「苦しめないでくれ」と叫びました。ここで大切なのは、この叫びが、男の中にある「助けを求める声」だったことです。彼の本質は、主のもとへ近づこうとしています。しかし、その内にある別の人格―悪霊は、主に関わられることを恐れ、拒ませたのです。行動も言葉も、一見ちぐはぐに見えますが、根本には「主への近づき」と「救いを求める切実な叫び」がありました。
④ ここで少し、日本の宗教文化にも目を向けてみましょう。仏教には「観世音菩薩(観音様)」という存在があります。観音とは「音を観る方」と書きます。ここで言う音とは、世に生きる人々の苦しみの声、嘆きの声です。それを深く見つめ、聴く存在です。今日の主イエスもまた、人知れず発せられる叫びに耳を傾けるお方として現れます。異邦の地にまで出向き、名も知らぬ男の叫びに応えられるのです。
⑤ この男はもともと、ゲラサ地方の村に住んでいました。人生のどこかで心を病み、病まされ、社会から離れざるを得なくなったのでしょう。失敗、喪失、後悔―さまざまな背景が考えられます。29節に「鎖や足かせで監視されていた」とあります。周囲の人々も、彼を放っておけなかった。けれども、拘束して遠回りに見守るしかなかったのです。彼はそれを拒み、鎖を断ち切って墓場へと去ったのです。「自由を求めた」行動であると同時に、「誰も理解してくれない」ゆえの苦しい選択でもありました。
⑥ 主は彼に名を尋ねます。「名は何というのか?」。彼は答えます。「レギオン――大勢です」と。男の中には多くの人格、分裂した感情や、心の傷が存在していたのでしょう。その混乱の奥底には、「主に出会いたい」という願いが秘められていました。主はその声を聞き取り、男に近づかれました。たとえ、外側から見れば「かまわないでくれ」という拒絶の言葉であっても、それが心の叫びであると見抜かれたのです。
⑦ 癒し物語ではしばしば、「癒された」ことばかりに注目が集まります。しかし、もっと注目すべきは、主が「向こう岸に渡ろう」(8:22)と語られたその意志です。主は「嵐に遭っても」引き返すことなく、ゲラサに向かわれました。たった一人の男の叫びのために。今週、私たちもまた、心の中にある助けを求める声を発してみましょう。その小さな声に、主は必ず耳を傾けてくださいます。