2025年6月24日火曜日

6/21.22の教会と益田メロン

 

 6/22(日)防府チャペルの礼拝堂です。不思議な百合です。
 6/21(土)柳井チャペルの礼拝堂。聖霊降臨節が始まりました。

 教会の色は、徳山チャペルも含めて「緑」となります。

 成長を表す色となります。

 6/22(日)徳山の礼拝では、ご入院中の方の闘病を覚えて祈りが捧げられました。

 こちらはメロン。島根県の益田市は、メロンの産地となっています。

 これは六日市礼拝所の方が、わざわざ取り寄せてくださったものです。

 子どもにとっては、教会の「緑」より、こちらの「緑」のほうが喜ばしいでしょう。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

6/25 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝

6/28 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

6/29 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 休会です。

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

       西中国地区講壇交換のため、西川晶子牧師による礼拝です。

7/2 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

7/5 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

7/6 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 休会します。

       10時45分 徳山チャペル礼拝

        15時 防府チャペル礼拝 

6/22(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。

聖霊降臨後第2主日 説教 

ルカ福音書826-31節 「音を上げる時、主は聞かれる」

水原一郎

  本日の聖書箇所は、ルカ福音書826節~31節です。ここに登場するのは、悪霊に取り憑かれた一人の男。その男の「助けを求める声」に応える主イエスの姿が描かれています。私たち自身のうちの「叫び」に主が向き合われることをも覚えます。

                                                                       

  26節、「一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた」。この一文には、主イエスの意志と目的が込められています。一行の中心には主イエスがおられ、主はユダヤの地を離れ、「荒海を越え(8:23-24)異邦とされるゲラサに向かいました。上陸したのは、賑やかな港町ではなく、人里離れた場所でした。そこにいる「ある男」のためでした。27節、「イエスが上陸されると、悪霊に取り憑かれた男が出てきた」。主は彼に出会うため、その場所を選ばれたのです。

                                                                       

 28節、男は「イエスを見ると」突然、「苦しめないでくれ」と叫びました。ここで大切なのは、この叫びが、男の中にある「助けを求める声」だったことです。彼の本質は、主のもとへ近づこうとしています。しかし、その内にある別の人格悪霊は、主に関わられることを恐れ、拒ませたのです。行動も言葉も、一見ちぐはぐに見えますが、根本には「主への近づき」と「救いを求める切実な叫び」がありました。

                                                                       

 ここで少し、日本の宗教文化にも目を向けてみましょう。仏教には「観世音菩薩(観音様)」という存在があります。観音とは「音を観る方」と書きます。ここで言う音とは、世に生きる人々の苦しみの声、嘆きの声です。それを深く見つめ、聴く存在です。今日の主イエスもまた、人知れず発せられる叫びに耳を傾けるお方として現れます。異邦の地にまで出向き、名も知らぬ男の叫びに応えられるのです。

                                                                       

 この男はもともと、ゲラサ地方の村に住んでいました。人生のどこかで心を病み、病まされ、社会から離れざるを得なくなったのでしょう。失敗、喪失、後悔さまざまな背景が考えられます。29節に「鎖や足かせで監視されていた」とあります。周囲の人々も、彼を放っておけなかった。けれども、拘束して遠回りに見守るしかなかったのです。彼はそれを拒み、鎖を断ち切って墓場へと去ったのです。「自由を求めた」行動であると同時に、「誰も理解してくれない」ゆえの苦しい選択でもありました。

                                                                       

  主は彼に名を尋ねます。「名は何というのか?」。彼は答えます。「レギオン――大勢です」と。男の中には多くの人格、分裂した感情や、心の傷が存在していたのでしょう。その混乱の奥底には、「主に出会いたい」という願いが秘められていました。主はその声を聞き取り、男に近づかれました。たとえ、外側から見れば「かまわないでくれ」という拒絶の言葉であっても、それが心の叫びであると見抜かれたのです。

                                                                      

 癒し物語ではしばしば、「癒された」ことばかりに注目が集まります。しかし、もっと注目すべきは、主が「向こう岸に渡ろう」(8:22)と語られたその意志です。主は「嵐に遭っても」引き返すことなく、ゲラサに向かわれました。たった一人の男の叫びのために。今週、私たちもまた、心の中にある助けを求める声を発してみましょう。その小さな声に、主は必ず耳を傾けてくださいます。

                                                                     















2025年6月17日火曜日

6/14.15 結婚式の直前、そして柳井

 

 時系列としては、より新しいものです。

 6/14(土)柳井礼拝。結構強い雨の中、それでも大勢の方が

 「三位一体主日」の礼拝に集われました。


 6/14(土)徳山チャペルで行われた教会結婚式直前。

 バージンロードが中央にあります。右側にはお花。

 式をあげられたお二人の上に、神さまの祝福を祈ります。

 今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

6/18 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝

6/21 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

6/22 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

6/25 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

6/28 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

       西中国地区講壇交換のため、西川晶子牧師による礼拝です。

6/29 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 休会します。

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       西中国地区講壇交換のため、西川晶子牧師による礼拝です。

       15時 防府チャペル礼拝 

       西中国地区講壇交換のため、西川晶子牧師による礼拝です。

6/15(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。

復活節3主日 説教 

ローマの信徒への手紙51-5節 「失望に終わらない希望」

水原一郎

   年間52回ある礼拝の中でも、「三位一体主日」はキリスト教信仰の土台を見つめ直す特別な時です。父なる神、御子イエス・キリスト、そして与えられた聖霊――この三者の一致と働きが、私たちの救いのすべてを支えているからです。


    この手紙はその名のとおり、「ローマのクリスチャン」に宛てられたものです。彼らが直面していた「苦難」に対して、パウロは「希望へと至る道」を示そうとしました。彼の語る言葉の背景には、パウロ自身が経験した様々な苦難がありました。そして、それらがやがて希望へと変えられてきた実例があるのです。すなわち、この御言葉は、実際の苦しみのただ中で与えられ、語られた、生きた言葉なのです。


  私たちも今、それぞれに苦しみや重荷を抱えています。心や体の不調、働きの行き詰まり、人間関係の痛み……。そうした現実に思いを向けつつ、「パウロの苦難」に耳を傾けてみたいと思います。聖書に描かれている彼の苦難とは、病による疲労、宣教の不振、信頼して委ねた教会の混乱など、多岐にわたります。たとえば、パウロは「自分の肉体にとげが与えられた」(第二コリント12:7)と語っています。これは心臓の疾患と考えられています。また、「投獄」されること(第二コリント11:23)や、説教が群衆の妨害にあったこと(使徒13:44)、地方教会での混乱(第一コリント1章、ガラテヤ1章)なども経験しました。さらには晩年、協力者に見捨てられ孤独に苛まれた様子も、第二テモテ4章に記されています。


    しかし、パウロが特異なのは、そうした苦難を「ただの不幸」としては受け取らなかった点です。彼はこう語ります――「(神さまの/主イエスの)力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(第二コリント12:9)。つまり、自身の弱さの中にこそ、主の力と導きが現れると信じたのです。今日の箇所でも、苦難が「忍耐」へ、そして「希望」へと変えられていく過程が語られます。さらにその希望は、「私たちに与えられた聖霊によって注がれた神の愛」に根ざしているとも語ります(5節)。私たちがどんなに弱くても、聖霊が内から働き、神の愛を思い起こさせ、支え続けてくださる。それはパウロ自身の体験であると同時に、第三者である「ローマの教会」「私たち」にも当てはまる真理です。


   「苦難をも誇りとする」(5:3)という言葉は、決して軽々しく受け入れられるものではありません。私たちは、苦難の時、信仰や聖書の知識だけでは耐えられないと感じるからです。祈る力さえ失うことがあります。それでもパウロは繰り返します―「キリストによって」(1節)、「キリストのおかげで」(2節)。自分自身の信仰の強さに頼るのではなく、どんな時も私たちを導くキリストにこそ目を向けよ、といいます。信仰が強いか弱いかではなく、「キリストが共にいる」という確かな事実に頼るのです


     神は、御子キリストを通して、今も私たちに働きかけておられます。その働きが最もはっきりと現れるのは、実は「苦難のただ中」にあるのです。今は苦難が重く、希望など到底見出せないと感じるかもしれません。しかし、後になってふと振り返ったとき、「あの時、神の御手が共にあった」と気づかされる――それが信仰の歩みなのです。希望とは、昔の記憶に生まれ、現在の私たちを静かに支える力、今の苦難に生まれ、未来を支える力です。どのような状況にあっても、神が確かに私たちを導いてくださる――この確信を胸に、今週もそれぞれの場所へと遣わされていきましょう。


 




2025年6月10日火曜日

ペンテコステ、そして教会結婚式

 

 6/10(火)に撮影した徳山チャペル。

 聖霊降臨祭と、6/14(土)教会結婚式を控えた様子です。

 6/8(日)防府チャペル。おっと、右の部屋の扉を閉め忘れました。
 6/7(土)柳井チャペル。献花は、典礼色のオンパレードでした。

 緑の葉、白の花弁、紫の花、そして赤。と。

 今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

6/11 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝

6/14 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

6/15 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

6/18 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

6/21 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

6/22 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

本日の礼拝説教の要旨は以下の通りです。

聖霊降臨祭 説教 

創世記111-9節、使徒言行録2章1-12節 「」

水原一郎

    創世記の「バベルの塔」が、聖霊降臨祭の第一朗読として与えられています。

第二朗読「使徒言行録」と合わせ「神の力が私たちと共にある」ことを聞きましょう。


    バベルの塔の物語を、塔の「材料」に着目してみましょう。創世記113節に出てくる「シンアルの地」とは、現在のイラク周辺、産油地です。この地域では当時、泥を焼いて作るレンガと、天然アスファルトが建築材料として用いられました。これらの技術は、人々により堅く、長持ちする建物を建てることを可能にしたのです。注目したいのは、「石と漆喰」が用いられなくなったことです。新しい技術の登場によって、従来の材料や技能は不要とされていきます。ここには、「新しいものが選ばれ、古いものは捨てられる」という、現代にも通じる構造が表れています。


    新しい材料が登場したとき、古い素材は不要となりました。石と漆喰を扱う人々の仕事は、知られぬうちに消えていったかもしれません。私たちの社会にも、この構造は見られます。目立たないところで、誰かの居場所が失われています。高みを目指すとき、気づかぬうちに誰かが踏み台になっています。「選ぶ側」にいるとき、私たちは排除される声に鈍感になります。しかし、もし私たち自身が「古いもの」と見なされる立場に置かれたら。神の眼差しは、その仮定に注がれています。


    1節にはこうあります。「全地は同じ言葉を使っていた」。理想のように思えるこの「一つの言葉」。しかし、危険は潜んでいました。言葉が同じでも、心が通うとは限らないことです。共通言語があっても、「小さな声」である「石と漆喰」に携わる人々の声は聴かれなかったのです。進歩や進化は否定出来るものではありません。しかし、進歩の過程で、私たちは何を失ってきたのか。この社会が忘れているものは何か。「石と漆喰」が忘れられ、「アスファルトとレンガ」が用いられることに現れています。


    ここで、神さまはどこに登場するのでしょうか。5節に「主が降って来て、町と塔をご覧になった」とあります。人は高きを目指します。しかし神は降ってこられます。神さまは、人々の「このようなこと」に対して警告を発されます。「塔の建設」という行為そのものではありません。高きを目指す過程で、不要と見なされたものを「切り捨てる」警告です。そしてそのことは、主イエスの時代も今も同様に起きていることです。現実には、主イエスの時代にもなお、社会から排除される人々は存在していました。その時代の中で、罪人や徴税人といった人々を、主イエスは深く顧みられたのです。


    では、使徒言行録の聖霊降臨は何を意味するのでしょうか。そこでは、多くの国々の人々が登場します。それぞれ異なる言葉を話す者たちが、弟子たちの語る福音を「自分の言葉で」理解したのです。ここで起きたのは、言葉の統一ではありません。「違ったままで、それで良い」とされた主イエスのお姿が、「違う言葉を話す」ことで、もう一度知らされたのです。聖霊は、ただイエスの姿だけを教えたのではありません。弟子たちはペトロの説教の後、社会から排除された者たちと共に歩みました。


   聖霊降臨祭とは、神さまの霊が今もなお私たちに注がれていることを記憶する日です。高みを目指す者ではなく、小さくされた者、沈黙する者、排除された者に、神さまの霊は降ります。だから私たちは、今「周囲の沈黙している声に」耳を澄ませたいのです。聖霊は、私たちを「選ばれし者」にするのではなく、「共に歩む者」へと変えてくださいます。私たちに注がれたこの霊の力を、隣人と分かち合いましょう。



2025年6月5日木曜日

防府と徳山メダカ

 

6/5(木)徳山チャペル玄関にある、小さな水族館。

徳山チャペルを会場にして活動する「うたごえの会」Nさんと、

柳井チャペルの場所で活動している「一粒の麦」の理事Kさんが下さったものです。

 上の写真では、何がいるのか不明のため、いつもの水がめ。

 青メダカとオレンジメダカの二種です。

 ひっそりと、夜市川(道の駅:ソレーネ周南)にいたハヤも。

 こちらは防府。梅雨入り前の天候でした。

 今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

6/4 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝

6/7 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

6/8 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

6/11 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

6/14 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

6/15 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

本日の礼拝説教の要旨は以下の通りです。

復活節7主日 説教 

ヨハネ福音書1720-26節 「祈りの中で、誰かが生きる」

水原一郎

    本日は、ヨハネによる福音書172026節が日課として与えられています。

「未来を信じる主イエス」というテーマのもと、御言葉から力をいただきましょう。


    今日のみ言葉は、主イエスが十字架に向かわれる前に祈られた「大祭司の祈り」の一部です。祈りとは、今日、主イエスがお示しになる通り、神さまとの対話です。願いや思い、嘆きや悲しみ、変えてほしい現実―それらすべてを神さまに差し出す行為です。感謝や賛美だけが祈りではありません。主イエスもここで、ご自身の「願い」として「一つであるように」と繰り返し祈られます。この「一つ」が、今日の鍵です。


 20節で主は、「彼らの言葉によって私を信じる人々」のために祈っておられます。「彼ら」とは弟子たちのことです。このとき弟子たちは、主の傍にとどまり、祈りに耳を傾けていたでしょう。しかしこの後、主が捕らえられると、弟子たちは散り散りになります。ペトロの否認を始め、多くが恐れに駆られ、自らの身を守るため逃げます。にもかかわらず、主はその弱さを見越しながらも、「彼らを一つにしてください」と祈られます。主の信頼は、弟子たちの「一時的な態度」に左右されるものではありません。


    この祈りは、ヨハネ福音書が記された時代背景とも響き合っています。ヨハネ福音書の時代、ユダヤ教とキリスト教の間には決定的な分断が生じていました。エルサレム神殿はすでに破壊され、キリスト教徒はユダヤ教の会堂から締め出されていたのです。礼拝の場所を失い、信仰の拠り所が揺らぐ中で、ヨハネは主イエスの「一つであるように」との祈りを記録に残しました。それは分断の只中にあっても、信徒たちが神と、そして互いと「一つ」とされているという信頼の言葉だったのです。


⑤ 「一つであるように」という祈りは、現実の分裂や困難を見越したものでした。これから弟子たちに降りかかるのは、命の危険です。その中で信仰を守り続けることは、決して容易ではありません。主はその厳しい現実を知りつつ、十字架と復活を見据えて、「彼らを一つにしてください」と神に願われます。たとえ彼らが物理的に離れ離れになっても、神の支えと導きがそこにあると信じて祈られているのです。


    主は21節と22節で「一つ」という言葉を繰り返されます。21節では、弟子たちも、彼らの言葉によって信じる人々も、すべてが「一つ」とされるよう祈られます。22節では、御父と主イエスが一つであるように、人々もその交わりに加わることを願っておられます。 23節では、主が弟子たちの内におられることが明言されます。弟子たちは外からの危機に直面し、保身に走ります。しかし神と主イエスは、離れた場所にいても、彼ら一人ひとりと共におられる――それがこの祈りの約束です。


    26節では、「御名を彼らに知らせた」と語られます。出エジプト記314節で、神はご自身の名を「わたしはある」と示されました。過去にも、現在にも、未来にも、存在されると。「あなたの傍にある」お方であるという宣言です。 主イエスが示された神は、人の歩みを気にかけ、支え、迷いの中では「どこにいるのか」と呼びかけてくださるお方です。そのような神の名が、主によって弟子たちに示されたのです。


⑧ だから主は、20節で「弟子たちを通して信仰に至る未来の人々」がいると宣言されます。この弟子たちを通し、信仰者が生まれる確信を主は抱いておられます。別の福音書ですが、ルカ22:32「立ち直るペトロ」を主は確信しています。「あなたは、立ち直ったら(他の)兄弟たちを力づけなさい」と。この確かな祈りの中に、私たちもまた包まれています。与えられたこの一週間、主と共に、一つとされて歩みましょう。

 

⑨ 祈り