2026年5月17日日曜日

5/13防府枝払い、5/14西宮教会、5/17徳山礼拝所

 

5/17(日)早朝に撮りました。

明日から入院される予定の方を覚えて祈りました。

5/14(木)兵庫県、西宮教会に出かけてきました。

会議前、会議室から礼拝堂を撮りました。

5/13(水)わがままに伸びている、防府の生垣。枝払いを行いました。
ほうきとくまでを立てかけてあります。

いかにも作業後の様子ですが、実はこれから。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


5/20 水曜日 16時 六日市チャペル 礼拝 

5/23 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝 

5/24 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル 礼拝

       15時30分 防府チャペル 礼拝

5/27 水曜日 16時 六日市チャペル 礼拝 

5/30 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

5/31 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

5/17(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 

主の昇天主日 説教 

ルカ福音書2444-53節 「そこから始まる」

水原一郎

 私たちは皆、それぞれに「触れられたくない出来事、過去」を抱えて生きています。思い出すたびに胸の奥が重たくなる出来事、言い直せなかった一言、取り返しのつかないと思えてしまう判断。説教者である私自身も、そのような過去や場所を、できれば思い出したくない、避けたいと思いながら生きてきました。今日の聖書は、その痛みを急いで説明しません。むしろ、そこに立ち止まることを促します。そこに「主イエスの昇天」が起こるのです。このことは、弟子たちにとって別れの出来事でありながら、慰めと新しい歩みが、すでに始まっていることを示す出来事でした。


 今日のルカ福音書は、繰り返し「エルサレム」について語ります。この場所は弟子たちにとって、美しい記憶の場所ではありません。とりわけ主の十字架の直後です。これは、はるか昔のことではありません。今日の出来事から一週間も経っていない、近しい過去です。主イエスはそこで拒まれ、十字架に架けられました。弟子たちにとっても、エルサレムは恐れのあまり逃げ出し、沈黙した場所です。特にペトロは、逃げ出した後も主の行く末が気になり、裁判の場にそっと忍び込みます。しかしそこで、主イエスとの関係を問われ、彼はそれを否定してしまいます。その時、鶏が鳴くのです。ペトロにも、私たちにも、思い出したくない「場所」や「時間」があります。しかし主は、「悔い改めと罪の赦しが、エルサレムから宣べ伝えられる」と言われます。主は、私たちの失敗や痛みを避けて働かれるのではなく、そこに目を向け、そこから始められるのです。


 主イエスは、そのような「都に留まりなさい」と弟子たちに命じられました。早く立ち去りたい、忘れてしまいたいと思う場所に留まることは、決して容易ではありません。弟子たちにとってエルサレムは、再び立ちたい場所ではなく、命の危険すら感じさせる場所であったはずです。それでも主は、彼らを一人でそこに置き去りにはされませんでした。「上からの力」を約束し、心の目を開かれた上で、待つように命じられたのです。私たちが痛みの中に留まる時、主は沈黙しておられるのではありません。むしろ、必要な力を備えようとしておられる。ここに、聖書が語る確かな慰めがあります。


 主イエスは、弟子たちを「祝福」しながら昇天されました。それはどこか、創世記で神が世界を「良い」と言われた場面を思い起こさせます。傷を抱えた弟子たちをなお「良し」として受け止め、祝福しておられるのです。弟子たちは、その祝福を受け、悲しみに閉じこもることなく、礼拝しました。大きな喜びをもって神を賛美しました。これは、痛みが消えたからではありません。傷の記憶が消えたわけでもありません。主イエスは、傷や痛みを持つものを祝福されることを彼らは知ったのです。祝福は、痛みや傷の心にも及ぶのです。昇天は、主が遠くへ行かれた出来事ではありません。むしろ主イエスの慰めが、私たちの現実の中で始まった出来事なのです。


 私たちは今、それぞれ異なる痛みを抱えて、この礼拝に集っています。解決していない問題、先の見えない不安。主は、それらが片づいてから宣教が始まるとは言われませんでした。「都に留まりなさい」と言われた主は、時が来るまで待つこと、祝福を受け続けることを命じられました。宣教は、勢いよく始まるものではなく、痛みを抱えたまま、神の力を待つ中で、静かに始められるものなのです。昇天された主は、今もここで私たちを祝福しておられます。昇天された主ご自身が、今も働いておられるのです。






2026年5月12日火曜日

5/10防府、5/12徳山ペチュニア、メダカ

 

 5/12(火)徳山は既に、初夏の日差しとなっています。

 メダカに給餌。

 5/12(火)おそらく昨年のプランターからのペチュニアが、ここに花を咲かせました。

 

 5/10(日)防府礼拝所。「母の日」を覚え、讃美歌は510番を歌いました。


今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


5/13 水曜日 16時 六日市チャペル  

5/16 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝 

5/17 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル 礼拝

       15時30分 防府チャペル 礼拝

5/20 水曜日 16時 六日市チャペル 礼拝 

5/23 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

5/24 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

5/10(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 


復活節6主日 説教 

ヨハネ福音書1415-21節 「さようならは言わないで」

水原一郎

① ヨハネ14章は、主イエスが「ひと時の別れ」を語られた箇所です。しかしそれは、見捨てる別れではありません。すでに主イエスは、「わたしが道であり、真理であり、命である」と語り、ご自身によって父のもとへ至る道であることを示されました。十字架の出来事によってです。その上での別れです。けれど弟子たちの心には、「自分たちは置き去りにされるのではないか」という不安が広がります。この不安は、私たちにも重なります。一人で歩まなければならないと感じるとき、同じ思いにとらわれるからです。しかし主は、そのような心に向けて、「あなたは決して一人ではない」と語られます。


② 主イエスは言われます。「あなたがたはわたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」。ここで言われる掟とは、「互いに愛し合いなさい」という主の言葉です。しかしこれは、努力によって守られる単なる命令ではありません。主がまず私たちを愛してくださった、その事実に根ざしています。愛された者として、その愛に生きる――それが戒めを守るということです。あえて努力のことを言えば、「愛されることを覚える」のです。主は別れに際しても、弟子たちをこの愛の中に留めようとしておられるのです。


③ それでも弟子たちは不安を抱きます。そこで主は、「別の弁護者」を与えると約束されます。これは「パラクレートス」、傍らにいて語る者、弁護する者、すなわち聖霊です。主イエスが去られる代わりに、別の存在が来るのではありません。主が開かれた道の中で、なお主ご自身が共におられる、その仕方が語られているのです。だから主は言われます。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」。見えなくなっても、主が離れることはないという約束です。


④ 聖霊は、弟子たちの心を整えるために与えられます。主は言われます。「あなたがたはわたしを見る」「わたしはあなたがたの内にいる」と。聖霊は、私たちの内にあって主イエスを思い起こさせ、主の言葉を生きたものとして響かせる方です。「あなたは見捨てられていない」と語り続ける方です。例えば、こんな経験はないでしょうか。どうしてよいか分からず、心が落ち着かないとき。祈ろうとしても、言葉にならないときです。けれども、ふと聖書の言葉が思い起こされることがあります。あるいは、以前聞いた説教の一言が心に浮かぶことがあります。そのときは、状況が変わったわけではありません。しかし、「ああ、自分は一人ではない」と、どこかで思わされるのです。それは、自分の力で思い出したというよりも、主が近くにおられることを気づかせられた。そう言うほうがふさわしい出来事ではないでしょうか。


⑤ 主イエスは、父のもとに場所を備えるという希望を示されました。そして同時に、今ここで聖霊によって共におられることを約束されました。やがての備えのことと、今の臨在。この二つは、主イエスご自身によって結び合わされています。例えば、誰にも頼れず、一人で決めなければならないときがあります。祈ろうとしても言葉が出てこないときもあります。そのとき私たちは、「自分は一人だ」と感じます。しかし主は言われます。「あなたがたをみなしごにはしておかない」。見えなくなることはあっても、主が離れることはないからです。だから「さようなら」は告げられていません。
その確かさの中で、今日もまた、主と共に歩み出したいと願います。

 


2026年5月5日火曜日

4/28 マツダスタジアム 4/29ジャガイモとサクランボ 5/2柳井の花壇

 4/28(火) NPO法人「一粒の麦」の研修旅行で、マツダスタジアムに行きました。

 普段は見られないスタジアムの細部まで見学を行いました。

 そのことを通して、運営にお一人おひとりの働きがあることを覚えました。

 4/29(祝・水) 徳山の畑に植えたジャガイモが開花。

 この花も愛でたそうです。

 4/29(祝・水) 裏手のさくらんぼ。収穫中。

 脚立を使いこなしている子どもたち。

 5/2(土)柳井礼拝所。玄関左側の花壇が、「一粒の麦」職員によって改修されました。

 利用者さん方もお働き下さいました。感謝です。


今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


5/6 水曜日 16時 六日市チャペル 家庭礼拝 

5/9 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝 

5/10 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル 礼拝

       15時30分 防府チャペル 礼拝

5/13 水曜日 16時 六日市チャペル 礼拝 

5/16 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

5/17 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

5/3(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 


復活節5主日 説教 

ヨハネ福音書141-14節 「振り返ればそこに」

水原一郎

「振り返れば、いつも神の、主イエスの助けがあった」。そう思わされる瞬間が、これまでの人生の中に、確かにあったのではないでしょうか。とりわけ、自分では乗り越えられないと思った場面を、どうにかくぐり抜けてきたときです。しかし聖書は、その「助け」が偶然ではないと語ります。主イエスの十字架への歩みの中で、神はすでに、「あなたを見捨てない」という御心を示されたのです。ヨハネ福音書には、そんな経験を思い起こさせる言葉が繰り返し登場します。それは「今は分からないが、後で分かるようになる」(13:7)。そして実際に弟子たちは、復活の後にそれを思い出し、理解していきました(2:2212:16)。」一方で、渦中にあった弟子たちには、神の御業は見えづらい。今日の聖書でいえば、混乱と動揺の渦中には、トマスとフィリポがいました。


 そこに至るまでに、今日の福音書に至る道を整理したいと思います。ヨハネ福音書13章の終わりには、大きな出来事が重なります。ユダが退出し、裏切りに向かいます。ペトロには、「あなたはわたしを知らないと言う」と予告されます。弟子たちは、どんなに動揺したでしょうか。しかし、注目は、主イエスご自身もまた「心が騒ぐ」経験をされることです。1321節。だから「心を騒がせるな」という主イエスの言葉は、冷たい命令ではありません。主イエスは、ご自身も騒ぐ心を抱えながら、弟子たちに語られます。それは「感情を持つな」ということではありません。「どれほど、心騒ぐときも、あなたは見捨てられない」という約束を、主イエスご自身の経験の中で証しされたのです。


 そこに登場するのが、トマスとフィリポです。彼らは、主イエスの言葉を文字通りに受け止めました。トマスは言います。「主よ、どこに行かれるのか分かりません。どうして、その道が分かるでしょうか?」フィリポは願います。「主よ、私たちに御父を見せて下さい」。彼らの問いは、誤解を含んでいました。けれど、主イエスは怒りません。トマスには、こう語られました。「わたしが道であり、真理であり、命である」。主イエスご自身が、父なる神へと至る唯一の道であるという宣言です。その道は、十字架を通って開かれました。フィリポには、「信じなさい」と「わたしの業によって信じなさい」と。これは、過去を振り返るようにという招きでもあります。今まで主イエスと共に過ごした日々。その出来事を思い起こしなさい。それがあなたを信仰へと導くと言われたのです。


 「今は分からないが、後になって分かる」。この言葉は、ヨハネ福音書全体を貫く、神のご計画への信頼の言葉です。トマスもフィリポも、これから困難な道を通ります。主イエスの十字架。自分たちの逃亡と裏切り。深い自責と、恥。そして更なる疑い(トマス)。けれど神のなさることは、その後にこそ、明らかになるのです。渦中にあるときには見えなくても、振り返って初めて気づく神の御手があります。しかし私たちは、ただ経験を振り返るだけで支えられているのではありません。主イエスが十字架において成し遂げられたその出来事こそが、「神は共におられる」という確かな根拠なのです。


 聖書は、感情を押し殺すことを求めません。トマスもフィリポも、誤解し、戸惑い、混乱しました。けれど、そのままの彼らに、主イエスは語りかけられたのです。「心を騒がせるな」。「信じなさい」。あのとき見えなかったけれど、そこに主がおられた。そして今もまた、十字架の主が、私たちの歩みの中に共におられる。振り返ればそこに、ではなく、振り返る前から、すでにそこにおられる主を信じて、今日も歩み始めたいと願います。

 

2026年5月1日金曜日

4/25柳井、4/26徳山、防府



 4/25(土)柳井チャペル玄関左の花壇。

 「一粒の麦」職員の方によって修繕が進められています。感謝です。

 4/25(土)柳井チャペル。
 4/26(日)徳山チャペル。
 4/26(日)防府チャペル。

 気づいたら金曜日。更新が遅れて失礼いたしました。


今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


4/29 水曜日 16時 六日市チャペル 家庭礼拝 

5/2 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝 

5/3 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル 礼拝

       15時30分 防府チャペル 礼拝

5/6 水曜日 16時 六日市チャペル 礼拝 家庭礼拝の予定です。

5/9 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

5/10 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

4/26(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 


 

復活節4主日 説教 

ヨハネ福音書101-10節 「あなたを守る神」

水原一郎

① 主イエスは言われました「私は羊の門である」。それは唐突な宣言ではありませんでした。ヨハネ9章に、目の見えなかった一人の男が登場します。彼は主イエスによって見えるようになりました。しかしその出来事は、彼の人生を明るくしたわけではありません。人々に問い詰められ、宗教指導者たちの前に立たされ、「あの人は誰なのか」と繰り返し問われます。けれども彼は答えを持っていませんでした。「分かりません」と言うしかなかったのです。宗教指導者たちは、安息日に起きた癒しを問題にしました。しかし彼は、彼らの求めに結果として応じませんでした。ついには会堂から追い出されます。癒されたにも拘らず、彼は居場所を失ったのです。目は開かれました。しかし、その目が最初に見たのは、祝福ではなく排除でした。その彼を、主イエスは探し出されます。追い出されたその場所で、主は彼に語られたのです。「私は羊の門である」と。


② 古代ユダヤの荒野には、羊を守る囲いがありました。石垣で囲われた一角に、ただ一か所だけ開いた部分があります。そこが門です。夜になると、羊飼い自身がそこに身を横たえることがありました。外と内、危険と羊とのあいだに、自分の身体を置くのです。それは力で支配する守りではありません。羊が守られるために、羊飼いが最も無防備な場所に立つ――そのような守りでした。主イエスの「私は羊の門である」という言葉は、ご自身がこれから歩まれる道を含んだ宣言でした。


③ 主イエスは言われます。「門を通らず、他から乗り越えて来る者は、盗人であり強盗である」。ここで告発されているのは、悪意ある者だけではありません。律法を大切にし、共同体を守ろうとした人々です。しかし彼らは、癒された男の混乱や喜びに身を寄せることなく、自分たちの正しさで彼を囲いの外へ押し出しました。共同体に復帰しようとする彼と正面から向き合わず、他から乗り越え、彼を外に追い出してしまうのです。


④ 主イエスは言われます。「私は門である。私を通って入る者は救われる」。ここで語られる「救い」とは、ただ来世の安らぎではありません。今ここで、神のまなざしのもとに生きることです。自分の存在が、条件付きではなく、受け入れられていること。傷つき、つまずいたとしても、戻ってくる場所があること。それが、救いです。主は言われます。「私は来た。羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」。この「命」とは、ただ息をして生きることではありません。神とつながる命、関係の中で生きる命です。その命が、主イエスを通して、今ここに差し出されています。


⑤ この「門」という言葉は、やがて主イエスご自身の歩みによって、はっきりとした形を取っていきます。十字架とは、神がわたしたちのために「門」になった出来事でした。命と死のあいだに。救いと滅びのあいだに。神ご自身が横たわったのです。人間の罪と暴力と拒絶が、それ以上、羊たちをのみ込まないように。神は、遠くから命じる方ではなく、境界に立ち、身体をもって引き受ける方であられました。だから主は言われます。「私を通って入る者は救われる」。それは、安全な囲いに閉じこもることではありません。傷つく世界へ、再び遣わされるとしても、もう命を奪われることはない――そのような救いです。一週間が始まります。日常の荒野へと出て行く私たちの前に、主は今も門として立っておられます。前を行き、後ろをふさぎ、わたしたちの名を呼びながら。この方を通って生きるところに、命があります。しかも、豊かな命があります。

2026年4月21日火曜日

4/15六日市の葉桜、4/18柳井のボタン、4/19防府のユリ、4/21徳山のジャガイモ

 

 4/20(月)徳山礼拝所に植えたジャガイモの手入れをしました。

 芽カキしたものは、脇に植えました。そのうちシャンとするでしょう。

 4/19(月)防府礼拝所のユリ。大変に良い香りです。
 4/18(土)柳井礼拝所の一角に植えてあるボタン。

 ことしも大輪の花を咲かせました。

 4/15(水)会員さんをお見舞いした後に、葉桜を見ました。

 今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


4/22 水曜日 16時 六日市チャペル 礼拝 

4/25 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝 

4/26 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル 礼拝

       15時30分 防府チャペル 礼拝

4/29 水曜日 16時 六日市チャペル 礼拝 家庭礼拝の予定です。

5/2 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

5/3 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

4/19(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 


復活節3主日 説教 

ルカ福音書2413-28節 「失望の道が、喜びの道へ」

水原一郎

① ある日の午後、二人の弟子が、エマオという村へ向かって歩いていました。彼らの足取りは重く、表情には疲れがにじんでいました。歩きながら、彼らは語り合っていました。この数日、何が起こったのか。なぜ、あんなことになったのか。愛する主が十字架で命を落とされたことです。残るのは、痛みと、空しさ、そして自分への悔しさです。都を離れる背中は、「終わった」「これ以上、留まる理由がない」と語っているようでした。


② そんな彼らのそばに、ひとりの旅人が近づきます。そして、何事もなかったかのように問いかけます。「あなたたちは、道々、何を話しているのですか。」弟子たちは立ち止まり、うつむいたまま答えます。「あの都で起きたことを、あなたは知らないのですか。」彼らは語ります。イエスという方がどれほど力ある方であったか。どれほど希望を託していたか。しかし、その方が捕らえられ、十字架につけられてしまったこと。墓が空だったという知らせも聞いたけれど、何も分からないままだということを。彼らは事実を語ることはできました。しかし、そこからの希望は、もう持っていなかったのです。


③ そのとき、旅人は語り始めます。モーセの律法から預言書に至るまで、聖書全体を開きながら、こう語るのです。「メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入ることになっていたのではないか。」そのとき彼らは、まだ知りませんでした。今、自分たちに語っているのが、復活の主ご自身であることを。しかし、だからこそその言葉は、彼らの心の奥に触れていきました。「苦しみは栄光に」と言われるその言葉を通して、「この苦しみも、見捨てられた出来事ではなかったのかもしれない」と。そうして、固く閉ざされていた心が、少しずつほどけていったのです。後に彼らは振り返って言います。「道でお話しくださったとき、聖書を解き明かしてくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。」そのときには分からなかった。分からないことがあった。けれど確かに、主は共に歩き、語り、心に火をともしておられた。主は、分かってから近づかれるのではありません。分からないまま歩く者と、同じ速さで、同じ道を歩かれるお方なのです。


④ 私たちもまた、「分からない」という道を歩くものでしょう。ことに迷うとき、祈っても答えが返ってこないように思えるとき。「自分は間違った道を選んでしまったのではないか」と思うとき。信仰に確信が持てず、現実に押し流されるように歩いているときです。エマオへの道は、本来、弟子たちが向かうべき道ではありませんでした。これはいわば、「都落ち」と言える表現です。失望のあまり、都を離れ、使命から背を向けた道でした。それでも、その道が無意味な道にはなりませんでした。それは、どんな道であっても主が共に歩まれたから。主は、私たちの選びをすべて、正しいものにしてくださるお方ではありません。しかしそれが、たとえ誤りの道、遠回りを含む道であっても、そこに共に立ち、語り、立ち上がる力を備えてくださるお方です。私たちが気づかなくても、信仰に確信が持てなくても、主は離れず、同じ速さで歩き続けておられるのです。


⑤ 今、私たちが歩いている道も、エマオへの道のように見えるかもしれません。しかし、その道が主と共に歩まれるなら、そこは復活の道となります。後になって、振り返る日が来るでしょう。「あのとき、主は共におられた」「心は燃えていた」と。この復活の主が、今日も私たちと共に歩んでおられます。気づかれなくても、名指されなくても、主は歩みをやめられません。この主と共に、私たちは今日も歩み続けます。アーメン。


2026年4月14日火曜日

4/8 病院の桜2 4/12徳山の芝桜、ヤマボウシ、防府、4/13徳山

 

 4/13(月) 久しぶりに、電動バリカンでブナの木をきれいにしました。

 きれいにし過ぎ…と、剪定後はいつも思います。

 4/12(日)防府礼拝所。ゆりもまた、良い香りです。
 4/12(日)徳山礼拝所の道路側。この右側にブナがあります。

 芝桜、ヤマボウシが春の装いをば。

 4/8(水)会員さんをお見舞いした後の、六日市の桜。

 そろそろ葉桜に。4/15(水)はいかがでしょうか。


今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


4/15 水曜日 16時 六日市チャペル 礼拝 

4/18 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝 

4/19 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル 礼拝

       15時30分 防府チャペル 礼拝

4/22 水曜日 16時 六日市チャペル 礼拝 

4/25 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

4/26 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

4/12(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 

復活節1主日 説教 

ヨハネ福音書2019-23節 「その日、部屋は変わった」

水原一郎

① 主の復活の日の夕べ、弟子たちは家の戸に鍵をかけて閉じこもっていました。弟子たちの心を支配していたのは、「ユダヤ人を恐れて」という理由が語っています。つまり、外側からの脅威でした。けれども、ただそれだけだったでしょうか。弟子たちの内には、もっと深い不安があったと思われます。それは、主イエスを裏切ってしまったという 自責、そしてあの十字架の死によりすべてが終わったという失望でした。それらを作り出した自分への失望。この夜、戸を閉じていたのは、外の世界への扉。自分たちの未来への希望の道。あるいは神さまへの信頼に至る心の扉だったのかもしれません。


② そんな彼らのただ中に、主イエスは現れます。「戸には鍵がかけられていた」と強調されているにもかかわらず、主イエスはそこに立たれたのです。しかも主イエスは、まず言葉と共に、「手とわき腹をお見せになった」と記されています。弟子たちはこのとき、十字架の現実と復活の現実、両方に同時に出会いました。傷を負われたお方が、死を超えて共におられる。そこに、彼らは慰めと平安を受け取ったのです。主イエスは言われます。「あなたがたに平和があるように。」これは単なる再会のあいさつではありません。主イエスのお気持ちはこうです。「もう大丈夫だよ」。弟子たちが失っていた、取り戻せないと思っていた関係と使命とを、主ご自身が回復される言葉でした。続けて、主はこう言われます。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」主イエスの平和は、再び歩み出すために与えられるものなのです。


③ 続いて、主イエスは弟子たちに息を吹きかけて言われます。「聖霊を受けなさい。」ここで思い起こされるのは、創世記2章です。神が人を形づくり、命の息を吹き込まれた場面です。ここで弟子たちは、いわば「新しい創造」に与りました。恐れと失望の中で、使命を失っていた者たちに、再び命の息が吹き込まれたのです。それは、分かりやすい形では、個々人の心の回復を起こしました。その回復は、主イエスによって、弟子たちを再び世へと向かわせる命の息により起こされます。赦しの言葉が語られるのも、この派遣と無関係ではありません。赦しは、交わりを守る教えでも、また壊れやすい世界へと踏み出す力でもあります。聖霊は、その歩みを支える神の力なのです。


④ 私たちは今、この弟子たちの交わりの延長に生きています。教会とは、閉ざされた扉の中にさえ、キリストが入ってこられ、息吹を与え、新しい交わりを形づくられる場所です。完璧な人間たちが集う場ではありません。裏切りも、恐れも、傷もある。しかしそれらを超えて、キリストの平和と赦しが中心に据えられている。それが、教会です。


⑤ 「その日、部屋は変わった」と言ってよいでしょう。鍵のかかった空間が、神の霊が吹き込まれる場とされました。恐れと沈黙に満ちていた場所が、平和と派遣の始まる場所とされたのです。この礼拝もまた、同じ出来事の延長にあります。私たちは、ただ慰められるためにここに集っているのではありません。平和を受け取り、赦しに生かされ、再び世へと遣わされていくために、ここに集められています。主は今日も、私たちのただ中に立って言われます。「あなたがたに平和があるように。」そして、「わたしはあなたがたを遣わす」と。そのとき、私たちの閉ざされた部屋は、再び開かれます。恐れの場所は、希望の出発点へと変えられるのです。この復活の主と共に、私たちは新しい週へと遣わされていきます。アーメン。


2026年4月7日火曜日

4/1六日市イースターエッグ、4/1病院の桜、4/4柳井、4/5防府、4/6笠戸の桜

 

4/4(日)防府礼拝所のイースター。

奥には、徳山礼拝所の方が新調してくださった牧師用アルバがあります。

4/3(土)柳井礼拝所のイースター。み言葉カード、イースタークッキー、エッグです。
4/1(水)会員をお見舞いした病院で撮った桜。
4/1(水)六日市礼拝所の方から頂いた、子ども用のイースターエッグ。

中は…。

4/6(月)笠戸島に行きました。桜は満開。貝殻拾いをしました。
その直前には全力で鬼ごっこ。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


4/8 水曜日 16時 六日市チャペル イースター礼拝 

4/11 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝 

4/12 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル 礼拝

       15時30分 防府チャペル 礼拝

4/15 水曜日 16時 六日市チャペル 礼拝 

4/18 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

4/19 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

4/5(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 

復活祭 説教 

マタイ福音書281-10節 「道の途中で、おはよう」

水原一郎

① 主イエスの復活を祝うイースターの朝、私たちはマタイ福音書28章を読みます。しかし、この物語は、喜びに満ちた場面として始まってはいません。「安息日が終わって、…マグダラのマリアと、もう一人のマリアが墓を見に行った(1節)」とあります。彼女たちは「復活を見に来た」のではありません。ただ、「墓を見に来た」のです。そこには、主イエスへの期待も、復活の確信も記されていません。ほかの福音書が語るような、主の体を整える香料さえ、マタイは記していません。主イエスを追憶をする気持ちはあっても、道具まで気が向かないのです。描かれているのは、「何もない」姿です。悲しみの中で、現実の前に立ち尽くしている、二人の姿をマタイ福音書は描きます。


② ここに、マタイ福音書の大切な視点があります。神さまの出来事は、人間の側の理解や期待を越えて起こされる、ということです。このことは、すでに十字架の場面で示されていました。主イエスを処刑する側にいた百人隊長は、主イエスを正しく評価する立場の人間ではありませんでした。信仰告白など、最初から予定されていない人物です。ところが、地震と十字架の出来事を目の当たりにしたとき、彼は思わずこう言います。「本当に、この人は神の子であった」と。これは、準備された告白ではありません。考え抜かれた言葉でもありません。思わず口をついて出た告白です。女性たちも、百人隊長も、共通しています。正しく理解し、期待していたわけではなかったのです。


③ それでも、神さまの出来事に遭遇したとき、言葉が生まれ、歩みが始まりました。墓の前で天使の言葉を聞いた女たちは、「恐れつつも、大いに喜んで」走り出します。恐れは消えず、気持ちも整理されません。揺れ動く心のまま、走り出したのです。すると、マタイはこう記します。「イエスが行く手に立っておられた」。主イエスは、墓の前で待っておられたのでも、信仰が整うのを待たれたのでもありません。女性たちが走り出したその途上で、待っておられたのです。主イエスの復活は、死がなお支配していると思われたこの世界において、神が新しいいのちを開始された出来事でした。


④ そのとき、主イエスが最初に語られた言葉は、荘厳な復活宣言ではありませんでした。「おはよう」。ギリシア語では「カイレーテ」。日常の挨拶の言葉です。「喜びなさい」や「嬉しいね」とも受け取れる、温度のある言葉です。主イエスは、その意味を説明されません。ただ、この言葉を語られます。それは、「出会えてうれしい」という、人と人との関係を回復する言葉です。死によって断たれた関係が、再び始まることを告げる言葉です。やがて弟子たちとの関係も回復していく、その確信を含んだ言葉です。


⑤ 私たちは、信じ切れないまま、礼拝に座っていることがあります。そして一週間を過ごします。それでも、主はその只中で、言葉をかけてくださいます。復活とは、私たちの信仰が完成した証ではありません。信じ切れないまま、「恐れつつ、走り続ける」一週間の現実の途上に、主イエスが立って下さっている出来事です。そしてそのとき、思わず口をついて出る言葉や、思いがけない出会いが、私たちの信仰を始めていくのです。主は今日も、またこの一週間の朝、私たちが朝起きる時に、私たちの人生の途上で、こう語りかけておられます。「おはよう」。私たちの中には「何もない」日々があったとしても、主イエスの声は届きます。私たちはそこから、新しい歩みを始めるものなのです。