2026年6月30日火曜日

6/24 益田メロン 6/27 宇部、厚狭 6/28下関

 

 6/27(土) 厚狭教会礼拝後。

 宣教師の方から教わったというクッキーを頂きました。

 くしくも、今週がその方の召天記念日。阿野メリアン宣教師。

 6/27(土) 宇部教会礼拝。

 年に一度の講壇交換。とても有意義なひと時でした。

 6/28(日) 下関教会礼拝。
 玄関には、緑色のぶどう(マスカット?)が置いてありました。

 6/27(土) 厚狭教会礼拝。
 こちらもあざやかな緑。

 6/24(水)あざやかな緑といえばメロン。
 益田のアムスメロンを、六日市礼拝所の方が贈って下さいました。
 左が6年生、右が2年生。
 6/24(火) そこまで食べなくても・・・。
 でも、子どもの頃のスイカやメロンは、
 「どこまで食べられるか」がチャレンジングでしたね。
 いつまでもこの甘さが残ると信じていました。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


7/1 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝 家庭礼拝となりました。

7/4 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝 

7/5 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル 礼拝

       15時30分 防府チャペル 礼拝

7/8 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝  

7/11 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

7/12 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

6/28(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 

聖霊降臨後第3主日 説教 

マタイ福音書1040-42節 「いのちの水を頂く、そして差し出す」

水原一郎

 本日、私たちはマタイ福音書10章の結びを読んでいます。主イエスは弟子たちを「失われた羊たち」のもとへ遣わされます。しかしその派遣は、成功だけを約束するものではありませんでした。人々から拒まれること、また分裂も予告されています。そのただ中で主イエスは言われます。「あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れる」と。ここで示されているのは、弟子たちの働きの背後に、主イエス御自身が立っておられるという事実です。弟子が訪れることは、主イエスが訪れることでもあるのです。だから、ここで弟子を迎える家は、主イエスを迎える家となるのです。


 その主イエスは、「小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」と言われます。水一杯。これが意味するものは何でしょうか。当時の「水を取りに行く労働(ヨハネ4章)」を考えることもできます。家の水がめ(ヨハネ2章)から取ることも考えられます。「水を差しだす」働きの背後には、ねぎらいがあります。「この人を受け入れよう」とする思いがあります。それは例えば、誰かのために時間を使うこと、席を空けること。言葉に耳を傾けること。疲れている人を覚えて祈ること。そのような交わりの中に、主イエス御自身が共にいてくださるのです。神の国は、大きな力や業績によってではなく、この小さな受け入れの中に始まっていくのです。


 なぜ主イエスは、そのような「水一杯」を尊ばれるのでしょうか。それは、主イエス御自身が渇きを負われた方だからです。やがて十字架の上で、「わたしは渇く」と言われます。拒絶と孤独の中に立たれた方です。その渇きを引き受けて、主イエスは、命の水を与える方となられました。御自身の苦しみを通して、他者を生かす方となられたのです。だから主イエスは「水一杯の働き」を軽んじられません。そこにあるのは、人を生かそうとする神の憐れみそのものです。私たちはまず、その命の水を受ける者です。


 では、私たちにとって「水一杯を与えること」とは何でしょうか。それは、特別に大きなことではありません。忙しさの中でも、誰かの話に耳を傾けること。祈りを求められた人を覚えること。教会に集う群れであり続けること。そのような小さな歩みです。しかし時に私たちは、水を差し出す側ではなく、受け取る側にもなります。「水一杯を求めること」とは何でしょうか。助けを求めること、祈ってもらうこと、自分の弱さを神さまの前に差し出すこと。それもまた、主イエスを迎え入れることなのです。私たちは、与える時にも、受ける時にも、主イエスの憐れみの中に生かされています。


 もちろん、人々の間では、全てが受け入れられるわけではありません。主イエスは、受け入れられない時には足のほこりを払い落として去れ、と言われました。拒絶は現実です。しかしここで重要なのは、結果ではありません。受け入れられなくても、水一杯は失われないという約束です。既に水一杯を通して、主イエスに結ばれています。だから私たちは焦らなくてよいのです。大きな実りを作ろうとして力むのではなく、今日与えられている場所で、小さな水を差し出し、また受け取りながら歩みましょう。礼拝の後、誰かの話に耳を傾けること。あるいは誰かに一週間のことを分かち合うこと、家庭や職場で、語られた言葉を祈りのうちに受け止めること。祈ってもらうこと。その小さな歩みの中に、すでに主イエスが喜ばれる「水一杯の愛」は始まっているのです。神は、私たちが誰かに求め、差し出す、その愛をいつまでも覚えてくださいます。


2026年6月23日火曜日

6/17六日市、6/20柳井、6/21防府、6/23徳山

 

6/23(火) 本格的な梅雨空となった朝、礼拝堂。徳山チャペルです。

6/21(日) 防府礼拝所。お体の不調を覚えておられる方々を覚え、祈りました。
6/20(土) 柳井礼拝所。ケイトウの花がこの時期らしいです。


6/17(水)一枚後と順序が逆になりましたが、アジサイの生け花の水。

良く見ると、炭酸が見えます。こちらは、井戸水とのこと。

六日市には温泉があり、その源泉が混ざっているとのことです。

6/17(水)アジサイ。いい色合いです。こちらもこの時期らしいですね。


 今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


6/24 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝 

6/27 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝 

6/28 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 休会となります。

       10時45分 徳山チャペル 礼拝

       15時30分 防府チャペル 礼拝

7/1 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝  

7/4 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

7/5 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 休会となります。 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

6/21(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 

聖霊降臨後第3主日 説教 

マタイ福音書1026-31節 「恐れは、最後ではない」

水原一郎

① 本日読まれましたマタイ福音書では、「恐れるな」という言葉が三度、登場いたします。これは、主イエスが弟子たちを派遣された直後の場面です。主イエスは、弟子たちを派遣したとき、祝福だけを語りません。主イエスは、拒絶、誤解、告発、さらには命の危険さえも予告されたのです。だから、弟子たちに「恐れ」が起こります。家族や共同体から切り離される恐れ、自分の言葉が嘲笑される恐れ、信仰が無力に見える恐れ。その只中で、主は三度、「恐れるな」と語られたのです。


② 主イエスは、「覆われているものは現される」と言われます。弟子たちに委ねられた福音は、「天の国は近づいた」という知らせでした。神が遠くにおられるのではなく、近づいて来られた。その出来事が、つまり神の憐れみが、主イエスにおいて現されたのです。今は隠されているように見えても、神のなさることは必ず明らかになる、と。だから弟子たちは、恐れの中でも、この福音を隠さず語るように招かれているのです。


③ 続いて主イエスは、「体を殺しても魂を殺せない者どもを恐れるな」と語られます。この言葉は決して軽い言葉ではありません。私たちは、この言葉を聞くとき、「人を恐れるなと言われても、実際には怖いではないか」と思います。拒絶されることも怖い。病気も怖い。死も怖い。信仰者だから恐れなくなるわけではありません。実際、教会の歴史には勇敢な殉教者たちがいました。しかしその一方で、迫害の中で信仰を守り切れなかった人々もいました。日本のキリシタン史にも、そのような人々の姿を見ることができます。そしてその弱さは、決して他人事ではありません。聖書もまた、主イエスを三度否認したペトロを隠しません。だから主イエスの「恐れるな」とは、「恐怖を感じるな」という命令ではありません。そうではなく、「人間の力を最後のものとするな」という招きです。人は確かに傷つけることができます。しかし人間の力が最後の言葉ではありません。最後に立っておられるのは神です。そして、この言葉を語られた主イエスご自身が、十字架へ向かわれました。ゲツセマネで苦しみ、十字架で「わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。しかし父なる神は、その方を死に閉じ込められませんでした。復活は、人間の力が最後ではなかったことを示しています。


④ 主イエスは続けて、雀一羽の話をされます。「雀一羽さえ、父の御心なしには地に落ちない」。さらに、「あなたがたの髪の毛までも数えられている」と言われました。ここで主イエスは、終わりの日の話だけをしておられるのではありません。「最後には真実が明らかになる」。それは大きな慰めです。しかし弟子たちが苦しんでいるのは、今この時です。だから主イエスは、雀と髪の毛の話をされます。神は、遠い終末の日だけを支配しておられる方ではありません。今ここで震えている弟子たちをも見ておられる方です。雀のように小さな存在も見失われません。髪の毛一本さえ数えられています。


⑤ 私たちは人生の中で、大きな奇跡や劇的な出来事によって神と出会うこともあります。しかし振り返れば、本当に支えられていたのは、弱さの中で守られたこと、苦しみの中で見捨てられなかったこと、気づかぬうちに導かれていたことではないでしょうか。主イエスは、「恐れるな」と言われます。根拠は、私たちの強さではありません。雀一羽を見失わず、私たちの髪の毛までも数えておられる父なる神がおられるからです。恐れは現実であっても、最後ではありません。復活の主が生きておられるからです。


2026年6月16日火曜日

6/10母校、6/13柳井、6/14徳山、6/16防府

 

6/16(火) 防府礼拝所の周辺の枝払い。

一カ月もしないうちに伸びました。

 晴れていなく、雨でなく。ちょうどよい気候。

 一カ月先の天候と暑さと草の伸び具合は、考えたくありません。

 6/15(月)徳山礼拝所、牧師室のポインセチア。

 伸びきっています。

 

 6/13(土)柳井礼拝所。

 ボタンでしょうか?

 6/10(水)東京での会議終了後、時間があったので、30年ぶりの母校。

 ふと、自分が来た道を歩きたくなったのです。

 文字通りの意味では、板橋から北池袋/大塚まで。

 抽象的な意味では、人生の振り返り。


 今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


6/17 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝 

6/20 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝 

6/21 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル 礼拝

       15時30分 防府チャペル 礼拝

6/24 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝  

6/27 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

6/28 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 休会となります。 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

6/14(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 


聖霊降臨後第3主日 説教 

マタイ福音書9章35-10章4節 「羊飼いは、立ち止まらない」

水原一郎

① マタイ福音書935節には、主イエスのお姿が描かれています。主イエスは町や村を巡り、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病を癒しておられました。主イエスの教えは神の御心を示していました。内容は、神の国の近づきです。その具体例が癒しでした。神さまはそば近くにおられることを、主イエスは言葉と行いで示されたのです。ふと、主イエスは群衆を見られました。ただ眺めたのではありません。人々の姿を深く見抜かれたのです。聖書は「弱り果て、打ちひしがれていた」と語ります。内側までも疲れ切っていたのです。そして主イエスは、「深く憐れまれた」のです。


② この「深く憐れまれた」という言葉は、心の奥深く、内臓が揺さぶられるほどの強い憐れみを表す言葉です。では、なぜ人々はそこまで疲れ果てていたのでしょうか。病や貧しさ、生活の苦しみがあったでしょう。そのことは私たちも分かります。しかしマタイ福音書は、それだけではなく、宗教的な重荷の問題をも描いています。主イエスは繰り返し、律法学者やファリサイ派の人々のあり方を問われました。宗教者は「憐れみではなく、いけにえ」を重んじていました。人に「重い荷物」を負わせながら、自らはそれを担わない。そのようなあり方の中で、人々の心・内面は疲弊していたのです。9章の「憐れみ」と、マタイ23章の「災いだ」という厳しい言葉は、別々の話ではありません。羊が苦しんでいるからこそ、主はその苦しみを生み出すあり方を問われるのです。


③ しかしこの言葉は、私たちを安全な場所から誰かを批評する立場には置きません。私たちはまず、憐れみを必要とする羊です。疲れ、祈れず、み言葉が遠く感じられることもあります。しかし同時に私たちは、家庭や教会や職場で、誰かに影響を与える立場にも立っています。自分では正しいと思っている言葉や態度を示します。しかしそれが、知らず知らずのうちに、誰かにとって重荷となってしまうこともあるかもしれません。だからこの箇所は、ただ単に「悪い牧者を批判する言葉」ではないのです。私たち自身はどうなのでしょうか。この言葉は、私たちを神の憐れみへと立ち返らせるのです。


④ その憐れみは、やがて十字架へと向かいます。主イエスは、ここで「弱った羊」である人々を慰めるだけではありませんでした。また、「当時の宗教者」の偽善を告発するだけでもありませんでした。人々の迷いも、牧者の歪みも、人間の宗教の限界も、そのすべてを背負って、十字架へと進まれたのです。そこでは、人間の罪が暴き出されます。しかし同時に、神の憐れみもまた、最も深く現されました。十字架とは、憐れみが現実の罪と正面から向き合った場所です。復活とは、神の憐れみが死によって閉ざされなかったことのしるしです。真の牧者は、今も生きておられるのです。


⑤ その主イエスは今日「収穫は多いが、働き手が少ない」と語られます。だからまず、「収穫の主に願いなさい」と命じられるのです。どのような「働き手」なのでしょうか。まず求められているのは「祈りの手」です。祈りとは、遠くから眺めることではありません。主の憐れみの働きに、自分自身も加えられていくことです。主イエスは祈りを、主の働きに加わるものなのだ、と示されます。私たちは、完全な働き手だから遣わされるのではありません。憐れみを受けた者として、復活の主が生きておられるゆえに、用いられていくのです。疲れを知らない人としてではなく、疲れつつ、神の憐れみに生きる者として歩み出すのです。だから私たちは「弱った手」でも、誰かのために祈るのです。


2026年6月5日金曜日

2014年るうてる秋の大会、5/30柳井、6/1徳山じゃがいも収穫、6/3六日市ホタルブクロ、6/4防府

 2014年、るうてる秋の大会。防府礼拝所で行われました。

5/30(土)柳井礼拝所。三位一体主日の礼拝が行われました。
6/1(月)台風が来る前に、じゃがいもを収穫。
おおつぶの雨が降って来たので、早々に切り上げました。なかなか良いサイズ。
6/3(水)ホタルブクロ。

リアルなホタルも、六日市でも出始めたとのことです。

6/4(木)この落款の持ち主、防府礼拝所のYさんが召天されました。

ご葬儀は防府市斎場で、キリスト教式にて行われました。101歳でした。

落款の文字は、おそらく「汀 静」詩編23編の世界観と思います。

冒頭のお写真、下の段の左から2番目の方でした。

6/4(木)しかしなぜ、葬儀のときには雨なのでしょうか。

防府市斎場でした。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


6/3 水曜日 16時 六日市チャペル 礼拝 

6/6 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝 

6/7 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル 礼拝

       15時30分 防府チャペル 礼拝

6/10 水曜日 16時 六日市チャペル 礼拝 家庭礼拝です。 

6/13 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

6/14 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

5/31(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 


三位一体主日 説教 

創世記1章1節-5節 「混沌は残る、神も残る」

水原一郎

 創世記1章1節には、「初めに、神は天地を創造された」とあります。けれども、その直後に語られるのは、「混沌」「闇」「深淵」です。創造の最初に現れるのは、完成された世界ではありません。形の定まらない混沌です。創世記という書物は、いつ頃書かれ、編集された書物でしょうか。それは「バビロン捕囚」という、ユダヤの人々にとっての「混乱と喪失の時代」に編まれたものです。そのことを思えば、この書かれ方は現実的です。故郷を失い、将来も見えず、「神はどこにおられるのか」と問わざるを得なかった人々がいるのです。その人々に対して、聖書はまず、「混沌があった」という事実から語り始めます。信仰とは、混沌が消えた世界を生きることではありません。


 「神がおられるなら、なぜ闇があるのか」。これは捕囚の民だけでなく、私たち自身も抱える問いです。創世記は、この問いを避けません。神が創造を始められた時にも、闇と深淵は残っていました。大切なことは「混沌がある」ことを踏まえた上で、その混沌の上に何があるかです。聖書は、「神の霊が水の面を覆っていた」と語ります。神は、混沌を見捨てておられませんでした。混沌を直ちに消し去るのではなく、その上を覆うように臨在しておられたのです。そして神は語られます。「光あれ」。神の言葉は、すべてを一瞬で整え尽くす命令ではありません。しかし、闇の中に光が置かれました。そして神はそれを見て、「良し」と言われたのです。


 この創世記の言葉は、やがて預言者イザヤの言葉へとつながっていきます。「暗闇の中を歩む民は、大いなる光を見た」。そしてその預言の中に、ご自身を重ねるようにして、主イエスはこの世に来られました。主イエスは、整えられた世界に来られたのではありません。政治も宗教も混乱し、人々が不安と恐れを抱える世界に来られます。そして主イエスは、混沌を外から眺められたのではなく、十字架において、その闇と絶望を負われました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた主は、人間の混沌の最も深い場所に入られました。父が遣わし、子がその混沌を担い、霊がその上を覆う。三位一体の神は、混沌の中で、ご自身を現されるのです。


 このことは、私たちの現実にも重なります。たとえば、介護や看病が続いている方がおられるかもしれません。先が見えず、祈っても何も変わらないように感じる日々です。「神がおられるなら、なぜこの混沌は終わらないのか」と思わずにはいられない。その現実は、信仰が弱いから起きているのではありません。創世記が語るように、神の創造の始まりにも混沌はありました。そしてその上を、神の霊が覆っていました。さらに主イエスご自身が、その混沌を十字架で担われました。ですから私たちは、「混沌がある」という事実によって、神の不在を結論づける必要はないのです。


 私たちの人生から、混沌そのものが完全に消えるわけではありません。理解できない出来事、整理できない感情、先の見えない不安があります。しかし三位一体主日が告げるのは、「混沌は消えた」という知らせではありません。その上を、今も父と子と聖霊の神が覆っておられるという福音です。私たちは、「混沌」の中で「光あれ」と言われる神さまの言葉を聞くのです。そして、神さまの「良し」という祝福を受けながら生きることが許されています。父と子と聖霊の神が、今日も私たちを包んでおられるのです。私たちはそのことに信頼し、この一週間を歩む群れとされているのです。

 

 

創世記は、「初めに、神は天地を創造された」と語ります。しかし直後に現れるのは、「混沌」と「闇」と「深淵」です。この書は、バビロン捕囚という混乱と喪失の時代に編まれました。故郷を失い、「神はどこにおられるのか」と問う人々に対し、聖書はまず、「混沌があった」という現実から語り始めるのです。信仰とは、混沌の消えた世界を生きることではありません。




2026年5月26日火曜日

5/19 小田原 5/20六日市 5/23柳井 5/24徳山・防府

 

 5/24(日)聖霊降臨祭。徳山礼拝所の朝、東から朝日が来ています。
 5/24(日)防府礼拝所。ステンドグラスからの光。
 5/23(土)柳井礼拝所。写真を撮ってから気づきました。「まだ白」と。
 5/20(水)六日市礼拝所。

 会員の方が、ご自宅のバラをお捧げ下さいました。

 5/19(火)小田原。牧師の研修会で出かけてきました。

 奥に見える「天守閣」には、昇ろうと思って諦めました。

 5/19(火)その直前。小田原からの太平洋。

 瀬戸内と違う荒々しさがありました。


今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


5/27 水曜日 16時 六日市チャペル 礼拝 

5/30 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝 

5/31 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル 礼拝

       15時30分 防府チャペル 礼拝

6/3 水曜日 16時 六日市チャペル 礼拝 

6/6 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

6/7 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

5/24(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 

聖霊降臨祭 説教 

使徒言行録21-4節 「神が始められたこと」

水原一郎

① 創世記11章では「バベルの塔」の出来事が語られています。このバベルの塔の物語は、人間の技術向上や、協力することが「悪であった」と告発するものではありません。問題とされたのは、「全地に散らされないために」「名を上げるために」という、人間が世界を管理し尽くそうとする姿勢でした。神はこの企みを見て、「混乱」をもってそれを止められました。神は、世界の主導権が人間の側に固定されることを許されなかったのです。ここで神は、便利さよりも、神と人との正しい関係を守るために働かれました。混乱は偶然ではなく、神の御業でした。人はここで、すべてを把握し、理解しようとする手を緩めること、神が主であることを受け入れるよう招かれています。


② 使徒言行録2章では、聖霊降臨の出来事が語られています。このこともまた、人間の理解を超えた仕方で起こります。「激しい風のような音」「炎のような舌」。いずれも、実際に起きていることを正確に表現するものではありません。ですから人が意図してこれらを操作できるものではありません。実際、弟子たちが準備していたわけでも、計画していたわけでもありません。神さまが、主導権をもって臨まれたのです。ここで重要なのは、弟子たちが何を感じたかよりも、神が何を始められたかです。神は、弟子たちの思いや計らいの外側から、再びご自身の霊を注がれました。昔と同様、弟子たちは、理解してから従うのではなく、理解できなくとも神の働きを受け取ったのです。


③ バベルでは、「神さまの言葉」が多くの人々を分断しました。しかしペンテコステでは、同じ「神さまの言葉」が、神さまご自身の御業を告げ知らせるために用いられました。弟子たちは「他国の言葉で神の大いなる業を語った」とあります。何を語ったかは詳しく記されていません。しかしこの日は「七週の祭り」、すなわち神さまがシナイ山の頂上で民を「宝の民」と呼び、み言葉を与え、その背きを赦したことを覚える日でした。神はここで、再びご自身の民を集め、み言葉を生きた出来事として与えられたのです。神は、分断された世界を、福音によって結び直された出来事を語ったと受け取れます。弟子たちは、自分の言葉を語るより先に、神の言葉を語るよう招かれたのです。


④ 聖霊降臨以前、弟子たちは仲間内にとどまっていました。しかし聖霊が注がれたとき、神は彼らを外へと押し出されました。これは弟子たちの勇気や決断の結果ではありません。神の霊が、人を動かされたのです。神の御業は、常に閉じたところで完結せず、外へ向かいます。神が加わられるとき、小さな集まりは、世界に向かう証しの群れへと変えられます。人は、自分の安全圏を守ることよりも、神が導かれる方向に歩み出すことで、その主導権を受け取ります。


⑤ 目を世界に転じても、世界を管理しようとする動きは見出せますが、うまく行きません。私たちもまた、自分自身すら管理しきれず、理解できない出来事に囲まれて生きています。しかし聖霊降臨の出来事は、神が今もなお主導権を握っておられることを告げています。神は、人が整ってから用いられるのではありません。むしろ弱さや不完全さのただ中に、聖霊を注がれます。私たちは、自分を管理しきれなくてもよいのです。神が働かれます。神の霊が、私たちを証人として立たせてくださいます。その主導権を受け取るとは、すべてを支配しようとする生き方を手放し、礼拝と祈りの中で神に自分を委ねることです。その御業に委ねつつ、この一週間を歩んでまいりましょう。




2026年5月17日日曜日

5/13防府枝払い、5/14西宮教会、5/17徳山礼拝所

 

5/17(日)早朝に撮りました。

明日から入院される予定の方を覚えて祈りました。

5/14(木)兵庫県、西宮教会に出かけてきました。

会議前、会議室から礼拝堂を撮りました。

5/13(水)わがままに伸びている、防府の生垣。枝払いを行いました。
ほうきとくまでを立てかけてあります。

いかにも作業後の様子ですが、実はこれから。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


5/20 水曜日 16時 六日市チャペル 礼拝 

5/23 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝 

5/24 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル 礼拝

       15時30分 防府チャペル 礼拝

5/27 水曜日 16時 六日市チャペル 礼拝 

5/30 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

5/31 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

5/17(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 

主の昇天主日 説教 

ルカ福音書2444-53節 「そこから始まる」

水原一郎

 私たちは皆、それぞれに「触れられたくない出来事、過去」を抱えて生きています。思い出すたびに胸の奥が重たくなる出来事、言い直せなかった一言、取り返しのつかないと思えてしまう判断。説教者である私自身も、そのような過去や場所を、できれば思い出したくない、避けたいと思いながら生きてきました。今日の聖書は、その痛みを急いで説明しません。むしろ、そこに立ち止まることを促します。そこに「主イエスの昇天」が起こるのです。このことは、弟子たちにとって別れの出来事でありながら、慰めと新しい歩みが、すでに始まっていることを示す出来事でした。


 今日のルカ福音書は、繰り返し「エルサレム」について語ります。この場所は弟子たちにとって、美しい記憶の場所ではありません。とりわけ主の十字架の直後です。これは、はるか昔のことではありません。今日の出来事から一週間も経っていない、近しい過去です。主イエスはそこで拒まれ、十字架に架けられました。弟子たちにとっても、エルサレムは恐れのあまり逃げ出し、沈黙した場所です。特にペトロは、逃げ出した後も主の行く末が気になり、裁判の場にそっと忍び込みます。しかしそこで、主イエスとの関係を問われ、彼はそれを否定してしまいます。その時、鶏が鳴くのです。ペトロにも、私たちにも、思い出したくない「場所」や「時間」があります。しかし主は、「悔い改めと罪の赦しが、エルサレムから宣べ伝えられる」と言われます。主は、私たちの失敗や痛みを避けて働かれるのではなく、そこに目を向け、そこから始められるのです。


 主イエスは、そのような「都に留まりなさい」と弟子たちに命じられました。早く立ち去りたい、忘れてしまいたいと思う場所に留まることは、決して容易ではありません。弟子たちにとってエルサレムは、再び立ちたい場所ではなく、命の危険すら感じさせる場所であったはずです。それでも主は、彼らを一人でそこに置き去りにはされませんでした。「上からの力」を約束し、心の目を開かれた上で、待つように命じられたのです。私たちが痛みの中に留まる時、主は沈黙しておられるのではありません。むしろ、必要な力を備えようとしておられる。ここに、聖書が語る確かな慰めがあります。


 主イエスは、弟子たちを「祝福」しながら昇天されました。それはどこか、創世記で神が世界を「良い」と言われた場面を思い起こさせます。傷を抱えた弟子たちをなお「良し」として受け止め、祝福しておられるのです。弟子たちは、その祝福を受け、悲しみに閉じこもることなく、礼拝しました。大きな喜びをもって神を賛美しました。これは、痛みが消えたからではありません。傷の記憶が消えたわけでもありません。主イエスは、傷や痛みを持つものを祝福されることを彼らは知ったのです。祝福は、痛みや傷の心にも及ぶのです。昇天は、主が遠くへ行かれた出来事ではありません。むしろ主イエスの慰めが、私たちの現実の中で始まった出来事なのです。


 私たちは今、それぞれ異なる痛みを抱えて、この礼拝に集っています。解決していない問題、先の見えない不安。主は、それらが片づいてから宣教が始まるとは言われませんでした。「都に留まりなさい」と言われた主は、時が来るまで待つこと、祝福を受け続けることを命じられました。宣教は、勢いよく始まるものではなく、痛みを抱えたまま、神の力を待つ中で、静かに始められるものなのです。昇天された主は、今もここで私たちを祝福しておられます。昇天された主ご自身が、今も働いておられるのです。






2026年5月12日火曜日

5/10防府、5/12徳山ペチュニア、メダカ

 

 5/12(火)徳山は既に、初夏の日差しとなっています。

 メダカに給餌。

 5/12(火)おそらく昨年のプランターからのペチュニアが、ここに花を咲かせました。

 

 5/10(日)防府礼拝所。「母の日」を覚え、讃美歌は510番を歌いました。


今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


5/13 水曜日 16時 六日市チャペル  

5/16 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝 

5/17 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル 礼拝

       15時30分 防府チャペル 礼拝

5/20 水曜日 16時 六日市チャペル 礼拝 

5/23 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

5/24 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

5/10(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 


復活節6主日 説教 

ヨハネ福音書1415-21節 「さようならは言わないで」

水原一郎

① ヨハネ14章は、主イエスが「ひと時の別れ」を語られた箇所です。しかしそれは、見捨てる別れではありません。すでに主イエスは、「わたしが道であり、真理であり、命である」と語り、ご自身によって父のもとへ至る道であることを示されました。十字架の出来事によってです。その上での別れです。けれど弟子たちの心には、「自分たちは置き去りにされるのではないか」という不安が広がります。この不安は、私たちにも重なります。一人で歩まなければならないと感じるとき、同じ思いにとらわれるからです。しかし主は、そのような心に向けて、「あなたは決して一人ではない」と語られます。


② 主イエスは言われます。「あなたがたはわたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」。ここで言われる掟とは、「互いに愛し合いなさい」という主の言葉です。しかしこれは、努力によって守られる単なる命令ではありません。主がまず私たちを愛してくださった、その事実に根ざしています。愛された者として、その愛に生きる――それが戒めを守るということです。あえて努力のことを言えば、「愛されることを覚える」のです。主は別れに際しても、弟子たちをこの愛の中に留めようとしておられるのです。


③ それでも弟子たちは不安を抱きます。そこで主は、「別の弁護者」を与えると約束されます。これは「パラクレートス」、傍らにいて語る者、弁護する者、すなわち聖霊です。主イエスが去られる代わりに、別の存在が来るのではありません。主が開かれた道の中で、なお主ご自身が共におられる、その仕方が語られているのです。だから主は言われます。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」。見えなくなっても、主が離れることはないという約束です。


④ 聖霊は、弟子たちの心を整えるために与えられます。主は言われます。「あなたがたはわたしを見る」「わたしはあなたがたの内にいる」と。聖霊は、私たちの内にあって主イエスを思い起こさせ、主の言葉を生きたものとして響かせる方です。「あなたは見捨てられていない」と語り続ける方です。例えば、こんな経験はないでしょうか。どうしてよいか分からず、心が落ち着かないとき。祈ろうとしても、言葉にならないときです。けれども、ふと聖書の言葉が思い起こされることがあります。あるいは、以前聞いた説教の一言が心に浮かぶことがあります。そのときは、状況が変わったわけではありません。しかし、「ああ、自分は一人ではない」と、どこかで思わされるのです。それは、自分の力で思い出したというよりも、主が近くにおられることを気づかせられた。そう言うほうがふさわしい出来事ではないでしょうか。


⑤ 主イエスは、父のもとに場所を備えるという希望を示されました。そして同時に、今ここで聖霊によって共におられることを約束されました。やがての備えのことと、今の臨在。この二つは、主イエスご自身によって結び合わされています。例えば、誰にも頼れず、一人で決めなければならないときがあります。祈ろうとしても言葉が出てこないときもあります。そのとき私たちは、「自分は一人だ」と感じます。しかし主は言われます。「あなたがたをみなしごにはしておかない」。見えなくなることはあっても、主が離れることはないからです。だから「さようなら」は告げられていません。
その確かさの中で、今日もまた、主と共に歩み出したいと願います。