10/22(木)西宮教会の玄関。
今週以降の行事は、以下のとおりです。
いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。
10/28 水曜日 17時 六日市チャペル
10/31 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝
15時30分 防府チャペル 礼拝
11/4 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝
11/7 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
11/8 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び
10時45分 徳山チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
10/25(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。
宗教改革主日 説教
マタイ福音書22章34節-40節 「まず、愛されている者」
水原一郎
① 主イエスは、この日もファリサイ派から問いを受けられます。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」この問いは、突然生まれたものではありません。直前、主イエスはサドカイ派との論争で、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」と語られ、人々を驚かせました。その姿を見たファリサイ派が問う律法の中心にも、主イエスを試そうとする思いが隠れていました。けれど主は、その思いに応じるのではなく、律法の中心を示します。「あなたの神である主を愛しなさい。」「隣人を自分のように愛しなさい。」律法全体は、この二つにかかっていると言われたのです。
② しかし、この主イエスの答えは、新しい教えではありません。「神を愛しなさい」は申命記六章、「隣人を愛しなさい」はレビ記十九章からの引用です。そして、この二つの言葉には共通する前提があります。それは、神がまず民を赦し、愛してくださったということです。申命記で十戒が「改めて」語られたのは、金の子牛を造るという大きな罪の後でした。神は契約を破った民を見捨てず、もう一度契約を結び直してくださいました。レビ記でも同じです。神が御自分の民として受け入れてくださった、その恵みの上で「愛しなさい」と語られます。旧約聖書の中で、「戒め」というものは、「神の愛」の宣言の後に置かれています。命令は、それ自体ではなく、赦しから始まるのです。
③ ところが、人はこの大切な前提を忘れてしまいます。ファリサイ派は律法を愛していました。しかし、律法そのものが大きくなり、その律法を与えてくださった神が見えなくなってしまいました。「愛しなさい」という言葉だけが残り、「まず神が愛してくださった」という福音が薄れてしまったのです。宗教改革者ルターも若い頃、まさにここで苦しみました。修道院の生活で、「神を愛しなさい」と命じられるのです。でも、自分には神を愛する心がない。ルターは聖書を読み続ける中で、ある時気づきます。神は、私が愛する前に、すでに私を愛してくださっていた。その福音が、宗教改革の土台でした。
④ 私たちも同じではないでしょうか。「もっと信仰深くならなければならない。」そう思えば思うほど、自分のできなさに目が向きます。そして、「こんな自分では神に近づけない」と感じることがあります。しかし、そのような私たちに、主イエスは今日も語っておられます。神は、人を愛せない心も、失望も、不安も、重荷も、そのまま神の前へ持って来なさい、と招いておられるのです。それが、マルチン・ルターが見出したことと重なります。ルターが強調したことは、『もっと神を、主イエスを愛しなさい』という教えではありません。その前にある、『神があなたを愛してくださった』という福音です。その福音のために、ルターは何度でも、厳しい状況の中で立ち上がることが出来たのです。
⑤ 主イエス・キリストは私たちのために来てくださいました。そして、十字架において私たちの罪を引き受けてくださいました。そして復活によって、神の愛は私たちの弱さや罪によって終わるものではないことを示してくださいました。だから今日、私たちは、神に愛されている者として歩む思いを新たにしたいと思うのです。「愛されている」という恵みの中で、神を愛し、隣人を愛する歩みが少しずつ整えられてゆくのです。今日は、宗教改革主日となっています。この日、私たちはもう一度、「愛されている」という福音に立ち返るための日です。私たちが神を愛する前に、神が私たちを愛してくださった。その恵みに支えられて、新しい一週間へ遣わされて行く群れでありましょう。






































