2026年5月1日金曜日

4/25柳井、4/26徳山、防府



 4/25(土)柳井チャペル玄関左の花壇。

 「一粒の麦」職員の方によって修繕が進められています。感謝です。

 4/25(土)柳井チャペル。
 4/26(日)徳山チャペル。
 4/26(日)防府チャペル。

 気づいたら金曜日。更新が遅れて失礼いたしました。


今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


4/29 水曜日 16時 六日市チャペル 家庭礼拝 

5/2 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝 

5/3 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル 礼拝

       15時30分 防府チャペル 礼拝

5/6 水曜日 16時 六日市チャペル 礼拝 家庭礼拝の予定です。

5/9 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

5/10 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

4/26(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 


 

復活節4主日 説教 

ヨハネ福音書101-10節 「あなたを守る神」

水原一郎

① 主イエスは言われました「私は羊の門である」。それは唐突な宣言ではありませんでした。ヨハネ9章に、目の見えなかった一人の男が登場します。彼は主イエスによって見えるようになりました。しかしその出来事は、彼の人生を明るくしたわけではありません。人々に問い詰められ、宗教指導者たちの前に立たされ、「あの人は誰なのか」と繰り返し問われます。けれども彼は答えを持っていませんでした。「分かりません」と言うしかなかったのです。宗教指導者たちは、安息日に起きた癒しを問題にしました。しかし彼は、彼らの求めに結果として応じませんでした。ついには会堂から追い出されます。癒されたにも拘らず、彼は居場所を失ったのです。目は開かれました。しかし、その目が最初に見たのは、祝福ではなく排除でした。その彼を、主イエスは探し出されます。追い出されたその場所で、主は彼に語られたのです。「私は羊の門である」と。


② 古代ユダヤの荒野には、羊を守る囲いがありました。石垣で囲われた一角に、ただ一か所だけ開いた部分があります。そこが門です。夜になると、羊飼い自身がそこに身を横たえることがありました。外と内、危険と羊とのあいだに、自分の身体を置くのです。それは力で支配する守りではありません。羊が守られるために、羊飼いが最も無防備な場所に立つ――そのような守りでした。主イエスの「私は羊の門である」という言葉は、ご自身がこれから歩まれる道を含んだ宣言でした。


③ 主イエスは言われます。「門を通らず、他から乗り越えて来る者は、盗人であり強盗である」。ここで告発されているのは、悪意ある者だけではありません。律法を大切にし、共同体を守ろうとした人々です。しかし彼らは、癒された男の混乱や喜びに身を寄せることなく、自分たちの正しさで彼を囲いの外へ押し出しました。共同体に復帰しようとする彼と正面から向き合わず、他から乗り越え、彼を外に追い出してしまうのです。


④ 主イエスは言われます。「私は門である。私を通って入る者は救われる」。ここで語られる「救い」とは、ただ来世の安らぎではありません。今ここで、神のまなざしのもとに生きることです。自分の存在が、条件付きではなく、受け入れられていること。傷つき、つまずいたとしても、戻ってくる場所があること。それが、救いです。主は言われます。「私は来た。羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」。この「命」とは、ただ息をして生きることではありません。神とつながる命、関係の中で生きる命です。その命が、主イエスを通して、今ここに差し出されています。


⑤ この「門」という言葉は、やがて主イエスご自身の歩みによって、はっきりとした形を取っていきます。十字架とは、神がわたしたちのために「門」になった出来事でした。命と死のあいだに。救いと滅びのあいだに。神ご自身が横たわったのです。人間の罪と暴力と拒絶が、それ以上、羊たちをのみ込まないように。神は、遠くから命じる方ではなく、境界に立ち、身体をもって引き受ける方であられました。だから主は言われます。「私を通って入る者は救われる」。それは、安全な囲いに閉じこもることではありません。傷つく世界へ、再び遣わされるとしても、もう命を奪われることはない――そのような救いです。一週間が始まります。日常の荒野へと出て行く私たちの前に、主は今も門として立っておられます。前を行き、後ろをふさぎ、わたしたちの名を呼びながら。この方を通って生きるところに、命があります。しかも、豊かな命があります。

2026年4月21日火曜日

4/15六日市の葉桜、4/18柳井のボタン、4/19防府のユリ、4/21徳山のジャガイモ

 

 4/20(月)徳山礼拝所に植えたジャガイモの手入れをしました。

 芽カキしたものは、脇に植えました。そのうちシャンとするでしょう。

 4/19(月)防府礼拝所のユリ。大変に良い香りです。
 4/18(土)柳井礼拝所の一角に植えてあるボタン。

 ことしも大輪の花を咲かせました。

 4/15(水)会員さんをお見舞いした後に、葉桜を見ました。

 今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


4/22 水曜日 16時 六日市チャペル 礼拝 

4/25 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝 

4/26 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル 礼拝

       15時30分 防府チャペル 礼拝

4/29 水曜日 16時 六日市チャペル 礼拝 家庭礼拝の予定です。

5/2 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

5/3 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

4/19(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 


復活節3主日 説教 

ルカ福音書2413-28節 「失望の道が、喜びの道へ」

水原一郎

① ある日の午後、二人の弟子が、エマオという村へ向かって歩いていました。彼らの足取りは重く、表情には疲れがにじんでいました。歩きながら、彼らは語り合っていました。この数日、何が起こったのか。なぜ、あんなことになったのか。愛する主が十字架で命を落とされたことです。残るのは、痛みと、空しさ、そして自分への悔しさです。都を離れる背中は、「終わった」「これ以上、留まる理由がない」と語っているようでした。


② そんな彼らのそばに、ひとりの旅人が近づきます。そして、何事もなかったかのように問いかけます。「あなたたちは、道々、何を話しているのですか。」弟子たちは立ち止まり、うつむいたまま答えます。「あの都で起きたことを、あなたは知らないのですか。」彼らは語ります。イエスという方がどれほど力ある方であったか。どれほど希望を託していたか。しかし、その方が捕らえられ、十字架につけられてしまったこと。墓が空だったという知らせも聞いたけれど、何も分からないままだということを。彼らは事実を語ることはできました。しかし、そこからの希望は、もう持っていなかったのです。


③ そのとき、旅人は語り始めます。モーセの律法から預言書に至るまで、聖書全体を開きながら、こう語るのです。「メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入ることになっていたのではないか。」そのとき彼らは、まだ知りませんでした。今、自分たちに語っているのが、復活の主ご自身であることを。しかし、だからこそその言葉は、彼らの心の奥に触れていきました。「苦しみは栄光に」と言われるその言葉を通して、「この苦しみも、見捨てられた出来事ではなかったのかもしれない」と。そうして、固く閉ざされていた心が、少しずつほどけていったのです。後に彼らは振り返って言います。「道でお話しくださったとき、聖書を解き明かしてくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。」そのときには分からなかった。分からないことがあった。けれど確かに、主は共に歩き、語り、心に火をともしておられた。主は、分かってから近づかれるのではありません。分からないまま歩く者と、同じ速さで、同じ道を歩かれるお方なのです。


④ 私たちもまた、「分からない」という道を歩くものでしょう。ことに迷うとき、祈っても答えが返ってこないように思えるとき。「自分は間違った道を選んでしまったのではないか」と思うとき。信仰に確信が持てず、現実に押し流されるように歩いているときです。エマオへの道は、本来、弟子たちが向かうべき道ではありませんでした。これはいわば、「都落ち」と言える表現です。失望のあまり、都を離れ、使命から背を向けた道でした。それでも、その道が無意味な道にはなりませんでした。それは、どんな道であっても主が共に歩まれたから。主は、私たちの選びをすべて、正しいものにしてくださるお方ではありません。しかしそれが、たとえ誤りの道、遠回りを含む道であっても、そこに共に立ち、語り、立ち上がる力を備えてくださるお方です。私たちが気づかなくても、信仰に確信が持てなくても、主は離れず、同じ速さで歩き続けておられるのです。


⑤ 今、私たちが歩いている道も、エマオへの道のように見えるかもしれません。しかし、その道が主と共に歩まれるなら、そこは復活の道となります。後になって、振り返る日が来るでしょう。「あのとき、主は共におられた」「心は燃えていた」と。この復活の主が、今日も私たちと共に歩んでおられます。気づかれなくても、名指されなくても、主は歩みをやめられません。この主と共に、私たちは今日も歩み続けます。アーメン。


2026年4月14日火曜日

4/8 病院の桜2 4/12徳山の芝桜、ヤマボウシ、防府、4/13徳山

 

 4/13(月) 久しぶりに、電動バリカンでブナの木をきれいにしました。

 きれいにし過ぎ…と、剪定後はいつも思います。

 4/12(日)防府礼拝所。ゆりもまた、良い香りです。
 4/12(日)徳山礼拝所の道路側。この右側にブナがあります。

 芝桜、ヤマボウシが春の装いをば。

 4/8(水)会員さんをお見舞いした後の、六日市の桜。

 そろそろ葉桜に。4/15(水)はいかがでしょうか。


今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


4/15 水曜日 16時 六日市チャペル 礼拝 

4/18 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝 

4/19 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル 礼拝

       15時30分 防府チャペル 礼拝

4/22 水曜日 16時 六日市チャペル 礼拝 

4/25 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

4/26 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

4/12(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 

復活節1主日 説教 

ヨハネ福音書2019-23節 「その日、部屋は変わった」

水原一郎

① 主の復活の日の夕べ、弟子たちは家の戸に鍵をかけて閉じこもっていました。弟子たちの心を支配していたのは、「ユダヤ人を恐れて」という理由が語っています。つまり、外側からの脅威でした。けれども、ただそれだけだったでしょうか。弟子たちの内には、もっと深い不安があったと思われます。それは、主イエスを裏切ってしまったという 自責、そしてあの十字架の死によりすべてが終わったという失望でした。それらを作り出した自分への失望。この夜、戸を閉じていたのは、外の世界への扉。自分たちの未来への希望の道。あるいは神さまへの信頼に至る心の扉だったのかもしれません。


② そんな彼らのただ中に、主イエスは現れます。「戸には鍵がかけられていた」と強調されているにもかかわらず、主イエスはそこに立たれたのです。しかも主イエスは、まず言葉と共に、「手とわき腹をお見せになった」と記されています。弟子たちはこのとき、十字架の現実と復活の現実、両方に同時に出会いました。傷を負われたお方が、死を超えて共におられる。そこに、彼らは慰めと平安を受け取ったのです。主イエスは言われます。「あなたがたに平和があるように。」これは単なる再会のあいさつではありません。主イエスのお気持ちはこうです。「もう大丈夫だよ」。弟子たちが失っていた、取り戻せないと思っていた関係と使命とを、主ご自身が回復される言葉でした。続けて、主はこう言われます。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」主イエスの平和は、再び歩み出すために与えられるものなのです。


③ 続いて、主イエスは弟子たちに息を吹きかけて言われます。「聖霊を受けなさい。」ここで思い起こされるのは、創世記2章です。神が人を形づくり、命の息を吹き込まれた場面です。ここで弟子たちは、いわば「新しい創造」に与りました。恐れと失望の中で、使命を失っていた者たちに、再び命の息が吹き込まれたのです。それは、分かりやすい形では、個々人の心の回復を起こしました。その回復は、主イエスによって、弟子たちを再び世へと向かわせる命の息により起こされます。赦しの言葉が語られるのも、この派遣と無関係ではありません。赦しは、交わりを守る教えでも、また壊れやすい世界へと踏み出す力でもあります。聖霊は、その歩みを支える神の力なのです。


④ 私たちは今、この弟子たちの交わりの延長に生きています。教会とは、閉ざされた扉の中にさえ、キリストが入ってこられ、息吹を与え、新しい交わりを形づくられる場所です。完璧な人間たちが集う場ではありません。裏切りも、恐れも、傷もある。しかしそれらを超えて、キリストの平和と赦しが中心に据えられている。それが、教会です。


⑤ 「その日、部屋は変わった」と言ってよいでしょう。鍵のかかった空間が、神の霊が吹き込まれる場とされました。恐れと沈黙に満ちていた場所が、平和と派遣の始まる場所とされたのです。この礼拝もまた、同じ出来事の延長にあります。私たちは、ただ慰められるためにここに集っているのではありません。平和を受け取り、赦しに生かされ、再び世へと遣わされていくために、ここに集められています。主は今日も、私たちのただ中に立って言われます。「あなたがたに平和があるように。」そして、「わたしはあなたがたを遣わす」と。そのとき、私たちの閉ざされた部屋は、再び開かれます。恐れの場所は、希望の出発点へと変えられるのです。この復活の主と共に、私たちは新しい週へと遣わされていきます。アーメン。


2026年4月7日火曜日

4/1六日市イースターエッグ、4/1病院の桜、4/4柳井、4/5防府、4/6笠戸の桜

 

4/4(日)防府礼拝所のイースター。

奥には、徳山礼拝所の方が新調してくださった牧師用アルバがあります。

4/3(土)柳井礼拝所のイースター。み言葉カード、イースタークッキー、エッグです。
4/1(水)会員をお見舞いした病院で撮った桜。
4/1(水)六日市礼拝所の方から頂いた、子ども用のイースターエッグ。

中は…。

4/6(月)笠戸島に行きました。桜は満開。貝殻拾いをしました。
その直前には全力で鬼ごっこ。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


4/8 水曜日 16時 六日市チャペル イースター礼拝 

4/11 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝 

4/12 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル 礼拝

       15時30分 防府チャペル 礼拝

4/15 水曜日 16時 六日市チャペル 礼拝 

4/18 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

4/19 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

4/5(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 

復活祭 説教 

マタイ福音書281-10節 「道の途中で、おはよう」

水原一郎

① 主イエスの復活を祝うイースターの朝、私たちはマタイ福音書28章を読みます。しかし、この物語は、喜びに満ちた場面として始まってはいません。「安息日が終わって、…マグダラのマリアと、もう一人のマリアが墓を見に行った(1節)」とあります。彼女たちは「復活を見に来た」のではありません。ただ、「墓を見に来た」のです。そこには、主イエスへの期待も、復活の確信も記されていません。ほかの福音書が語るような、主の体を整える香料さえ、マタイは記していません。主イエスを追憶をする気持ちはあっても、道具まで気が向かないのです。描かれているのは、「何もない」姿です。悲しみの中で、現実の前に立ち尽くしている、二人の姿をマタイ福音書は描きます。


② ここに、マタイ福音書の大切な視点があります。神さまの出来事は、人間の側の理解や期待を越えて起こされる、ということです。このことは、すでに十字架の場面で示されていました。主イエスを処刑する側にいた百人隊長は、主イエスを正しく評価する立場の人間ではありませんでした。信仰告白など、最初から予定されていない人物です。ところが、地震と十字架の出来事を目の当たりにしたとき、彼は思わずこう言います。「本当に、この人は神の子であった」と。これは、準備された告白ではありません。考え抜かれた言葉でもありません。思わず口をついて出た告白です。女性たちも、百人隊長も、共通しています。正しく理解し、期待していたわけではなかったのです。


③ それでも、神さまの出来事に遭遇したとき、言葉が生まれ、歩みが始まりました。墓の前で天使の言葉を聞いた女たちは、「恐れつつも、大いに喜んで」走り出します。恐れは消えず、気持ちも整理されません。揺れ動く心のまま、走り出したのです。すると、マタイはこう記します。「イエスが行く手に立っておられた」。主イエスは、墓の前で待っておられたのでも、信仰が整うのを待たれたのでもありません。女性たちが走り出したその途上で、待っておられたのです。主イエスの復活は、死がなお支配していると思われたこの世界において、神が新しいいのちを開始された出来事でした。


④ そのとき、主イエスが最初に語られた言葉は、荘厳な復活宣言ではありませんでした。「おはよう」。ギリシア語では「カイレーテ」。日常の挨拶の言葉です。「喜びなさい」や「嬉しいね」とも受け取れる、温度のある言葉です。主イエスは、その意味を説明されません。ただ、この言葉を語られます。それは、「出会えてうれしい」という、人と人との関係を回復する言葉です。死によって断たれた関係が、再び始まることを告げる言葉です。やがて弟子たちとの関係も回復していく、その確信を含んだ言葉です。


⑤ 私たちは、信じ切れないまま、礼拝に座っていることがあります。そして一週間を過ごします。それでも、主はその只中で、言葉をかけてくださいます。復活とは、私たちの信仰が完成した証ではありません。信じ切れないまま、「恐れつつ、走り続ける」一週間の現実の途上に、主イエスが立って下さっている出来事です。そしてそのとき、思わず口をついて出る言葉や、思いがけない出会いが、私たちの信仰を始めていくのです。主は今日も、またこの一週間の朝、私たちが朝起きる時に、私たちの人生の途上で、こう語りかけておられます。「おはよう」。私たちの中には「何もない」日々があったとしても、主イエスの声は届きます。私たちはそこから、新しい歩みを始めるものなのです。


2026年3月31日火曜日

3/25六日市水仙、3/28柳井メダカ、教会、3/29徳山、3/29防府水仙



3/29(日)防府礼拝所。水仙が良い香り(良すぎる香り)をはなっています。
3/29(日)徳山礼拝所。空気はすっかり春模様。
3/25(水)六日市礼拝所そばの水仙。こちらは香らない品種とか。

3/28(土)「一粒の麦」理事さんから、子どもにメダカを頂きました。

3/28(土)柳井礼拝所の正面。春霞ですね。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


4/1 水曜日 16時 六日市チャペル礼拝 

4/4 土曜日 15時 柳井チャペル イースター礼拝 

4/5 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル イースター礼拝

       15時30分 防府チャペル イースター礼拝

4/8 水曜日 16時 六日市チャペル イースター礼拝 

4/11 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

4/12 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

3/29(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 


受難主日 説教 

マタイ福音書2745-56節 「この方はまことに神の子」

水原一郎

 この受難主日は、「主イエスの十字架での死」を覚える日です。けれども私たちは、この出来事からすぐに意味や教訓を引き出すことを控えたいと思います。むしろ、十字架の前で発せられた一つの言葉「この方はまことに神の子であった」という百人隊長の告白を、そのまま心に収める時としたいのです。私たちは今、主イエスの死を「理解する者」としてではなく、その出来事の前に立たされる者とされています。マタイは、弟子でも信仰者でもない、一人の異邦人、ローマの百人隊長に視線を向けます。彼は処刑を執行する側の人間でした。その彼の口から、この告白が語られます。


 主イエスは、十字架の上で叫ばれました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。これは、人間の絶望の言葉であると同時に、なお神に向かって呼びかける祈りの言葉です。しかし、その場に居合わせた人々は、この叫びを受け取ることができませんでした。「エリヤを呼んでいる」と取り違え、嘲りと距離の中で聞き流します。百人隊長もまた、この叫びの意味を理解した者ではありません。彼はただ、国家権力の命令のもとで、処刑の現場に立たされていた者でした。主イエスの叫びは、説明されることなく、意味づけられることなく、隊長の前に置かれていたのです。


 やがて主イエスが息を引き取ると、神殿の幕が上から下まで裂け、地が揺れ動きます。マタイは、出来事の意味を解説しません。ただ、神の側で何かが決定的に起こったことだけを描きます。その時、百人隊長は言います。「本当に、この人は神の子であった」。彼は、神殿の幕の象徴性を理解していたわけではありません。律法を学んでいたわけでもありません。そもそも神殿とゴルゴタの丘とには距離がありますから、この出来事を知ることはないのです。それでも、この告白が彼の口から発せられます。これは、彼が何かを「見抜いた」結果ではありません。むしろ、十字架の出来事そのものが、彼にこの言葉を言わせたのです。主イエスは力を示さず、神を呪わず、ただ神を呼びながら死んでいきました。その事実だけが百人隊長に示されています。その死は、ただの敗北ではなく、人の罪と断絶を神ご自身が引き受けられた出来事でした。


 マタイ福音書は、一貫して「中心ではない、周り」に置かれた人々を通して、神の子が示される物語を描いています。最初に幼子イエスを礼拝したのは、異邦の占星術の学者たちでした。また、異邦とされた女性が、信頼をもって主にすがります。そして最後に、「神の子」を告白したのは、十字架刑を執行する側の異邦人でした。神の子は、理解され、受け入れられた中心ではなく、拒まれ、失敗し、破れた場所で現されます。マタイは、十字架を「信仰の勝利」として描きません。むしろ、すべてが崩れ落ちた場所で、なお神が人と共におられるという事実を、静かに示しているのです。


 百人隊長は、ユダヤの伝統も、律法も、主イエスの教えも知りませんでした。過越の祭りという歴史的出来事の中で、偶然その場に立ち会ったに過ぎません。それでも彼は、「神の子」という言葉を口にします。これは、十字架の出来事そのものが、彼を通して語った告白です。神が沈黙されているように見えるその時、なお神は、ご自身の子を通して語っておられたのです。私たちもまた、問いを抱え、答えを持たぬまま、それぞれの十字架の下に立たされる者です。それでも、その場に神の御子はおられるのです。受難主日は、このことを、沈黙の中で引き受ける日なのです。



2026年3月24日火曜日

3/18六日市、3/21柳井、3/22防府、3/24徳山

 

3/24(朝)徳山礼拝所の、先週の献花と今週の献花の様子。

今朝は晴れで、朝の光が礼拝堂に満ちています。

3/22(日)防府礼拝所。カラーの鉢植えに、水仙が。

この水仙、すばらしい香りです。説教壇にまで届きます…。

3/21(土)柳井礼拝所。四旬節の礼拝でした。
3/18(水)こちらは六日市礼拝の直前。水仙が咲いています。


今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


3/25 水曜日 16時 六日市チャペル礼拝 

3/28 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

3/29 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝

4/1 水曜日 16時 六日市チャペル礼拝 

4/4 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

4/5 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

3/22(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 

四旬節第5主日 説教 

ヨハネ福音書1128-45節 「墓の前で、主は泣かれた」

水原一郎

① 私たちは、「死」に対して二つの距離感をもって生きています。遠い国の戦争、見知らぬ人の訃報。それらに心は痛みますが、日常の中に埋もれます。これは「三人称の死」、つまり「誰かの死」です。しかし、自分のすぐそばにいる人、家族、友人、愛する者の死に直面したとき、私たちは全く違う仕方で打ちのめされます。時間が経っても癒えず、深く心をえぐることさえあります。これは「二人称の死」、「あなたにとって、大切な人の死」です。今日の福音書に登場するマリアは、まさに「二人称の死」のただ中に立ちます。兄ラザロを失い、取り消すことのできない現実に立たされているのです。


② マリアは主イエスのもとに来て、こう言います。「主よ、もしここにいてくださいましたなら、私の兄弟は死ななかったでしょう。」この言葉は、非難というよりも、間に合わなかった現実の前でこぼれ落ちた、悲しみと信頼の入り混じった叫びです。マリアは、主イエスを信じていなかったのではありません。信じていたからこそ、主イエスの不在が、取り返しのつかないことを引き起こした、痛みとして感じたのです。主イエスは、泣くマリアと、共に泣く人々をご覧になります。そのとき、福音書は「心に憤りを覚え、動揺された」と記します。この憤りは、人々の涙に向けられたものではありません。人の命を奪い、関係を引き裂き、愛する者を引き離す「死の力」そのものに向けられた憤りです。


③ そして、短く、しかし決定的な言葉が記されています。「イエスは涙を流された。」ここに、今日の福音の核心があります。主イエスは、死を遠くから眺め、説明し、意味づけるお方ではありません。「誰かの死」として処理されがちな現実を、「あなたにとって、大切な人の死」として引き受けられるお方です。主イエスは、死によって引き裂かれた関係のただ中に立ち、マリアの涙を、ご自身の涙として流されました。私たちの家族の死、教会の愛する兄弟姉妹のその喪失は、主イエスにとっても他人事ではありません。主イエスは、私たちの「二人称の死」を、真正面から引き受けてくださるのです。


④ しかし、主イエスは涙だけで終わられません。墓で、大声で叫ばれます。「ラザロよ、出てきなさい。」それは、死の支配に対して発せられた、権威ある命の呼び声でした。閉ざされた墓、終わったとされていた命に向かい、神の言葉が放たれたのです。ラザロの復活は、再び死を迎えるという意味で、最終的ではありません。それでも、この出来事ははっきりと告げています。死は、最終的な支配者ではないことを。ラザロを眠らせた死は、主イエスの言葉の前で、絶対的な沈黙を保つことはできなかったのです。


⑤ しかし、この奇跡は、安らかな結末をもたらしませんでした。ラザロが生き返ったその直後から、人々はイエスを殺す計画を立て始めます。ラザロを墓から呼び出すために、主イエスは、十字架へと歩み出されたのです。その歩みは、偶然ではなく、神のご計画の中で引き受けられた道でした。主イエスは、命を呼び出す声の代価を、ご自身の死によって支払われました。それでもなお、主は叫ばれます。「出てきなさい」と。それは、墓の中のラザロだけに向けられた声ではありません。死に慣れ、諦めの中に閉じこもっている私たち一人ひとりに向けられた声です。四旬節の歩みの中で、墓の前で泣かれ、なお私たちを呼び出される主の声に押し出されて、私たちは今ここを、生きる者として歩み出したいと願います。


2026年3月17日火曜日

3/11六日市、3/14柳井、3/15防府の桜、3/15徳山の桜、

 

 3/15(日)防府チャペル裏手にある桜。一足早いものですね。
 3/15(日)徳山チャペル礼拝堂。
 3/14(土)柳井チャペル礼拝堂
 3/13(金)徳山チャペルの外の桜。

 この桜を植えたと伝えられるご婦人のもとに、来週面会します。

 3/11(水)六日市チャペル礼拝前。

 何か、新しい命を思い起こさせます。


今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


3/18 水曜日 16時 六日市チャペル礼拝 

3/21 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

3/22 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝

3/25 水曜日 16時 六日市チャペル礼拝 

3/28 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

3/29 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

3/15(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 


四旬節第4主日 説教 

ヨハネ福音書91-41節 「あなたの中の、神の業」

水原一郎

 今日の福音書には、生まれつき目の見えない人が登場します。弟子たちは主イエスに尋ねました。「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか、それとも両親ですか」。苦しみには原因があるはずだ、という問いです。しかも「生まれつき」であるなら、本人以外に理由を求めるしかない。そうして人は、苦しみを誰かの罪に結びつけます。この思考は遠い昔のものではありません。私たちもまた、「なぜ自分が」「誰のせいなのか」と問い続けます。その問いは理解を求める叫びであると同時に、苦しみを裁きへと変えてしまう危うさを含んでいます。


 主イエスは、その因果論を退けられました。「本人の罪でも、両親の罪でもない」と。けれども、ここで主は苦しみの理由を説明されたわけではありません。なぜ彼が盲目なのか、その背景は語られないままです。聖書は、すべての苦しみの「原因」を解き明かす書物ではありません。ここで起きているのは「神の沈黙」でしょうか。もちろんそれもあります。それに加えて「問いの転換」です。主は「なぜ」という問いを抱く人に語ります。それは「いま、この現実の中で神が何をなさるか」ということです。そこに視線を向けるよう、優しく促す方なのです。神は苦しみを望まれた、とは語られません。しかし同時に、それを無意味な闇、出来事として放置される方でもないのです。


 主イエスは言われます。「神の業が、この人に現れるためである」と。この言葉は、神が彼を盲目にしたという宣言ではありません。すでに存在しているこの現実のただ中で、神の業が現れるという宣言です。神は苦しみを作り出す人ではなく、その只中にあり、「なぜ」と問いかける人に働きかける方です。主イエスは土をこね、彼の目に塗り、シロアムへ遣わされました。彼は従い、洗い、見えるようになります。ここで変えられたのは「目が見えない」という出来事の意味づけでした。苦しみはもはや「罰のしるし」として固定されず、神が働かれる場として開かれたのです。


 しかし物語はさらに深まります。癒された彼は、宗教指導者たちに問い詰められ、ついには会堂から追い出されます。見えるようになった者が排除され、見えると自負する者たちが実は見えていないことを露わにします。主イエスは言われます。「私は世の光である」。光は慰めであると同時に裁きです。光は闇を照らすだけでなく、私たちの思い込みも照らします。盲人は「あの人」から「主よ、信じます」へと信仰を深めていきました。しかし指導者たちは、自分は見えていると言い張ることで、かえって盲目にとどまりました。ここで問われているのは、私たちがどちらに立つのかということです。


 この福音は、今日の私たちにも向けられています。私たちの苦しみの理由がすべて説明されるわけではありません。罪と苦しみが無関係だと単純に言えるわけでもありません。しかし少なくとも、目の前の苦しみを直ちに神の罰と断定することはできないのです。四旬節、私たちは主イエスが十字架において人類の闇を引き受けられたことを覚えます。神は苦しみの外から論じる方ではなく、その中に立たれる方です。「神の業が現れる」。「神の業」とは、病気が消えること、仕事の成果が出ること、苦しみが消えることではありません。共にいてくださる神を知るようになること。成果が出なくとも、私という人間の価値が揺るがないことを知ること、絶望だけが最後の言葉でないと知ること。それもまた、神の業です。私たちはそのことの証人とされているのです。