10/20(火)一粒の麦「日帰り旅行」で、錦町の「とことこトレイン」に乗りました。
ブラックライトで照らされるトレイン内、フラッシュを炊かないのが正解。
これも炊いたもの。
10/20(火)戦中、1943年創業の麻里布製油所。
奥には、大型タンカーではなく中型タンカー。原油が積載されていますが、
これでも30万トンクラスとか。遠洋は60マントン。
夕方の柳井礼拝所を撮りたかったのです。
室積に教会員8名と出かけてきました。
写真は、個展会場の近隣の方が下さった「クロねこ」壁掛け。
10/14(水)上りの鹿野パーキングエリア。
午前中は防府で除草作業し、防府→徳地→鹿野→六日市と移動しました。
秋の風が心地よい午後。
今週以降の行事は、以下のとおりです。
いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。
10/21 水曜日 17時 六日市チャペル
10/24 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝
15時30分 防府チャペル 礼拝
10/28 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝
10/31 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
11/1 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び
10時45分 徳山チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
10/18(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。
聖霊降臨後第21主日 説教
マタイ福音書22章15節-22節 「私は、誰のもの?」
水原一郎
① 主イエスは、ファリサイ派とヘロデ派の人々から問いを受けられます。「皇帝に税を納めることは、律法にかなっているでしょうか。」しかし、この問いは、真理を求める問いではありませんでした。どちらと答えても主イエスを訴えることができるように仕組まれた罠でした。本来なら交わることのない人々が、この時だけは手を組みます。人を倒すためには一致できる。それほどまでに、彼らの心から神は見えなくなっていました。議論の中心にあるのは税金でも皇帝でもありません。神が不在になっていたのです。
② 主イエスは一枚の銀貨を示されます。「この肖像と銘は誰のものか。」「皇帝のものです。」すると主は言われます。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」主イエスは納税論に答えられたのではありません。問いそのものを変えられたのです。聖書は、人は神のかたち、創世記2:7「像」と書かれています。一方で、銀貨には皇帝の「像」が刻まれています。経緯は短くしますが、「ローマ皇帝」に近しいヘロデ派の人々は自身の務めに、ファリサイ派の人々は「神に向き合う」ことを促すのです。
③ けれども、この言葉を聞いていた宗教者たちは、それを受け止めることができませんでした。彼らはみ言葉を知っていました。律法を愛していました。しかし、その律法が指し示している神ご自身を見ることができなくなっていました。見ていたものは、み言葉を伝える主イエスを貶めることでした。本来、み言葉は人を神へ導くものです。しかし、ファリサイ派にとっては、み言葉が人を裁く道具となり、人をふるい分ける基準となってしまったのです。これは、他人事ではありません。聖書を知りながらも、神ご自身より、自分の考えや経験を正当化してしまうことがあります。み言葉を聞いているつもりで、実は自分の声だけを聞いていることがあります。しかし主イエスは言います。「あなたは神のもの」。今日、主イエスは私たちを神のもとへ立ち返らせようとしています。
④ では、「神のものを神に返す」とは、どういうことでしょうか。立派になった自分を神に差し出すことでしょうか。失敗しない人生を献げることでしょうか。そうではありません。私たちは神のものとして造られながら、そのようには生きられません。神よりも自分を頼り、人の評価を恐れ、失敗を抱え込み、不安や失望を胸にしまい込んでしまいます。けれども聖書は、そのような私たちに語ります。詩編では、人々は涙も嘆きも、そのまま神の前に持って行きました。ペトロも、「あなたがたの思い煩いを、いっさい神に委ねなさい。神があなたがたのことを心にかけていてくださるからです」と語ります。神のものを神に返すとは、自分一人で抱え続けることではありません。私たち自身も、そして私たちが抱えている重荷もまた、神の前へ持って行ってよいのではないでしょうか。
⑤ だからこそ、主イエス・キリストは来てくださいました。神のものとして造られながら、神から離れてしまった私たちを、もう一度神のもとへ帰らせるためです。十字架の上で、主は私たちの罪だけでなく、私たちが抱えきれない重荷までも引き受けてくださいました。復活によって、神はなお私たちを御自分のものとして生かしてくださることを示されました。私たちは、自分の愛の大きさによって神に受け入れられるのではありません。神の愛の大きさによって生かされています。だから私たちは、まず愛されている者として歩み始めます。神を愛することも、隣人を愛することも、その歩みの中で主が育ててくださる実りです。主イエスの招きに支えられて、新しい日を生きるのです。





































