7/7(火) 徳山礼拝所の朝。
7/5(日) には、昨年ご召天になられた方の、召天一年記念会が行われました。
こちらはプランターの花。雨は一段落でしょうか。
7/4(土)柳井礼拝所。
この日誕生日を迎えられる方のお祝いがなされました。
その方は詩編23編を暗記、朗唱なさいました。
今週以降の行事は、以下のとおりです。
いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。
7/8 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝
7/11 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝
15時30分 防府チャペル 礼拝
7/15 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝
7/18 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
7/19 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び
10時45分 徳山チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
7/5(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。
聖霊降臨後第4主日 説教
マタイ福音書11章25節-30節 「神はあなたの重荷を」
水原一郎
① マタイ福音書11章25節で、主イエスはまず祈られます。「父よ、あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠し、幼子のようなものにお示しになりました」と。「疲れた者」を安らぎへと招く主イエスのお言葉は、この祈りから始まります。ここには対比があります。「知恵ある者」とは、自分で理解し、自分で立ち、自分で義とされようとする者です。「幼子」とは、ただ受けるしかない者です。マタイ福音書の言葉で言えば「天の国」つまり神さまのお支えというものは、自分の能力や、宗教的な達成によって示されるものではありません。「空っぽの手」何もない者に、与えられるのです。
② 続いて主イエスは言われます。27節「全てのことは、父からわたしに任せられています。父を知るのは子のほかになく、子を知るのは父と、子が示そうとする者のほかにはない。」ここに、安らぎとは主イエスを知るということによって始まるのだという考えがあります。「神さまを知る」道とは、何かの思想を深めること、聖書を良く学び、努力すること、宗教的な功績を積むことではありません。主イエスが人々に手を伸べられる、そのことのゆえに「人生の重荷」は一人で担うものではない。その主イエスとの結びつきの中にあります。だから主イエスは続けて言われます。「私のもとに来なさい」と。
③ 私たちはこの招きを聞く時、まず仕事や病気、人間関係の悩みを思い浮かべます。かつて主イエスは「病気、煩い、弱り果てる人々、打ちひしがれる人々」を「見られた」のです。だから、この招きは、私たちと主イエスとを確かに結ぶと言えます。しかし主イエスはさらに深い重荷をご覧になっています。それは、自分で自分を支え、自分で自分を義としようとする重荷です。良い信仰者でなければならない。強くあらねばならない。失敗してはならない。そのような思いの中で、私たちは神の前でさえ自分を証明しようとします。しかしその自己義認の重荷こそが、人を最も疲れさせるのです。
④ 先日、私(水原)は高齢の父と会いました。かつて私を教え、導き、支えてくれた父も老いの中にあります。そして私自身も、父を支えたいと思いながら、そのすべてを支えることはできないことを知らされました。その時改めて思わされたのです。人は最後まで支える側でいることはできません。私たち自身もまた、誰かに支えられなければ生きていけない者なのです。主イエスが語られる「幼子」とは、そのような存在ではないでしょうか。だから主は「わたしの軛を負いなさい」と言われます。軛とは二頭を結ぶ道具です。主は私たちを一人で歩ませず、ご自身が共に重荷を負ってくださるのです。
⑤ 宗教改革者ルターは、私たちの罪と無力をキリストが引き受け、キリストの義を私たちに与えてくださることを「喜ばしい交換」と呼びました。私たちは成果によってではなく、信仰によって義とされます。では主のもとで休むとは何か、どういうことでしょうか。それは「何もしないこと」ではありません。祈りの中で、「自分の失敗や不実」を隠さず差し出すことです。御言葉の前で、自分の正しさを手放すことです。今日、私たちは聖餐を受けます。あるいは祝福の言葉を聞きます。そこで私たちはキリストご自身を受け取ります。そして幼子のように、支えられて生きる者とされるのです。「わたしがあなたを休ませてあげよう」。日常生活の中では、私たちは現実的に誰かを支えようとします。しかし今日は、主イエスは私たちを支えようとしていることを受け取るのです。努力の果てにではなく、恵みの中で。これが主が約束される真の安らぎです。




































