この辻が、阪神線や上の方から、そして自動車で来られる方をお迎えすることが良いと気付きました。しかし薄曇りの朝の夙川沿い。なぜか、とてもかゆくなりました。
今週以降の行事は、以下のとおりです。
いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。
7/22 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝
7/25 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝
15時30分 防府チャペル 礼拝
7/29 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝
8/1 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
8/2 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び
10時45分 徳山チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
7/19(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。
聖霊降臨後第6主日 説教
マタイ福音書13章24節-30節 「刈り入れの時まで」
水原一郎
① 主イエスは言われました。「ある人が良い種を畑に蒔いた」と。ところが夜のうちに敵が来て毒麦を蒔きます。蒔いた当初は分かりません。成長の後、良い麦の中に異質なものが混じっていることが明らかになります。神が始められたはずなのに、なぜこの現実があるのか。祈っているのに状況が変わらない。誠実に生きようとしても摩擦が生まれる。教会も社会も、どこかでひずみを抱えている。「主よ、あなたは良い種を蒔かれたのではなかったのですか。」この問いは、信仰の弱さから出るのではありません。むしろ、私たちが神を信じているからこそ出てくる問いなのです。
② 主人は言います。「敵の仕業だ」と。予想せず、考えもしなかったけれども、事実は事実として私たちの前に広がるのです。悪は決して、おとぎ話ではありません。現実は、神さまの約束や愛、恵みを疑わせるのです。神さまへの信頼を揺さぶるのです。そして、分断を生み出す力として働いているのです。それは外側の現象としてだけでなく、私たちの内面にも触れます。怒り、自己正当化、他者への軽蔑、あきらめ。気づけば私たち自身の中にも、毒麦の芽が見える。だからこのたとえは、悪い「誰か」を裁く話ではありません。畑は世界であり、同時に私自身でもあるのです。
③ そこで僕たちは言います。「抜き取りましょうか。」悪を排除したい。純粋でありたい。教会を清く保ちたい。あるいは、自分の中の弱さや罪を徹底的に断ち切りたい。しかし、私たちは自分の中にある毒麦には、なかなか気づきません。毒麦というと、大きな罪や明らかな悪を思い浮かべるかもしれません。しかし実際には、日々の小さなところに、その芽を見ることがあります。私たちは、余裕がある時には気づかない自分の姿を、疲れの中で知らされることがあります。最近は本当に暑いですね。暑さが続き、疲れが重なる時、普段なら受け流せる一言に心が乱れ、身近な人に強い言葉を返してしまうことがあります。その時は、「暑さ」が私を罪にしたのではありません。「暑さ」によって、もともと自分の中にあったものが現れたのです。私たちは、自分の中には良いものだけが育っていると思いたい。しかし、疲れの中で、私たちの中にも毒麦の芽があることに気づかされるのです。けれど主は言われます。「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。」最終的な仕分けは、神にお委ねするのです。
④ なぜなら、約束があります。刈り入れの時が来る。そのとき主人自らが分ける。悪は永遠ではありません。混乱も、涙も、誤解も、最終的な現実ではない。ここで決定的な福音が響きます。良い種を蒔いたのは主人です。そしてその主人は、十字架にかかられたキリストです。キリストは、罪ある人々に囲まれた世界のただ中で、裏切りや拒絶を受けながら、私たちの罪の裁きをご自身に引き受けられました。だからあなたの罪や不完全さが、あなたの人生を定めるものではありません。十字架が最後の言葉を持つのです。神が蒔き、神が守り、神が集める。救いは最初から最後まで神の業です。
⑤ だから今、私たちは混在の中で生きます。自分の弱さを知りながら、なお絶望しません。なぜなら畑の最終責任者は神だからです。敵が夜に働いても、主人は畑を見失っていない。あなたが自分に失望しているときにも、神はあなたを見失っていないのです。主は、毒麦を抱えた私たちを、御子のゆえに赦し、なお良い麦として受け入れてくださいます。この確かな福音の中で、私たちは今日も生かされているのです。


































