2026年10月27日火曜日

10/21 六日市の柿の木、10/22西宮教会、10/24柳井、10/25防府、10/27徳山

 10/21(水)六日市の柿の木。この木はどうやら「裏年」のようです。

2025年の12月10日、このブログに投稿した同じ柿の木は、鈴なりでした。

10/22(木)西宮教会の玄関。
玄関や周囲は丁寧に掃かれていました。
10/24(土)柳井教会の聖壇。
宗教改革主日の礼拝。
10/25(日)防府礼拝所の聖壇。
赤が映えます。
10/25(日)防府礼拝所の集会室。
この書を書かれた方が今年、神さまのみもとに召天されました。
101歳でした。
10/27(火)徳山礼拝所の朝。
台風一過の朝、聖壇が照らされています。


今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


10/28 水曜日 17時 六日市チャペル  

10/31 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝 

11/1 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル 礼拝

       15時30分 防府チャペル 礼拝

11/4 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝 

11/7 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

11/8 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

10/25(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 


宗教改革主日 説教 

マタイ福音書22章34節-40節 「まず、愛されている者」

水原一郎

① 主イエスは、この日もファリサイ派から問いを受けられます。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」この問いは、突然生まれたものではありません。直前、主イエスはサドカイ派との論争で、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」と語られ、人々を驚かせました。その姿を見たファリサイ派が問う律法の中心にも、主イエスを試そうとする思いが隠れていました。けれど主は、その思いに応じるのではなく、律法の中心を示します。「あなたの神である主を愛しなさい。」「隣人を自分のように愛しなさい。」律法全体は、この二つにかかっていると言われたのです。


② しかし、この主イエスの答えは、新しい教えではありません。「神を愛しなさい」は申命記六章、「隣人を愛しなさい」はレビ記十九章からの引用です。そして、この二つの言葉には共通する前提があります。それは、神がまず民を赦し、愛してくださったということです。申命記で十戒が「改めて」語られたのは、金の子牛を造るという大きな罪の後でした。神は契約を破った民を見捨てず、もう一度契約を結び直してくださいました。レビ記でも同じです。神が御自分の民として受け入れてくださった、その恵みの上で「愛しなさい」と語られます。旧約聖書の中で、「戒め」というものは、「神の愛」の宣言の後に置かれています。命令は、それ自体ではなく、赦しから始まるのです。


③ ところが、人はこの大切な前提を忘れてしまいます。ファリサイ派は律法を愛していました。しかし、律法そのものが大きくなり、その律法を与えてくださった神が見えなくなってしまいました。「愛しなさい」という言葉だけが残り、「まず神が愛してくださった」という福音が薄れてしまったのです。宗教改革者ルターも若い頃、まさにここで苦しみました。修道院の生活で、「神を愛しなさい」と命じられるのです。でも、自分には神を愛する心がない。ルターは聖書を読み続ける中で、ある時気づきます。神は、私が愛する前に、すでに私を愛してくださっていた。その福音が、宗教改革の土台でした。


④ 私たちも同じではないでしょうか。「もっと信仰深くならなければならない。」そう思えば思うほど、自分のできなさに目が向きます。そして、「こんな自分では神に近づけない」と感じることがあります。しかし、そのような私たちに、主イエスは今日も語っておられます。神は、人を愛せない心も、失望も、不安も、重荷も、そのまま神の前へ持って来なさい、と招いておられるのです。それが、マルチン・ルターが見出したことと重なります。ルターが強調したことは、『もっと神を、主イエスを愛しなさい』という教えではありません。その前にある、『神があなたを愛してくださった』という福音です。その福音のために、ルターは何度でも、厳しい状況の中で立ち上がることが出来たのです。


⑤ 主イエス・キリストは私たちのために来てくださいました。そして、十字架において私たちの罪を引き受けてくださいました。そして復活によって、神の愛は私たちの弱さや罪によって終わるものではないことを示してくださいました。だから今日、私たちは、神に愛されている者として歩む思いを新たにしたいと思うのです。「愛されている」という恵みの中で、神を愛し、隣人を愛する歩みが少しずつ整えられてゆくのです。今日は、宗教改革主日となっています。この日、私たちはもう一度、「愛されている」という福音に立ち返るための日です。私たちが神を愛する前に、神が私たちを愛してくださった。その恵みに支えられて、新しい一週間へ遣わされて行く群れでありましょう。

 

2026年10月21日水曜日

10/14鹿野パーキングエリア、10/17柳井、10/20麻里布製油所、とことこトレイン

 

 10/20(火)一粒の麦「日帰り旅行」で、錦町の「とことこトレイン」に乗りました。

 ブラックライトで照らされるトレイン内、フラッシュを炊かないのが正解。

 10/20(火)炊くと、このような状態。なんだか怖いですね。
 これも炊いたもの。
 10/20(火)戦中、1943年創業の麻里布製油所。

 奥には、大型タンカーではなく中型タンカー。原油が積載されていますが、

 これでも30万トンクラスとか。遠洋は60マントン。


 10/17(土)柳井礼拝所。

 夕方の柳井礼拝所を撮りたかったのです。

 10/15(木)関係者の「水墨画」「羊毛フェルト」展を鑑賞に、

 室積に教会員8名と出かけてきました。

 写真は、個展会場の近隣の方が下さった「クロねこ」壁掛け。

 10/14(水)六日市のコスモス
 10/14(水)上りの鹿野パーキングエリア。

 午前中は防府で除草作業し、防府→徳地→鹿野→六日市と移動しました。

 秋の風が心地よい午後。


今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


10/21 水曜日 17時 六日市チャペル  

10/24 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝 

10/25 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル 礼拝

       15時30分 防府チャペル 礼拝

10/28 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝 

10/31 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

11/1 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

10/18(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 


聖霊降臨後第21主日 説教 

マタイ福音書22章15節-22節 「私は、誰のもの?」

水原一郎

① 主イエスは、ファリサイ派とヘロデ派の人々から問いを受けられます。「皇帝に税を納めることは、律法にかなっているでしょうか。」しかし、この問いは、真理を求める問いではありませんでした。どちらと答えても主イエスを訴えることができるように仕組まれた罠でした。本来なら交わることのない人々が、この時だけは手を組みます。人を倒すためには一致できる。それほどまでに、彼らの心から神は見えなくなっていました。議論の中心にあるのは税金でも皇帝でもありません。神が不在になっていたのです。


② 主イエスは一枚の銀貨を示されます。「この肖像と銘は誰のものか。」「皇帝のものです。」すると主は言われます。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」主イエスは納税論に答えられたのではありません。問いそのものを変えられたのです。聖書は、人は神のかたち、創世記2:7「像」と書かれています。一方で、銀貨には皇帝の「像」が刻まれています。経緯は短くしますが、「ローマ皇帝」に近しいヘロデ派の人々は自身の務めに、ファリサイ派の人々は「神に向き合う」ことを促すのです。


③ けれども、この言葉を聞いていた宗教者たちは、それを受け止めることができませんでした。彼らはみ言葉を知っていました。律法を愛していました。しかし、その律法が指し示している神ご自身を見ることができなくなっていました。見ていたものは、み言葉を伝える主イエスを貶めることでした。本来、み言葉は人を神へ導くものです。しかし、ファリサイ派にとっては、み言葉が人を裁く道具となり、人をふるい分ける基準となってしまったのです。これは、他人事ではありません。聖書を知りながらも、神ご自身より、自分の考えや経験を正当化してしまうことがあります。み言葉を聞いているつもりで、実は自分の声だけを聞いていることがあります。しかし主イエスは言います。「あなたは神のもの」。今日、主イエスは私たちを神のもとへ立ち返らせようとしています。


④ では、「神のものを神に返す」とは、どういうことでしょうか。立派になった自分を神に差し出すことでしょうか。失敗しない人生を献げることでしょうか。そうではありません。私たちは神のものとして造られながら、そのようには生きられません。神よりも自分を頼り、人の評価を恐れ、失敗を抱え込み、不安や失望を胸にしまい込んでしまいます。けれども聖書は、そのような私たちに語ります。詩編では、人々は涙も嘆きも、そのまま神の前に持って行きました。ペトロも、「あなたがたの思い煩いを、いっさい神に委ねなさい。神があなたがたのことを心にかけていてくださるからです」と語ります。神のものを神に返すとは、自分一人で抱え続けることではありません。私たち自身も、そして私たちが抱えている重荷もまた、神の前へ持って行ってよいのではないでしょうか。


⑤ だからこそ、主イエス・キリストは来てくださいました。神のものとして造られながら、神から離れてしまった私たちを、もう一度神のもとへ帰らせるためです。十字架の上で、主は私たちの罪だけでなく、私たちが抱えきれない重荷までも引き受けてくださいました。復活によって、神はなお私たちを御自分のものとして生かしてくださることを示されました。私たちは、自分の愛の大きさによって神に受け入れられるのではありません。神の愛の大きさによって生かされています。だから私たちは、まず愛されている者として歩み始めます。神を愛することも、隣人を愛することも、その歩みの中で主が育ててくださる実りです。主イエスの招きに支えられて、新しい日を生きるのです。


2026年10月13日火曜日

10/10柳井、10/11防府、10/12徳佐、10/13徳山

 

 10/13(火)徳山は今(15:12現在)小雨が降っています。

 しかし徳山の礼拝堂は、採光がよく考えられています。

 10/12(月・祝)徳佐というところのリンゴ園に出かけてきました。

 今は「ふじ」と「名月」を頂きました。

 10/11(日)防府礼拝所。

 天候次第ですが、今週はもう一度防府に出かけます。10月の外作業のため。

 10/10(土)柳井礼拝所。

 近隣の引退教職の牧師、また少々遠方にお住いの教会員が集われました。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


10/14水曜日 17時 六日市チャペル  

10/17 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝 

10/18 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル 礼拝

       15時30分 防府チャペル 礼拝

10/21 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝 

10/24 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

10/25 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

10/11(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 

聖霊降臨後第20主日 説教 

マタイ福音書22章1節-14節 「用意十分」

水原一郎

① 主イエスは「王子の婚宴のたとえ」を語られました。王は突然、思いついたように人々を呼び集めたのではありません。婚宴の準備を整え、食事を用意し、僕たちを遣わして招きました。ここには前章のぶどう園のたとえと同じ神のお姿があります。ぶどう園も主人が丁寧に造りました。婚宴も王が心を尽くして備えました。どちらも、神の備えから始まっています。しかし招かれた人々は、それぞれの理由で招きを退けました。畑へ行く者、商売へ向かう者、さらには王の僕たちを捕らえ、辱め、殺す者まで現れます。神は備えて下さいました。しかし、人はその招きを受け取ろうとしないのです。


② 前章でもここでも、人々は主人の僕を殺しました。そこには、かつて殺害された預言者たち、そして十字架へ向かわれる主イエスご自身のお姿が重ねられています。そして今回は、「殺害」に対する王の怒りが語られます。「軍隊を送り、その人殺したちを滅ぼし、その町を焼き払った」とあります。この言葉は厳しく聞こえます。話の聞き手が「祭司長」であることを念頭に置いています。主イエスは彼らに、「厳しい旧約聖書の神」を語るのです。ここまでは「怒りの神」です。しかし、ここからが「愛の神」です。王は、婚宴の喜びの食卓を中止しません。招きを取り消しません。「出会う者を皆招いて来なさい」と僕たちを送り続けます。神は、当初招いた人々から断られても、救いの御業をやめられる方ではありません。裁きの後にもなお、招きを続けられる方なのです。


③ 私自身の歩みを振り返ってみても、後になって初めて「神が備えて下さった」と思えることがいくつもあります。その時は無我夢中ですし、後先も考えられません。自分に務まるのだろうかという不安しかありませんでした。しかし振り返ると、その務めの中でしか出会えなかった方々がおられ、その時にこそ、学べたことがありました。婚宴も同じです。王は人を招き、神の前に立つため必要なものまでも備えてくださるのです。


④ 「神の備え」は、続く話に書かれています。王は、婚宴の場で礼服を着ていない人を一人見出しました。ここで断っておくことは、突然招かれた人が、礼服など持っているはずがありません。当時は、このような客のために主人が礼服を用意したと言われます。受付において、自分のための貸衣装を受け取るようなものです。つまり、この人は礼服を持っていなかったのではなく、備えられていた礼服を受けなかったのです。私たちもまた、神が備えてくださる恵みより、自分の力や経験、自分の正しさに頼ろうとするときがあります。しかし神は、私たちが自分で救いを整えることを求めておられるのではありません。神が備えてくださったものを、信頼して受け取るよう招くのです。


⑤ 最後に主イエスは、「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」と語られます。この言葉を聞くと、不安になる人もいるでしょう。しかし、このたとえ全体が語ることは、神の招き、また神の備えということなのです。話では、婚宴も、招きも、僕たちも、礼服も、すべて神が備えてくださいました。そして、その備えの中心におられるのが、十字架と復活を経て下さったキリストです。私たちに与えられる礼服とは、自分の正しさではありません。キリストご自身です。だから私たちは、自分が十分な者になってから神のもとへ行くのではありません。不安がなくなってから歩き始めるのでもありません。私たちの中身はそのままでも、「キリストを着て」歩むのです。 すべてを備えてくださる主が、今日も私たちを「さあ、すべて用意ができています」と招いておられるからです。





2026年10月6日火曜日

10/1徳山のヤモリ、9/30六日市コスモス、10/3柳井、10/4徳山記念会、10/4防府

 10/1ごろ撮ったヤモリ。もうすぐ暖かい場所に移動するのでしょう。
 9/30(水)六日市のコスモス。

 言うことが無いほど綺麗な秋の花。

 10/3(土)柳井礼拝堂。
 10/4(日)徳山礼拝堂。

 この日は礼拝後、記念会が行われました。

 10/4(日)防府礼拝堂。

 月に一度の聖餐式。来られない方々をも祈りに覚え、礼拝が行われました。
 

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


10/7 水曜日 17時 六日市チャペル  

10/10 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝 

10/11 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル 礼拝

       15時30分 防府チャペル 礼拝

10/14 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝 

10/17 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

10/18 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

10/4(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 


聖霊降臨後第19主日 説教 

マタイ福音書21章33節-44節 「神はあきらめない」

水原一郎

① 主イエスは、ぶどう園のたとえを語られました。主人は、土地を貸しただけではありません。垣を巡らし、絞り場(酒ぶね)を掘り、見張りの塔を建て、ぶどう園を整えました。整えられたぶどう園として、農夫たちに渡されたのです。この姿は、イザヤ書五章の「ぶどう畑の歌」を思い起こさせます。神は、御自分の民を愛し、整え、豊かな実りを願いました。このぶどう園のたとえ話は、「祭司長、長老たち(マタイ21:23)」に向けられていると考えています。ここで主イエスは、神の備えを彼らに向けて語ります。そして、託された場所の中で「実り」を収穫することを、彼ら祭司長たちに求めるのです。


② ここでいう「実り」とは、神から預けられたユダヤの人々を、み言葉によって導き、その心を支えることになります。しかし、「祭司長、長老たち」の生き方はどうだったか。それが、ぶどう園を任された農夫たちの姿に現されます。農夫たちは、主人の思いを受け止めませんでした。収穫の時、主人が遣わした僕を捕まえ、殺しました。これは、直近では「洗礼者ヨハネ(21:25)」をたとえで現わしています。しかし主人は、農夫たちを「あきらめない」のです。主人は一人息子を送ります。「わたしの息子なら敬ってくれるだろう。」この一言には、なお人を信じようとする神の願いが込められています。しかし農夫たちは、その息子まで園の外へ追い出し、殺してしまいました。主イエスは、このたとえによって、ご自分が十字架へ向かわれることを語っておられるのです。


③ 主イエスは続けて、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」と語られます。元々は詩編の言葉ですが、主イエスはこの詩編をご自身に当てはめられます。先にたとえで主イエスは、「祭司長、長老たち」によって自分は「退けられる」ことになると言われました。しかし詩編では、人が捨てた石を、神は建物全体を支える土台とされたと語ります。主イエスは、彼ら祭司長たちに替わり、ご自身の十字架と復活によって、全ての人をみ言葉によって養い、ご自分のもとへと招かれるのです。


④ 元々はこの話は、「祭司長、長老」に向けられていました。たとえ話で、ぶどう園の農夫たちに求められたのは、ぶどうを収穫し、主人に返すことでした。季節が廻り来て、収穫されたぶどうに向かい合うこと。日ごとに収穫し、それを絞り、ぶどう酒にすること。目の前のお世話に、働きに、心を向けることなのです。これは、私たちとの接点が無いわけではありません。「神から託されたものを、どのように向き合っているか」という点です。私たちには、み言葉が託されています。また、それぞれの務めや、家族、友人、教会の仲間など、隣人との関わりも託されています。私たちにとって、託された人に心を向け、その声を聴き、必要なときに支えることは、神の恵みに応える実りの一つです。


⑤ しかし、私たちは「目の前のお世話」に十分に取り組めないことがあります。隣人の声を聴きそこない、神の招きに振り向けないことがあるのです。ちょうど、たとえ話の中で農夫たちが主人の「僕たち」の声に耳を傾けなかったようなことが、残念なことに起きてしまうのです。それでも神は、拒まれた「一人息子」を、私たちの心に据える「親石」として下さいました。そして今、御子の十字架と復活を通して、私たちの心には確かにこの「親石」が与えられているのです。主イエスが、今も教会を支え、私たちを神のもとへ招き、隣人に心を向ける者として遣わしてくださいます。み言葉に支えられ、託された人々を大切にしながら、新しい一週間を歩んでまいりましょう。


2026年9月29日火曜日

9/23ソレーネ周南の夜市川、9/26雨の柳井、9/27防府のカランコエ、9/29徳山でもカランコエ

 


9/26(土)雨の柳井教会。どこであっても、穏やかに降って欲しいものです。

9/29(火)左下には、「カランコエ」の献花。この後、牧師室に移動しました。
9/27(日)防府教会の献花。こちらもカランコエ。

9/23(祝・水)周南と防府のほぼ中間地点、「ソレーネ周南」には、親水公園があります。

なにか堤防のようなものを作成している最中。

奥では、メダカのようなものを採取している最中。

ちなみに「やじがわ」夜市川。


今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


9/30 水曜日 17時 六日市チャペル  

10/3 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝 

10/4 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル 礼拝

       15時30分 防府チャペル 礼拝

10/7 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝 

10/10 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

10/11 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

9/27(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 


聖霊降臨後第18主日 説教 

マタイ福音書21章23節-32節 「遅れても、主のもとへ」

水原一郎

① 主イエスが神殿で教えておられると、祭司長や長老たちが近づいてきて言います。「何の権威で、このようなことをしているのか」。これは、直前に主イエスが神殿において行われた「宮清め」への問いでした。神殿のあり方にまで手を入れる。いったい、あなたは何者か。誰から権威を与えられたのか。彼らは主イエスに答えを求めます。


② しかし、主イエスはすぐには答えられません。代わりに、「ヨハネの洗礼は、何の権威か」と問い返されます。すると彼らは、議論を始めます。「天から」と言えば、なぜヨハネを信じなかったのかと問われる。「人から」と言えば、民衆が怖い。そこで最後には、「分からない」と答えます。でも、本当に分からなかったのでしょうか。そうではありません。何が正しいかよりも、自分がどう見られるか、自分の立場がどうなるかを先に考えていたのです。だから彼らは、「分からない」と言って、答えることを避けました。


③ そこで主イエスは、一つのたとえを語られます。父が二人の息子に言います。「今日はぶどう園に行って働きなさい」。兄は「いやです」と答えながらも、出かけました。弟は「承知しました」と答えながら、出かけません。私たちはここでも、先ほどの祭司長たちの姿を思い出します。祭司長たちは、「分からない」と言って、答えません。たとえ話では、弟は「分かりました」と言って、行動しません。言葉、返事は違っていても、どちらにも、自分を守るために神の呼びかけから距離を置いてしまう人間の姿があります。


④ そして主イエスは、徴税人や娼婦たちが、先に神の国に入っていくと言われます。当時の社会では、彼らは「立派ではない人」と見られていました。しかし、主イエスは、人をそのような評価だけで見ておられません。徴税人や娼婦の中にも、ヨハネの言葉を聞いて、悔い改めた人がいた。そのことを主イエスは見ておられます。一方、祭司長や長老たちは、ヨハネの言葉を聞いても、自分たちの立場を変えませんでした。ここには、前半の話と同じ人間の姿があります。何が正しいかだけではなく、自分の立場や対面を考えてしまう。けれども、神の言葉は、そこにとどまっている人を、もう一度動かされるのです。遅れてもいい。頂いた言葉によって、向きを変えることができるのです。


⑤ 私たちもまた、いろいろなものの中で生きています。社会の決まりや、人との関係や、自分の立場があります。特に「立場」は私たちを、「自分はこういう人間だ」「今さら変わることはできない」と諦めさせることがあります。祭司長や長老たちの「分からない」も、そうだったのではないでしょうか。本当に分からなかったのではなく、分かってしまえば、自分の立場を変えなければならなかった。だから、そこで立ち止まったのです。しかし、人は変わることができます。「嫌です」と言った息子が、後になって出かけたように、私たちは途中で向きを変えることができます。そのために神は、すでに私たちに御言葉を与えてくださっています。そして私たちは今日、その御言葉を聞くために、ここにいます。礼拝とは、立派になった人が来る場所ではありません。自分の歩みをそのまま抱えたまま、主の言葉を聞く場所です。ここで聞いた御言葉によって、「もう遅い」と諦めていた心が、もう一度主の方へ向けられる。昨日までと同じ場所に立っていても、向きを変えることはできる。だから、今日ここにいることを、私たちの歩みの一つのはじまりとしたいのです。遅れてもいい。最初の答えが「いやです」でもいい。主の言葉を聞いて、もう一度、主のもとへ向かう。その道の始まりが、今日という日です。






 

2026年9月24日木曜日

9/16六日市コスモス、県境、9/19柳井、9/20防府、9/21徳山

 9/16(水)六日市に咲いたコスモス。今度は季節順当のコスモスです。
 9/23(水・休)の礼拝は家庭礼拝となったため、六日市が多めの写真です。

 これは県境の史跡、奥に続く道。

 県境史跡。山口県と島根県の県境。

 やぶ蚊がいなくなった頃、もう一度。

 9/19(土)柳井礼拝所。

 こちらもジンジャーの献花。香りが広がりますね。

9/20(日)防府礼拝所。

やさしいピンクの献花でした。


 9/21(月)徳山礼拝所の朝。

そとは曇りでしたが、この礼拝堂はいつも、外の採光が十分に生きる形をとっています。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


9/23 水曜日 17時 六日市チャペル 家庭礼拝 

9/26 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝 

9/27 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル 礼拝

       15時30分 防府チャペル 礼拝

9/30 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝 

10/3 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

10/4 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

9/20(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 


聖霊降臨後第17主日 説教 

マタイ福音書20章1節-16節 「友よ」

水原一郎

① 山口県の仁保(にほ)、須金(すがね)、日積(ひづみ)は、ぶどうの産地です。それぞれに味わいが違います。8月から10月までが収穫のシーズンです。山口県のぶどうと、ユダヤのぶどう。収穫の時期が同じとするならば、労働は比較的涼しい朝から日中、夕方まで行われます。本日の譬えを読むと、私たちは朝から働いた労働者に共感します。朝早くから暑い中で働いた。ところが夕方から来た人も同じ一デナリオン。「それはおかしいではないか」。私はそう思います。労働環境や時間が全く異なるからです。むしろ文句を言わない方がおかしいと感じます。しかし主イエスは、この譬えを通し私たちの心を見つめます。私たちはこの話のどこに、違和感を覚えますか?


② 働いていた同労者が、違和感、つまり怒りを覚えたのはどこでしょうか? 問題は、「評価」としての賃金でした。「自分たちは長く働いた」「しかし、夕方の連中の評価と自分たちのが同じとは」。評価が同じということが許せないのです。その瞬間、この例えは労働の話ではなくなります。「異なる背景の中で、神は等しく恵まれる」それを示すこの例えは誰に語られたのでしょうか。マタイ19章3節からの話の流れにあるとすれば、「ファリサイ派」の人々がこの場所にいたと思われます。彼らは自分たちこそが、神のみ言葉を「伝統」に則って守り続け、教えていたという心がありました。「伝統を守る」それはそれで大切なことです。ただ問題は、「罪びとや徴税人」と言った人々を下に見ていたことでした。神の恵みが及ばない人々と見ていたことだったのです。


③ 更に言えば、主イエスは賃金という「評価」を通し、主人である神の姿を示します。神が最後の者を受け入れ、憐れみを示し、気前の良さを示したことです。マタイ福音書の中で、主イエスの教えは重なります。徴税人マタイが招かれる。罪人が主イエスと食卓を囲む。子どもたちが主のもとへ集められる。それを見て人々は眉をひそめる。しかし神は受け入れられる。神の気前の良さと、人のねたみ。対比がここにあります。


④ 朝から長時間働いた人々は、誰を示すのでしょうか。それは明記されていません。一方で夕方五時から来た労働者は誰でしょうか。それは、主イエスの時代に生きる全ての人々であり、また私たちです。しかし不思議なことがあります。本当は五時から来た労働者である「ファリサイ派」の人々が、気づけば朝から働いた労働者の顔をしているのです。「あの人よりは自分の方が」「自分の方が長く仕えてきた」「自分の方が苦労した」。そしてそれは私たちも同じかもしれません。私たちはいつの間にか、自分の働きを数え始めます。そしていつしか、他者の存在や働きを低きに見るのです。


⑤ だから主イエスは、この譬えを語られます。私たちを責めるためではありません。自分の働きを数え、人と比べ、自分の正しさを主張してしまう私たちに、「あなたは既に受けている」と知らせるためです。私たちは、自分の働きによって神の前に立とうとします。しかし主イエスは、そのような私たちを見捨てず、私たちのために十字架へ向かわれました。主イエスの十字架とは、どのような場所でしょうか。神を愛しきれず、隣人を愛しきれない私たちを、それでも主イエスが愛してくださった場所です。だから主は今日も私たちに言われます。「友よ。」見放す言葉でも、裁く言葉でもありません。自分の功績ではなく、主の恵みによって生かされていることを思い起こさせる言葉です。その恵みにより、私たちは人と比べることから解放され、隣人と共に歩むのです。



2026年9月15日火曜日

9/9「山賊」という店(傍示支店/錦店)、9/12柳井、9/13防府、9/15徳山

 

 9/15(火)徳山チャペル礼拝堂。

 献花は「ジンジャー」の花。

 この花も強い香りです。礼拝堂全体に満ち満ちています。

 9/13(日)防府チャペル。

 腎臓がんと血栓の治療を終えた方と、礼拝を共にする恵みがありました。


 9/12(土)柳井チャペル。

 けいとうの花が秋らしさを感じさせます。


 9/9(水)六日市礼拝前の立ち寄り。

 8/31に営業を終えた「山賊」というお店に立ち寄りました。

 大きな具沢山おむすびと、焼き鶏もも肉が名物でした。

 もう10年近くも入店していませんが、懐かしい思い出がよぎります。

 この看板には「山賊 傍示支店」とあります。しかし公式サイトでは「錦店」。

 「傍示」とは、この店がある峠の名前なのです。


今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


9/16 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝 

9/19 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝 

9/20 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル 礼拝

       15時30分 防府チャペル 礼拝

9/23 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝 家庭礼拝の予定です。

9/26 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

9/27 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

9/13(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 


聖霊降臨後第16主日 説教 

マタイ福音書18章21節-35節 「一万タラントンの赦し」

水原一郎

① 本日の箇所を読むと、多くの人は「赦しの話」と思うでしょう。ペトロもそうでした。「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」。しかし、この問いを聞いた瞬間、私たちは別のことにも気づきます。私たちは赦せないのです。家族へのわだかまり。友人とのすれ違い。何年経っても忘れられない言葉や出来事があります。「赦しなさい」と言われるとき、私たちは限界に突き当たります。


② ペトロも、その限界を感じていたのでしょう。「七回までですか」と尋ねました。七という数字は「一つの区切り(創世記:天地創造)」という意味があります。つまりペトロは、「これだけ赦せば、言い換えれば、我慢すれば良いのではないか」と考えたのかもしれません。しかし主イエスは言われます。「七回どころか七の七十倍まで」。主イエスは、数えることが難しいほどの数を示すことで、数えることをやめよ、と言われます。赦しに上限を設けようとするペトロの考えを覆します。そしてここで気づかされます。このような赦しは、本来は、人間に属するものではありません。神に属するものです。


③ そこで主イエスは、一人の家来のたとえを語られました。その家来は王に一万タラントンの借金をしていました。現在の金額に換算することは難しいですが、当時の感覚では、一個人が返済できる額ではありません。何千年分もの労働賃金に相当する、とてつもない負債です。つまり問題は、「どう返すか」ではありません。返せないのです。家来は、そのような借金を前に、何も言えません。「返済できない」という現実だけがあるのです。ところが王は、その借金を免除します。しかし本来、借金は誰かが負担しなければ消えません。王はその損失を自ら引き受けました。家来が負うべき重荷を、自分で背負ったのです。それは後に十字架で明らかになる主イエスの姿を思わせます。ここで主イエスは、人は赦せない。けれども、神は赦してくださる、と語るのです。


④ ところが、その家来は仲間に会います。仲間の借金は百デナリオンでした。決して小さな金額ではありません。しかし一万タラントンと比べれば比較になりません。それにもかかわらず、家来は赦しません。首を絞めて返済を迫ります。ここで、この譬えの本当の問いが見えてきます。今日の聖書で主イエスがまず問うておられるのは、「あなたは誰かを赦せるか」ではありません。むしろ、「あなたは自分が赦されたことを忘れていないか」。その問いを突き付けておられるのです。私たちは誰かの百デナリオンはよく見えます。しかし主イエスは、その前に一万タラントンを見よと言われます。「丸太とおがくず(7:3)」。神の前で、私たち自身が赦された者であることを忘れてはならないのです。そのことを忘れるとき、私たちもまたこの家来と同じ姿になってしまいます。


⑤ だから主イエスは今日、この譬えを語られます。私たちを責めるためではありません。「あなたは赦された」と知らせるためです。しかも、安い赦しではありません。主イエスは私たちの負債を引き受けるために十字架へ向かわれました。神は罪を見なかったことにはされませんでした。御子ご自身が、私たちの負うべき重荷を担われたのです。私たちは今日も誰かを赦せません。怒りを抱きます。気づけば、百デナリオンばかりを見ています。しかし主イエスは今日、その私たちに一万タラントンを示されます。「あなたは赦された」と。「十字架によって赦された」と。私たちが赦す前に、まず私たちは赦された者なのです。その赦しを受けるところから、私たちの新しい歩みは始まるのです。