4/13(月) 久しぶりに、電動バリカンでブナの木をきれいにしました。
きれいにし過ぎ…と、剪定後はいつも思います。
4/12(日)徳山礼拝所の道路側。この右側にブナがあります。
芝桜、ヤマボウシが春の装いをば。
そろそろ葉桜に。4/15(水)はいかがでしょうか。
今週以降の行事は、以下のとおりです。
いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。
4/15 水曜日 16時 六日市チャペル 礼拝
4/18 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝
15時30分 防府チャペル 礼拝
4/22 水曜日 16時 六日市チャペル 礼拝
4/25 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
4/26 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び
10時45分 徳山チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
4/12(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。
復活節1主日 説教
ヨハネ福音書20章19節-23節 「その日、部屋は変わった」
水原一郎
① 主の復活の日の夕べ、弟子たちは家の戸に鍵をかけて閉じこもっていました。弟子たちの心を支配していたのは、「ユダヤ人を恐れて」という理由が語っています。つまり、外側からの脅威でした。けれども、ただそれだけだったでしょうか。弟子たちの内には、もっと深い不安があったと思われます。それは、主イエスを裏切ってしまったという
自責、そしてあの十字架の死によりすべてが終わったという失望でした。それらを作り出した自分への失望。この夜、戸を閉じていたのは、外の世界への扉。自分たちの未来への希望の道。あるいは神さまへの信頼に至る心の扉だったのかもしれません。
② そんな彼らのただ中に、主イエスは現れます。「戸には鍵がかけられていた」と強調されているにもかかわらず、主イエスはそこに立たれたのです。しかも主イエスは、まず言葉と共に、「手とわき腹をお見せになった」と記されています。弟子たちはこのとき、十字架の現実と復活の現実、両方に同時に出会いました。傷を負われたお方が、死を超えて共におられる。そこに、彼らは慰めと平安を受け取ったのです。主イエスは言われます。「あなたがたに平和があるように。」これは単なる再会のあいさつではありません。主イエスのお気持ちはこうです。「もう大丈夫だよ」。弟子たちが失っていた、取り戻せないと思っていた関係と使命とを、主ご自身が回復される言葉でした。続けて、主はこう言われます。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」主イエスの平和は、再び歩み出すために与えられるものなのです。
③ 続いて、主イエスは弟子たちに息を吹きかけて言われます。「聖霊を受けなさい。」ここで思い起こされるのは、創世記2章です。神が人を形づくり、命の息を吹き込まれた場面です。ここで弟子たちは、いわば「新しい創造」に与りました。恐れと失望の中で、使命を失っていた者たちに、再び命の息が吹き込まれたのです。それは、分かりやすい形では、個々人の心の回復を起こしました。その回復は、主イエスによって、弟子たちを再び世へと向かわせる命の息により起こされます。赦しの言葉が語られるのも、この派遣と無関係ではありません。赦しは、交わりを守る教えでも、また壊れやすい世界へと踏み出す力でもあります。聖霊は、その歩みを支える神の力なのです。
④ 私たちは今、この弟子たちの交わりの延長に生きています。教会とは、閉ざされた扉の中にさえ、キリストが入ってこられ、息吹を与え、新しい交わりを形づくられる場所です。完璧な人間たちが集う場ではありません。裏切りも、恐れも、傷もある。しかしそれらを超えて、キリストの平和と赦しが中心に据えられている。それが、教会です。
⑤ 「その日、部屋は変わった」と言ってよいでしょう。鍵のかかった空間が、神の霊が吹き込まれる場とされました。恐れと沈黙に満ちていた場所が、平和と派遣の始まる場所とされたのです。この礼拝もまた、同じ出来事の延長にあります。私たちは、ただ慰められるためにここに集っているのではありません。平和を受け取り、赦しに生かされ、再び世へと遣わされていくために、ここに集められています。主は今日も、私たちのただ中に立って言われます。「あなたがたに平和があるように。」そして、「わたしはあなたがたを遣わす」と。そのとき、私たちの閉ざされた部屋は、再び開かれます。恐れの場所は、希望の出発点へと変えられるのです。この復活の主と共に、私たちは新しい週へと遣わされていきます。アーメン。





























