2/3(火)徳山礼拝所の朝です。
主題聖句は「成長させて下さったのは神です」1コリント3章6節。
手前には百合の花。
1/31(土)柳井礼拝所。疾走感。
1/28(水)六日市礼拝前。
1月は雪による礼拝中止はありませんでした。
2月、寒さは変わらずに続きます。
今週以降の行事は、以下のとおりです。
いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。
2/4 水曜日 16時 六日市チャペル礼拝
2/7 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
2/11 水曜日 16時 六日市チャペル礼拝
2/14 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
2/15 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び
10時45分 徳山チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
2/1(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。
顕現節4主日 説教
マタイ福音書5章1節-12節 「助けてと言える幸い」
水原一郎
① 今日の福音書、「心が貧しい」とはどういうことでしょうか。日本語からは、「性格が弱い」「心が折れている」「問題を抱えた人」を思い浮かべます。けれど主イエスが語られたことは、性格や気分の出来事、事柄ではありません。「心が貧しい」の言葉の意味は、二つに分けて考えることが大切です。「貧しい」とは、自分の力や正しさを持っていないこと。「心」とは「神さまに頼る心」。まとめると「助けて下さい」と神さまに向かって言える心です。自分一人で抱え込み、担わなくても良いと分かる心です。主イエスは、そのような者を「心の貧しい者」として、「幸いである」と語られたのです。
② 「山上の説教」の「八つの幸い」は、旧約聖書の伝統に慣れた人々には、驚きをもって受け止められたことでしょう。「山上での教え」は「シナイ山」で与えられた「十戒」を思い起こします。旧約聖書の「十戒」の前提は「あなたがたは、既に私の民である」という神の恵みの宣言でした。そして救われた民が共に生きるための道しるべでした。十戒は、これを守れば救われるという条件ではありませんでした。しかし「道しるべ」として、行いを神さまと人々の前で整えるための基準とされていきました。更に人はしばしば、基準を守れるかどうかによって、自分や他者を計ることがあります。その現実の中で主イエスは、「守るべきこと」ではなく、祝福の言葉を語り始めたのです。
③ 主イエスの地上の歩みの時代には、人々の生活は十戒の時代との比較で、大きく変化していました。ガリラヤには、農民、漁師などの労働者、徴税人、宗教指導者、そして貧しい者、病める者、社会から疎外された者たち。多様な生活がありました。一人ひとりの人生には、違った痛みと希望、異なる不安と願いがありました。いつしか、規範を守ることが救いの条件とされた時代でした。その時代に主イエスは「守るべきこと」ではなく、「まずあなたは何者なのか」を語るのです。そして第一声は「心の貧しい者は、幸いである」でした。主イエスはまず、人々の存在そのものを肯定し、神が共にある命だと言われたのです。それは後に「主よ、私は罪深い者です」と舟の上で崩れ落ちた、この場所にいたシモン・ペトロに向けられた言葉でもありました。「天の国はその人たちのものである」と主イエスは言われます。神さまの支えを示す言葉です。
④ 主イエスが祝福されるのは、社会的に成功し、宗教的に正しい者ではありませんでした。むしろ、自分の弱さゆえに、他者に厄介に映る者、誰かを傷つけた者、「信仰が分からない」「祈る言葉が見つからない人」に「あなたは幸いだ」と語りかけるのです。ここには、人間観の根本的な転換があります。人は「正しいから」神の民になるのではありません。むしろ、自分が正しくないことを知り、神さまの憐れみによって生かされるから、神の民とされるのです。山上の説教の冒頭に、この祝福が置かれているのは偶然ではありません。主イエスのすべての教えは、この祝福の上に立っています。
⑤ 山上の説教を「守るべき倫理」として読むなら、私たちは息苦しさを覚えます。「敵を愛しなさい」「裁いてはならない」。その言葉の前で、自分の弱さを思い知らされるからです。しかし主イエスは、弱さを克服してから来なさいとは言われません。むしろ、助けを求める声を上げる者を、すでに幸いだと言われます。信仰とは、この箇所から言えば「主よ、助けてください」と言い続けることです。天の国は、そのように神にすがる者のものだと、主イエスは約束されました。私たちはその約束の中を歩むのです。

























