2026年2月24日火曜日

2/18イースターカード、2/22防府

 

2/22(日)防府礼拝所の献花。カラーの鉢植えです。

めずらしい色合いのカラーでした。

2/18から、教会は四旬節に入りました。

一足早く、イースターカードの用意を始めます。

四旬節の間、祈りをもってお手紙を準備するのです。


今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


2/25 水曜日 16時 六日市チャペル礼拝 

2/28 土曜日 14時半 関係者の記念会

       15時 柳井チャペル礼拝 

3/1 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝

3/4 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

3/7 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

3/8 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

2/22(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 

四旬節第1主日 説教 

マタイ福音書4章1節-11節 「荒野を先に歩まれた主」

水原一郎

① この日の御言葉は「荒野の誘惑」です。マタイは、主イエスが「誘惑を受けるために」荒野へと向かわれたと語ります。マルコやルカが語るような、突然の試練に巻き込まれる姿ではありません。あえてその場所へ踏み込んで行く主イエスの姿が、ここにはあります。マタイのこの独特な描き方は、主イエスが“向き合う現実から逃げない方”であることを示しています。私たちは日々、マルコやルカの語る主イエスのように、突然の困難に巻き込まれることもあります。またマタイの主イエスのように、困難を知りながら、役割や責任のために、その場に行かざるを得ないこともあります。今日の主イエスは、私たちと同じ道を歩まれます。そのことを聞きましょう。


② 多かれ少なかれ、私たちは「固定観念」や「役割」を期待されながら生きています。「父親なら」「母親なら」「年長者なら」「若者なら」。人が作り上げた“こうあるべき”の像は、私たちの心を縛り、しばしば疲れさせます。与えられた役割を果たすことは大切です。しかしそれが「固定化された期待」となり、私たちを押しつぶすことがあるのも事実です。主イエスを誘惑する悪魔の言葉は、「神の子なら」というものでした。この言い方は、まるで「男なら」「女なら」「親なら」「指導者なら」と言われるように、あるべき“役割”を押しつける響きを持っています。当時の人々が抱いたメシア像──それは「力あるメシア」でした。奇跡による加護を与え、ローマを倒し、民を支配し導く英雄。その期待を悪魔が先んじて突きつけたのです。「神の子としてこうあるべきだ」と。


③ しかし主イエスは、その“あるべき姿”を問う悪魔に、問い返すのです。力で支配するメシアでも、奇 跡を誇示するメシアでも、劇的な解放者でもないことを示します。神さまとの関係において生きる道を選ばれます。「人はパンだけで生きるのではない」「主なる神を試してはならない」「主なるあなたの神を拝み、ただ神に仕える」。主イエスは、世間の期待によってではなく、父なる神の御心に従う自由を生きられました。


④ この主イエスの姿は、役割の重みに疲れた私たちを深く慰めます。私たちが誰かの期待通りに生きられない時、また期待が重すぎる時、主イエスは「その重荷を知っている」と言われます。イエスは、押し付けられた役割や固定観念に縛られた者を解放するために来られました。「もっと強くあれ」「もっとできるはずだ」「こうすべきだ」──そんな声に押されて心が疲れたとき、イエスは「あなたは、わたしの眼には高価で尊い」と語られます。「弱さを見せられない」孤独な働き、「期待が膨れ上がる」中での葛藤。その日々を送る私たちに、自由な息を回復してくださるのが主イエスです。


⑤ 私たちが生きる毎日は、時に“荒野”のようです。何も見えず、何も聞こえず、孤独だけが広がるように思える日があります。けれども、荒野はただの無意味な場所ではありません。そこは、主イエスが先んじて歩まれた場所です。主イエスは、私たちが入る前から荒野の風を受け、私たちが味わう前から孤独を知り、私たちが体験する前から渇きを受け取っておられます。そして、その荒野を神との交わりによって通り抜ける道を、先に開いてくださいました。だから、私たちは荒野を独りでは歩きません。役割の重さに疲れても、期待に押しつぶされそうになっても、主イエスは「わたしはあなたの先を歩いている」と語られます。主は今日も、私たち一人ひとりに静かに寄り添い、いのちの言葉を与えてくださいます。


2026年2月17日火曜日

2/10富士山、2/14柳井、2/15防府、2/17徳山、じゃがいも畑(予定)

 

2/16(月)久しぶりの農作業。

荒れていた畑の草を引いて、耕して、発酵鶏ふんを鋤きました。

植え付けは2月下旬ごろ。入れるのはじゃがいも。

2/17(火)朝の徳山礼拝所。
2/15(日)防府礼拝所。そういえば先週は雪でした。

今日は礼拝堂、暖房が不要でした。

2/14(土)柳井礼拝所。「一粒の麦」の給食で、チョコレートをいただきました。

2/10(火)上京中に、富士山を撮影。

なんとなく、撮りたくなります。


今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


2/18 水曜日 16時 六日市チャペル礼拝 

2/21 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

2/22 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝

2/25 水曜日 16時 六日市チャペル礼拝 

2/28 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

3/1 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

2/15(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 

主の変容主日 説教 

マタイ福音書171-13節 「輝きは、下ってゆく」

水原一郎

① 主イエスは、三人の弟子を伴って高い山へと登られました。その山上で、弟子たちは驚くべき光景を目の当たりにします。主イエスの顔が太陽のように輝き、衣は光のように白くなったのです。今日、登場したモーセもかつて、シナイの山で神と語り、その顔は光を放ちました(出エジ34)。しかし、それは神の栄光を受けた光、反射された輝きでした。いま、弟子たちの前で輝くイエスの光は、反射ではなく、ご自身が光の源でした。真の神の子として、主イエスは天の栄光をまとい、山の頂に立っておられたのです。


② モーセとエリヤが現れ、主イエスと語り合ったことは、ことにペトロに大きな衝撃を与えました。律法の代表モーセ、預言者の頂点に立つエリヤ。ペトロを含む弟子たちは恐れのあまり、ひれ伏し、身動きできなくなります。恐れの中で、ペトロは口にします。「主よ、ここに仮小屋を三つ建てましょう。」主イエスには輝きを失って頂きたくない、自分たちはここに留まりたいという二つの切実な願いでしょう。ペトロは、主イエスのために一つ、モーセに一つ、エリヤに一つ、と語りました。知らず知らず、主イエスを律法と預言の代表者と並べ、栄光を囲い込もうとしたのです。仮小屋とは、旧約で語られる「幕屋」を思わせます。神の臨在を、安心できる形の中に留めておきたいという、人間の願いの表れでもあります。しかし神は、その提案には答えず、ただ一言「これに聞け」と語られました。栄光は、留め置くものではなく、従って歩む方にこそ宿るのです。


③ しかし、その恐れのただ中で、主イエスは弟子たちに近寄り、手を触れて語りかけます。「起きなさい、恐れることはない。」弟子たちへの言葉かけ、慰めが記されるこの場面はマタイだけが伝える、極めて印象深い光景です。神の栄光を身にまとうお方は、同時に私たちのそばに近づき、手を差し伸べる憐れみの主でもあります。主イエスは恐れに囚われた弟子たちを優しく立たせ、再び歩みを進めさせました。この「恐れることはない」という言葉は、ただ山の上だけに留まるものではありません。


④ 輝かしい山の出来事を終えた主イエスは、弟子たちを伴って山を下りて行かれます。しかし、山を下りたその場所で、すぐに彼らを待っていたのは、またもや「恐れ」に囚われた一人の父親の姿でした。その父は、息子の重い病に苦しみ、悪霊の仕業によって息子の命さえ危ういと恐れていました。ここでも主イエスは、山の上で弟子たちにしたのと同じことをなさいます。つまり、恐れに囚われた者に近寄り、憐れみをもってその苦しみを受け止められたのです。主イエスは、輝きの栄光に「仮小屋に」留まることなく、山の上でも下でも、恐れる人々の現実のただ中に入って行かれたのです。


⑤ 主の変容の物語は、私たちの信仰の歩みをも映し出しています。私たちは礼拝の中で神の言葉を聴き、祈りをささげ、時に心が輝きに満たされるような恵みを受けます。しかし、その恵みは礼拝堂に閉じ込めておくためのものではありません。むしろ、礼拝の恵みは、日々の生活の中で出会う、人々に仕えるための光です。主イエスは今も、私たち一人ひとりに語ります。「起きなさい、恐れることはない。」神の栄光は、私たちの恐れを取り除き、愛の力で私たちを起こします。山の頂の輝きと、谷間の憐れみ。この両方を見つめながら、私たちもまた、主イエスに導かれて歩む者でありたいと願います。主の輝きは、今は礼拝堂に留まる私たちと共に、礼拝後には、遣わされる私たちを照らすものでもあります。私たちはその光に導かれ、主の後を歩む者なのです。




2026年2月10日火曜日

2/7柳井、2/8防府、2/8防府うっすらと積雪、2/8県境

2/7 柳井礼拝所の献花でした。
2/8 防府礼拝所。礼拝前にちらちらと雪が。
2/8 礼拝後。
2/8 防府礼拝所の庭。
2/8 こちらは、山口県と島根県の県境。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


2/11 水曜日 16時 六日市チャペル礼拝 家庭礼拝となります。

2/14 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

2/15 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝

2/18 水曜日 16時 六日市チャペル礼拝 

2/21 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

2/22 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

2/8(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 

 

顕現節第4主日 説教 

マタイ福音書513-16節 「見えなくとも、在る」

水原一郎

 主イエスは山の上で、弟子たちにこう語られました。「あなたがたは地の塩である」。この言葉は、良く耳にし、繰り返し聞いてきた馴染み深いものです。塩という言葉から、私たちは「世界を良くする調味料である」「社会に良い影響を与える存在である」という、存在への肯定として理解しがちです。決して間違いではありません。しかし、主イエスが語った「塩」は、私たちが思うより、はるかに重く、深い力を帯びた言葉です。


 旧約聖書において塩は、確かに味付け、腐敗を防ぐ調味料でした。それだけではありません。塩は、神さまと人との契約、約束が続くことを、人の側から覚え続けるしるしでもありました。レビ記には「穀物の献げ物にはすべて塩をかける」(213節)とあります。塩は、あるとよいものではなく、「必須」でした。捧げものに塩をかけ、捧げものの品質を保つことを通して、神さまへの思いも保たれることを誓うのです。その行為が、「主よ、私たちは約束、契約を守り続けます」という、決意の祈りだったのです。


 この背景を踏まえて「あなたがたは地の塩である」という主イエスの言葉を聞くと、その響きはまったく違ってきます。主イエスは、弟子たちを「世界を良くする人々」と励ましているだけではありません。神さまの契約を証しするしるしとして、しかもその約束は永遠に弱まることはないというのです。創世記には、ノアの洪水の後、神が虹を空にかけ、「私はもう世界を滅ぼさない」との誓いが記されています。虹は、世界が保たれているという神の約束のしるしでした。そして今、主イエスは弟子たちを、そのような「約束のしるし」として世に立てておられるのです。弟子たちは、この言葉を聞いて、胸の奥がざわついたことでしょう。自分たちが、虹と同じ役割を担うなど、思いもよらなかったからです。そのような器ではない、神の愛の約束は、すぐに弱まってしまうと。私たちも「地の塩」と呼ばれるのは、ごく一部の限られた人だけだと考えてしまいます。


  「塩気がなくなる」とは、何を意味するのでしょうか。それは、自分が「神の契約の証人として、この世界に置かれている」という事実を見失うことです。これはの問題ではなく、存在の問題です。神の名が語られなくても、神の約束が思い起こされなくても、日々が回ることに慣れてしまう。そのとき、私たちは確かに存在していても、契約を証しする「しるし」としては、機能しなくなってしまいます。主イエスは、その危うさを見据えておられます。塩であると宣言された者が、塩であることを忘れて生きるなら、その存在は、世界の中で見失われ、踏みつけられるものになり得る。その現実を、主ははっきりと語っておられるのです。それでも主イエスは、私たちを突き放しません。


 では、この言葉を私たちの歩みにどう結びつけたらよいのでしょうか。「地」と聞くと、私たちは広大な世界を思い浮かべてしまいます。しかし、主イエスが私たちを置いておられるのは、地球全体を変えるような場所ではありません。あなたが立っている場所、あなたの生活圏、あなたの周囲の世界です。家族の中で、職場で、教会で、友人の間で、あなたの存在そのものが、人の心を保ち、支え、励ましています。自分では気づかなくても、あなたの小さな言葉が、誰かの心を腐敗から守っていることがあります。 それでもなお、私たちは塩であることを忘れてしまいます。しかし、忘れる私たちよりも先に、主は忘れておられません。だからこそ、主イエスは今日もこの宣言を繰り返されます。「あなたがたは地の塩である」。見えなくとも、確かに、在るのです。

2026年2月3日火曜日

1/28六日市、1/31柳井で疾走、2/1防府の梅、2/2徳山と主題聖句

 

2/3(火)徳山礼拝所の朝です。

主題聖句は「成長させて下さったのは神です」1コリント3章6節。

手前には百合の花。

2/1(日)防府礼拝所。2月の礼拝に合わせたように、開花。
1/31(土)柳井礼拝所。疾走感。
1/28(水)六日市礼拝前。

1月は雪による礼拝中止はありませんでした。

2月、寒さは変わらずに続きます。


今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


2/4 水曜日 16時 六日市チャペル礼拝 

2/7 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

2/8 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝

2/11 水曜日 16時 六日市チャペル礼拝 

2/14 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

2/15 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

2/1(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 


顕現節4主日 説教 

マタイ福音書51-12節 「助けてと言える幸い」

水原一郎

①  今日の福音書、「心が貧しい」とはどういうことでしょうか。日本語からは、「性格が弱い」「心が折れている」「問題を抱えた人」を思い浮かべます。けれど主イエスが語られたことは、性格や気分の出来事、事柄ではありません。「心が貧しい」の言葉の意味は、二つに分けて考えることが大切です。「貧しい」とは、自分の力や正しさを持っていないこと。「心」とは「神さまに頼る心」。まとめると「助けて下さい」と神さまに向かって言える心です。自分一人で抱え込み、担わなくても良いと分かる心です。主イエスは、そのような者を「心の貧しい者」として、「幸いである」と語られたのです。


② 「山上の説教」の「八つの幸い」は、旧約聖書の伝統に慣れた人々には、驚きをもって受け止められたことでしょう。「山上での教え」は「シナイ山」で与えられた「十戒」を思い起こします。旧約聖書の「十戒」の前提は「あなたがたは、既に私の民である」という神の恵みの宣言でした。そして救われた民が共に生きるための道しるべでした。十戒は、これを守れば救われるという条件ではありませんでした。しかし「道しるべ」として、行いを神さまと人々の前で整えるための基準とされていきました。更に人はしばしば、基準を守れるかどうかによって、自分や他者を計ることがあります。その現実の中で主イエスは、「守るべきこと」ではなく、祝福の言葉を語り始めたのです。


③ 主イエスの地上の歩みの時代には、人々の生活は十戒の時代との比較で、大きく変化していました。ガリラヤには、農民、漁師などの労働者、徴税人、宗教指導者、そして貧しい者、病める者、社会から疎外された者たち。多様な生活がありました。一人ひとりの人生には、違った痛みと希望、異なる不安と願いがありました。いつしか、規範を守ることが救いの条件とされた時代でした。その時代に主イエスは「守るべきこと」ではなく、「まずあなたは何者なのか」を語るのです。そして第一声は「心の貧しい者は、幸いである」でした。主イエスはまず、人々の存在そのものを肯定し、神が共にある命だと言われたのです。それは後に「主よ、私は罪深い者です」と舟の上で崩れ落ちた、この場所にいたシモン・ペトロに向けられた言葉でもありました。「天の国はその人たちのものである」と主イエスは言われます。神さまの支えを示す言葉です。


④ 主イエスが祝福されるのは、社会的に成功し、宗教的に正しい者ではありませんでした。むしろ、自分の弱さゆえに、他者に厄介に映る者、誰かを傷つけた者、「信仰が分からない」「祈る言葉が見つからない人」に「あなたは幸いだ」と語りかけるのです。ここには、人間観の根本的な転換があります。人は「正しいから」神の民になるのではありません。むしろ、自分が正しくないことを知り、神さまの憐れみによって生かされるから、神の民とされるのです。山上の説教の冒頭に、この祝福が置かれているのは偶然ではありません。主イエスのすべての教えは、この祝福の上に立っています。


⑤ 山上の説教を「守るべき倫理」として読むなら、私たちは息苦しさを覚えます。「敵を愛しなさい」「裁いてはならない」。その言葉の前で、自分の弱さを思い知らされるからです。しかし主イエスは、弱さを克服してから来なさいとは言われません。むしろ、助けを求める声を上げる者を、すでに幸いだと言われます。信仰とは、この箇所から言えば「主よ、助けてください」と言い続けることです。天の国は、そのように神にすがる者のものだと、主イエスは約束されました。私たちはその約束の中を歩むのです。




2026年1月27日火曜日

1/21六日市、1/24柳井、1/25防府、1/27徳山


1/21(水)六日市礼拝の帰り道。

「最強寒波」なるものが訪れようとしていた頃でした。

車外温度は-1度。

一転、1/27(火)徳山礼拝所。
献花が捧げられました。
暖色系のカーペットは暖かさを感じさせます。
1/25(日)防府礼拝所。梅が咲いています。
1/24(土)柳井礼拝所。こちらの献花も感謝です。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


1/28 水曜日 16時 六日市チャペル礼拝 

1/31 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

2/1 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝

2/4 水曜日 16時 六日市チャペル礼拝 

2/7 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

2/8 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

1/25(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 

顕現節3主日 説教 

マタイ福音書412-22節 「足元を照らす光」

水原一郎

① 今日の福音書は、主イエスがガリラヤに現れた場面から始まります。私たちは「光」と聞くと、遠くを照らす強い光、先の見通しを与える光を思い浮かべがちです。しかし現実の歩みの中で、私たちが本当に求めているのは、もっと切実な光ではないでしょうか。次の一歩が見えないとき、足元を照らす小さな光です。今日、主イエスは「ガリラヤの人々」である漁師たちに、まさにその光を与えられました。ガリラヤは、主イエスの時代より七百年前から「異邦人のガリラヤ」と呼ばれていました。しかし預言者イザヤは告げました。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見た」。マタイは、この言葉を重ねることで、神さまの光は、足元が見えない場に差し込むのだ、と語っているのです。

 

②  主イエスがガリラヤに退かれた直接のきっかけは、「洗礼者ヨハネの逮捕」でした。ヨハネは、当時の宗教的常識を揺さぶり、権力者の不道徳を批判したために捕らえられます。主イエスはその知らせを聞き、ガリラヤへ退かれました。人の目には、危険を避けた後退、あるいは逃避のように映ったかもしれません。しかし、ここに神の不思議があります。主イエスは、光が最も必要とされる場所へと身を置かれました。先行きが見えず、声を上げる者が押さえ込まれる現実の中で、神の国を告げるためです。

 

③ そのガリラヤで、主イエスは宣言されます。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」これは洗礼者ヨハネが語った言葉と同じです。しかし、語られた場所が違います。宗教的に整えられた「中心」ではなく、「暗闇の地」と呼ばれた場所で、この言葉が響きました。それは、神の国が遠い未来や特別な舞台から始まるのではなく、足元がおぼつかない現実の中で、すでに近づいているという宣言でした。光は、遠くを照らす前に、まず立っている場所を照らします。ガリラヤの人々は、その光に驚きつつも、心の奥で久しく消えかけていた希望が灯るのを感じたことでしょう。

 

④  その光は、漁師であったシモンとアンデレ、ヤコブとヨハネにも届きます。彼らは学者でも宗教指導者でもありません。日々の糧を得るため、網を投げ、舟を出し、同じ作業を繰り返す人々でした。マタイは、ルカ福音書の「魚が取れない」という出来事を記していません。しかし、だからこそ見えてくることがあります。彼らが捨てたのは、単なる仕事道具ではありませんでした。網や舟は、生活の支えであり、自分が何者であるかを示す拠り所でした。それを手放すことは、不安定な未来に身を委ねることでもありました。それでも彼らは従いました。なぜでしょうか。主イエスの言葉の中に、「神の眼差しは、あなたの今の場所から離れていない」という確かさを聞いたからです。足元を照らす光が、既に自分たちの立つ岸辺に差していると、彼らは感じたのです。

 

⑤ 今年11月まで、私たちは主としてマタイ福音書から御言葉を聞いていきます。マタイは一貫して、「神の恵みは特別な人や場所に限られない」と語ります。「自分の人生は先が見えない」「今週をどう乗り切ればよいのか分からない」。そのような思いを抱えながら、ここに座っておられる方もいるでしょう。今日、あなたが立つガリラヤはどこでしょうか。職場での行き詰まり、家庭での不安、将来への決断を迫られている場所かもしれません。主の光は、まずその場所に差し込みます。遠くの答えを一気に示す光ではなく、次の一歩を踏み出す足元の光としてです。その光を信じ、安心して、今週の歩みを始めていきましょう。主イエスご自身が、あなたの「今ここ」に近づかれます。


























2026年1月20日火曜日

1/17柳井、1/18防府の梅、1/17徳山

 

1/18防府礼拝所です。

ここ数日の暖かさで、梅のつぼみが膨らみました。

今週1/20-24の寒波を凌げば、二月はもうすぐそこです。

1/17柳井礼拝所。今日もこの会堂が、皆様の祈りと賛美に満たされました。

1/20 徳山礼拝所の牧師室。
皆さまがお捧げ下さった鉢が、ここで育てられています。

奥から2023年防府ポインセチア、2024年防府ポインセチア、2024年徳山アンスリウム、
2025年徳山シクラメン。映っていませんが、こちらには2025年徳山ポインセチア、
2024年徳山アンスリウム、2022年防府ポインセチア。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


1/21 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

1/24 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

1/25 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝

1/28 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

1/31 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

2/1 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

1/18(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 

顕現節第2主日 説教 

ヨハネ福音書1章29-34節 「曲がり角を照らす光」

水原一郎

 詩編23編に「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」とあります。この言葉には、「必要なものは、神さまが備えて下さっている」という信頼があります。しかし、この言葉を私たちは常に確信をもって言えるわけではありません。とりわけ「先が見えない状況、曲がり角、途方に暮れる日々」には、詩編22編「わが神」のほうが近いことがあります。今日の洗礼者ヨハネは、確信や信頼よりも、むしろ「分からない」という場所に立っています。確かにヨハネは自分の方へ来られる主イエスを見て、確信をもってこう語りました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と。ただ洗礼者ヨハネは31節、33節で「私はこの方を知らなかった」と繰り返します。


 まず、「小羊」からです。これは当時、神殿で神に献げられる犠牲の動物でした。旧約聖書のレビ記に定められているように、罪の赦しと深く結びついた存在です。ただし、レビ記が語る「罪の赦し」は、「小羊を捧げたものだけに与えられる赦し」限定的な赦しでした。一方でヨハネが主イエスを「神の小羊」と呼ぶときには、そこには限定はありません。「世の罪」を赦す方、つまり限られた人々ではなく、世界全体の罪を担うお方だという宣言です。赦しは人間の努力の結果ではなく、神の側の決断と備えによって与えられる。それが、主イエスの存在そのものなのです。全ては神さまから与えられているものであること。それは、確かに主イエスが私たちに与えられていることでもあります。そして、結びで触れる私たち一人ひとりの行く道にも当てはまります。


 ここで、先に降れた興味深い言葉が語られます。ヨハネは31節、33節「私はこの方を知らなかった」と繰り返します。ルカ福音書では、ヨハネと主イエスは誕生以前から結びついていました。母同志がいとこと見られています。しかしヨハネ福音書は、「知らなかった」と記します。どちらが正しいのか、事実は問いません。ヨハネが、自分の知識や経験、先入観によって主イエスを理解したのではないことを強調しているのです。ヨハネは、神さまが示されたから、初めて分かったのです。神さまは、歩みの過程で、必要な時に、必要なことを示される。その仕方が、ここに描かれています。


 このことは、現代を生きる私たちにも重なります。私たちは、できれば先の見通しをすべて知ってから動きたいと思います。「全て」とは言い過ぎかもしれません。今手掛けていることの結果、この一カ月、この数カ月の日々を。しかし信仰の道は、常にそうではありません。道案内のナビは、次の曲がり角までは教えてくれますが、すべての景色や出来事を前もって示すわけではありません。それでも、示された方向に従って進めば、目的地にたどり着きます。信仰も同じです。神さまは、人生のすべてを説明されることはないと受け止めています。むしろ、今、進むべき一歩を光で照らしてくださいます。曲がり角であっても、その導きの一歩に従うところに、顕現の恵みがあります。


 「曲がり角を照らす光」は、具体的な形で私たちの前に現れます。その一つが、祈りです。私たちは、迷いながら、不完全なまま歩みます。間違えること、不安になることもあります。祈りとは、そのような曲がり角において、なお神さまの方を向き直ることです。言葉にならないうめきであっても、祈りにならない祈りも、神さまはそれを受け止めてくださいます。そのようにして、神さまは私たちの足もとを、次の一歩を照らしてくださいます。顕現の光に照らされ、この一週の歩みを進めましょう。


2026年1月13日火曜日

1/7六日市、1/10柳井、1/11防府、1/12県境、1/13徳山

 

1/12(月)寒波と言われている日の朝、山口県と島根県の県境です。

こちらは「youtube」の「アイ・キャン 錦町県境 ライブ配信」。

アイ・キャン 錦町県境 ライブ配信  1/14(水)はどうなるでしょうか。

1/13(火)徳山は朝から冷たい雨が降っています。

しかし天気予報はこの日は11時過ぎから晴れ。

どうなるでしょうか。

1/11(日)防府礼拝所。

ポインセチアはまだ元気。

1/10(土)柳井礼拝所

献花は菜の花でした。

1/7(水)今年初めての六日市での「集う形」での礼拝でした。

天候は穏やかな一日でした。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

1/14 水曜日 16時 六日市チャペル礼拝 

1/17 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

1/18 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝

1/21 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

1/24 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

1/25 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

1/11(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 

主の洗礼日 説教 

マタイ福音書3章13節-17節 「先にある赦し」

水原一郎

 今日は、主イエスが洗礼者ヨハネによって洗礼を受けられる場面です。この聖書箇所は、毎年の1月第2週に与えられています。ですから毎年私たちは、年の初めに「なぜ主が洗礼を受けられたのか」という問いを向けられるのです。その問いを解くために、主が洗礼を受けることで「何が変わったのか」「今までとの違いは何か」という見方から、この聖書の出来事の意味を改めて受けとめたいと思います。


 まず、変えられた出来事です。それは「赦しの順番」でした。主イエスの時代、「赦し」には順番があると考えられていました。まず律法を守ること。しかし人は弱く、過ちは起こります。そこで神殿に行き、いけにえを捧げ、赦しを得るのです。「赦しを得るための行いが先で、赦しは後のこと」という順番です。この常識に風穴を開けたのが、荒野の預言者ヨハネでした。「悔い改めて洗礼を受けよ。そうすれば赦される」。ヨハネが飛び越えたのは、神殿での祭儀でした。しかし順番は崩しませんでした。「悔い改めを行う。そして赦しが与えられる」。つまり「人間の側の動き」が先だったのです。


 そこへ主イエスが現れます。そして「私にも洗礼を授けてほしい」と言われます。ヨハネは驚きます。「私こそ、あなたから洗礼を受けるべきだ」(14節)。ヨハネの言葉の根っこには、自らの罪を告白するという行い、そして罪への赦しとしての洗礼があります。ヨハネは自分の罪を具体的には語りません。ただ、主イエスの「洗礼の申し出」に対し、当時の宗教観に裏打ちされた「人間の行いを先に示し、赦しを頂く」という順番を示すのです。この点を見れば、洗礼者ヨハネも「時代の中に生きる人間」でした。

 しかし主イエスは言われます。「今は、止めないでほしい。正しいことを全て行うのは、我々に相応しいことです」と。ここで見えてくるのは、主イエスが「罪の告白」や、「人間の側の心の整理」を、赦しの前提条件としては置かれなかったということです。神さまは、赦しを先に差し出してくださるお方であるとしたのです。主イエスはそのことについて「正しい」という、大切な表現を用います。かつて主イエスの父ヨセフが、律法に背く形となっても妻マリアや幼子を守る決断を「正しい」としたことが思い起こされます。神さまは、罪ではなく、神さまを見つめて生きることを望まれるのです。


 主イエスが洗礼を受けた瞬間、天が開かれ、声が響きました。「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」。この宣言は、当時当たり前とされていた「赦しの順番」とは異なる道を歩み始めた主イエスに対する、神さまの深い肯定の言葉と受け取ることができるでしょう。赦しの真理が、この天の声によってはっきりと示されたのです。


 主イエスは、その生き方を通して、この神さまの愛の順番を示し続けられました。「山上の説教」の直後、主は人々が近づく前に重い病の人に触れられました。九章では、蔑まれていた徴税人を、悔い改めの証しを待たず、先に名を呼んで招かれました。私たちは今も、「正しくならなければ」「きちんと悔い改めてからでなければ」と思いがちです。しかし福音書が語るのは、その逆です。主は、整ってから名を呼ばれるのではなく、名を呼ばれることによって、新しい歩みを始めるお方です。もし一週間の中で失敗したとしても、人を傷つけてしまったとしても、自分を責める夜があったとしても、その前に、神さまはすでにあなたの名を呼んでおられます。神さまと主イエスの導きと聖霊の満たしに身を委ね、安心して新しいこの一週間の日々を歩み出しましょう。