2026年9月24日木曜日

9/16六日市コスモス、県境、9/19柳井、9/20防府、9/21徳山

 9/16(水)六日市に咲いたコスモス。今度は季節順当のコスモスです。
 9/23(水・休)の礼拝は家庭礼拝となったため、六日市が多めの写真です。

 これは県境の史跡、奥に続く道。

 県境史跡。山口県と島根県の県境。

 やぶ蚊がいなくなった頃、もう一度。

 9/19(土)柳井礼拝所。

 こちらもジンジャーの献花。香りが広がりますね。

9/20(日)防府礼拝所。

やさしいピンクの献花でした。


 9/21(月)徳山礼拝所の朝。

そとは曇りでしたが、この礼拝堂はいつも、外の採光が十分に生きる形をとっています。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


9/23 水曜日 17時 六日市チャペル 家庭礼拝 

9/26 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝 

9/27 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル 礼拝

       15時30分 防府チャペル 礼拝

9/30 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝 

10/3 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

10/4 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

9/20(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 


聖霊降臨後第17主日 説教 

マタイ福音書20章1節-16節 「友よ」

水原一郎

① 山口県の仁保(にほ)、須金(すがね)、日積(ひづみ)は、ぶどうの産地です。それぞれに味わいが違います。8月から10月までが収穫のシーズンです。山口県のぶどうと、ユダヤのぶどう。収穫の時期が同じとするならば、労働は比較的涼しい朝から日中、夕方まで行われます。本日の譬えを読むと、私たちは朝から働いた労働者に共感します。朝早くから暑い中で働いた。ところが夕方から来た人も同じ一デナリオン。「それはおかしいではないか」。私はそう思います。労働環境や時間が全く異なるからです。むしろ文句を言わない方がおかしいと感じます。しかし主イエスは、この譬えを通し私たちの心を見つめます。私たちはこの話のどこに、違和感を覚えますか?


② 働いていた同労者が、違和感、つまり怒りを覚えたのはどこでしょうか? 問題は、「評価」としての賃金でした。「自分たちは長く働いた」「しかし、夕方の連中の評価と自分たちのが同じとは」。評価が同じということが許せないのです。その瞬間、この例えは労働の話ではなくなります。「異なる背景の中で、神は等しく恵まれる」それを示すこの例えは誰に語られたのでしょうか。マタイ19章3節からの話の流れにあるとすれば、「ファリサイ派」の人々がこの場所にいたと思われます。彼らは自分たちこそが、神のみ言葉を「伝統」に則って守り続け、教えていたという心がありました。「伝統を守る」それはそれで大切なことです。ただ問題は、「罪びとや徴税人」と言った人々を下に見ていたことでした。神の恵みが及ばない人々と見ていたことだったのです。


③ 更に言えば、主イエスは賃金という「評価」を通し、主人である神の姿を示します。神が最後の者を受け入れ、憐れみを示し、気前の良さを示したことです。マタイ福音書の中で、主イエスの教えは重なります。徴税人マタイが招かれる。罪人が主イエスと食卓を囲む。子どもたちが主のもとへ集められる。それを見て人々は眉をひそめる。しかし神は受け入れられる。神の気前の良さと、人のねたみ。対比がここにあります。


④ 朝から長時間働いた人々は、誰を示すのでしょうか。それは明記されていません。一方で夕方五時から来た労働者は誰でしょうか。それは、主イエスの時代に生きる全ての人々であり、また私たちです。しかし不思議なことがあります。本当は五時から来た労働者である「ファリサイ派」の人々が、気づけば朝から働いた労働者の顔をしているのです。「あの人よりは自分の方が」「自分の方が長く仕えてきた」「自分の方が苦労した」。そしてそれは私たちも同じかもしれません。私たちはいつの間にか、自分の働きを数え始めます。そしていつしか、他者の存在や働きを低きに見るのです。


⑤ だから主イエスは、この譬えを語られます。私たちを責めるためではありません。自分の働きを数え、人と比べ、自分の正しさを主張してしまう私たちに、「あなたは既に受けている」と知らせるためです。私たちは、自分の働きによって神の前に立とうとします。しかし主イエスは、そのような私たちを見捨てず、私たちのために十字架へ向かわれました。主イエスの十字架とは、どのような場所でしょうか。神を愛しきれず、隣人を愛しきれない私たちを、それでも主イエスが愛してくださった場所です。だから主は今日も私たちに言われます。「友よ。」見放す言葉でも、裁く言葉でもありません。自分の功績ではなく、主の恵みによって生かされていることを思い起こさせる言葉です。その恵みにより、私たちは人と比べることから解放され、隣人と共に歩むのです。



2026年9月15日火曜日

9/9「山賊」という店(傍示支店/錦店)、9/12柳井、9/13防府、9/15徳山

 

 9/15(火)徳山チャペル礼拝堂。

 献花は「ジンジャー」の花。

 この花も強い香りです。礼拝堂全体に満ち満ちています。

 9/13(日)防府チャペル。

 腎臓がんと血栓の治療を終えた方と、礼拝を共にする恵みがありました。


 9/12(土)柳井チャペル。

 けいとうの花が秋らしさを感じさせます。


 9/9(水)六日市礼拝前の立ち寄り。

 8/31に営業を終えた「山賊」というお店に立ち寄りました。

 大きな具沢山おむすびと、焼き鶏もも肉が名物でした。

 もう10年近くも入店していませんが、懐かしい思い出がよぎります。

 この看板には「山賊 傍示支店」とあります。しかし公式サイトでは「錦店」。

 「傍示」とは、この店がある峠の名前なのです。


今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


9/16 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝 

9/19 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝 

9/20 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル 礼拝

       15時30分 防府チャペル 礼拝

9/23 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝 家庭礼拝の予定です。

9/26 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

9/27 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

9/13(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 


聖霊降臨後第16主日 説教 

マタイ福音書18章21節-35節 「一万タラントンの赦し」

水原一郎

① 本日の箇所を読むと、多くの人は「赦しの話」と思うでしょう。ペトロもそうでした。「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」。しかし、この問いを聞いた瞬間、私たちは別のことにも気づきます。私たちは赦せないのです。家族へのわだかまり。友人とのすれ違い。何年経っても忘れられない言葉や出来事があります。「赦しなさい」と言われるとき、私たちは限界に突き当たります。


② ペトロも、その限界を感じていたのでしょう。「七回までですか」と尋ねました。七という数字は「一つの区切り(創世記:天地創造)」という意味があります。つまりペトロは、「これだけ赦せば、言い換えれば、我慢すれば良いのではないか」と考えたのかもしれません。しかし主イエスは言われます。「七回どころか七の七十倍まで」。主イエスは、数えることが難しいほどの数を示すことで、数えることをやめよ、と言われます。赦しに上限を設けようとするペトロの考えを覆します。そしてここで気づかされます。このような赦しは、本来は、人間に属するものではありません。神に属するものです。


③ そこで主イエスは、一人の家来のたとえを語られました。その家来は王に一万タラントンの借金をしていました。現在の金額に換算することは難しいですが、当時の感覚では、一個人が返済できる額ではありません。何千年分もの労働賃金に相当する、とてつもない負債です。つまり問題は、「どう返すか」ではありません。返せないのです。家来は、そのような借金を前に、何も言えません。「返済できない」という現実だけがあるのです。ところが王は、その借金を免除します。しかし本来、借金は誰かが負担しなければ消えません。王はその損失を自ら引き受けました。家来が負うべき重荷を、自分で背負ったのです。それは後に十字架で明らかになる主イエスの姿を思わせます。ここで主イエスは、人は赦せない。けれども、神は赦してくださる、と語るのです。


④ ところが、その家来は仲間に会います。仲間の借金は百デナリオンでした。決して小さな金額ではありません。しかし一万タラントンと比べれば比較になりません。それにもかかわらず、家来は赦しません。首を絞めて返済を迫ります。ここで、この譬えの本当の問いが見えてきます。今日の聖書で主イエスがまず問うておられるのは、「あなたは誰かを赦せるか」ではありません。むしろ、「あなたは自分が赦されたことを忘れていないか」。その問いを突き付けておられるのです。私たちは誰かの百デナリオンはよく見えます。しかし主イエスは、その前に一万タラントンを見よと言われます。「丸太とおがくず(7:3)」。神の前で、私たち自身が赦された者であることを忘れてはならないのです。そのことを忘れるとき、私たちもまたこの家来と同じ姿になってしまいます。


⑤ だから主イエスは今日、この譬えを語られます。私たちを責めるためではありません。「あなたは赦された」と知らせるためです。しかも、安い赦しではありません。主イエスは私たちの負債を引き受けるために十字架へ向かわれました。神は罪を見なかったことにはされませんでした。御子ご自身が、私たちの負うべき重荷を担われたのです。私たちは今日も誰かを赦せません。怒りを抱きます。気づけば、百デナリオンばかりを見ています。しかし主イエスは今日、その私たちに一万タラントンを示されます。「あなたは赦された」と。「十字架によって赦された」と。私たちが赦す前に、まず私たちは赦された者なのです。その赦しを受けるところから、私たちの新しい歩みは始まるのです。


2026年9月8日火曜日

9/2防府草刈り、9/2六日市コスモス、9/4徳山、9/5柳井

 

 9/5(土)柳井礼拝所。

 献花にはひまわり。もうしばらく、残暑は続くのです。

 9/4(金)徳山礼拝所。

 めずらしい箇所に朝の光が当っていたので、撮影。

 9/2(水)六日市。

 一見するまでもなく中央は雑草ですし、良く見ても雑草ですが。

 その周囲には開花を控えたコスモス。

 9/2(水)防府礼拝所敷地内。

 どうしてこう、自分の成果を誇ってしまうのでしょうか。

 45リットル詰め詰めで5袋半。

 9/2(水)防府裏側。施工後

 9/2(水)施工前。着手時は曇り空でしたが、12時前は炎天。ちょっと星も見えました。

 空の星ではなく、見えてはいけない星。別名軽度の熱中症。


今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


9/9 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝 

9/12 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝 

9/13 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル 礼拝

       15時30分 防府チャペル 礼拝

9/16 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝 

9/19 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

9/20 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

9/6(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 

聖霊降臨後第7主日 説教 

マタイ福音書18章15節-20節 「主は 諦めない」

水原一郎

① マタイ福音書18章15節「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」とあります。「あなたに対する罪」という言葉の元々の意味は「信仰を無くさせるような言葉、行い」です。ただ、もう少し広い意味では、自分自身に対する「心痛むこと」「残念なこと」と言えるでしょう。私たちが日々、週日に置かれている現実です。ただ、今日の聖書の結論は、その誰かを裁くことではありません。誰かの「小ささ」は、その人の「小ささ」として受け止め、軽んじないことです。私たちは、そのような相手に対しての感情は複雑か良くありません。しかし、その人を大切な人として見つめる主の姿を見ることです。


② しかし、まず言われるのは「一対一で向かい合うこと」です。いうまでもなく、これは簡単ではありません。相手に対して、「自分に対する罪や過ち」について語ることは、慎重になります。私たちは傷つきます。腹も立ちます。失望もします。しかし語った相手は、それが「日常」「気にしないで出た言葉」なのです。だから本当は、「もう関わりたくない」「放っておこう」と思います。しかし主イエスはまず一対一で話しなさいと言われます。「兄弟を得るため」です。しかし私たちには、そのような愛も忍耐も十分にはありません。私たちは取り戻すより諦めることが得意です。赦すより切り捨てることが得意です。


③ しかし主イエスは、一人で抱え込めとは言われませんでした。聞かなければ二人、三人で。それでも聞かなければ教会へ。「教会」とはここでは、「集められた人々」という意味です。主イエスは、「罪を犯す人」の心を取り戻す働きを、その共同体全体に委ねられたのです。そして18節以降を見ると、「二人または三人がいるところに、私もいる」と言われます。人それぞれは、欠けがあります。弱い人、頑固な人もいます。私たち自身も、その一人です。聖書は「その人を正しなさい」ではなく、「兄弟を得る」と。つまり「関係を断絶すること」ではなく、保ち続けることを促しているのです。


④ 私たちは誰かの小ささには、よく気づきます。東京にいる親族は、昨年から病気を患い、今年80歳になります。2月、6月と、会議に合わせて親族に会ってきました。以前は頼もしく感じていた親族が、今は判断力や記憶力が弱くなり、お金のことばかり気にしているように見える。その姿に寂しさを覚え、どこかで親族を軽んじる思いが自分の中にあることにも気づかされました。しかし、それだけではありませんでした。私は親族が変わってしまったことを受け入れられず、「親族には親族であってほしい。以前のままでいてほしい」と願っていたと思います。けれど今は、関係を諦めない。今のつながりを保つ。そう思うようになりました。親族との関係は、今日の聖書の「兄弟」とは違います。しかし、「もういい」と関係を切るのではなく、その人とのつながりを保とうとする。そのことを、今日の「兄弟を得る」という主イエスの言葉と重ねて考えています。


⑤ 主イエスの愛は、言葉だけではありませんでした。主イエスは失われた者を取り戻すために十字架へ向かわれました。神から離れていた私たちを、再び神のもとへ連れ戻すために、ご自身の命を与えられました。私たちが主を求めたからではありません。私たちがまだ罪人であった時に、主は私たちを諦めなかったのです。今日の福音は、「もっと頑張って人を愛しなさい」ということではありません。まず主が私たちを諦めなかった、ということです。その主イエスは今日も、失われた者を招き続けておられます。


2026年9月1日火曜日

8/29柳井、8/30防府、9/1徳山牧師室

 

 8/30(日)徳山チャペルの礼拝で、「召天者記念献花」が二鉢、捧げられました。

 一つはカランコエ。もう一つはアンスリウム。

 これで牧師室にはアンスリウムが3つ。一つは白、一つは赤、一つはこのピンク。

 そろそろ植物たちの居場所が手狭になったので、9/1(火)午後に、配置換えを行います。

 8/30(日)防府チャペルの礼拝。

 入院中の方の手術が成功したことを覚え、祈りが捧げられました。

8/29(土)柳井チャペルの礼拝。

穏やかな時が流れています。

西教区女性会の季刊誌「はなみずき」の原稿について、読み合わせをいたしました。


今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


9/2 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝 

9/5 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝 

9/6 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル 礼拝

       15時30分 防府チャペル 礼拝

9/9 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝 

9/12 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

9/13 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

8/30(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 


聖霊降臨後第14主日 説教 

マタイ福音書16章21節-28節 「十字架を見つめて」

水原一郎

① ペトロは直前16章16節で主イエスに、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白しました。しかし主イエスが、ご自分は「エルサレムで苦しみを受け、殺され、三日目に復活する」と語られると、ペトロは主を脇へお連れして言います。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」ペトロは主イエスを愛していました。けれども、このペトロが求めていたのは、苦しむメシアではありませんでした。力あるメシア、勝利するメシア、栄光に満ちたメシアでした。ですからペトロは、主イエスの先行きを守ろうとして、かえって主イエスの進まれる道を拒んでしまったのです。

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② 22節で、主イエスはペトロに、「あなたは、神のことを思わず、人間のことを思っている」と厳しく言われます。「人間のこと」とは何でしょうか。それは、「当時の人々が求めているメシアの姿」という意味です。つまり、ペトロが期待したのは、力によって敵を打ち破り、イスラエルに勝利と栄光をもたらすメシアでした。ペトロにとって、メシアとは「苦しまない」方だったのです。しかし主イエスが示されたメシアは、その反対でした。力によって人を従わせるのではなく、ご自身を差し出して人を救う方。栄光への道ではなく、苦しみを引き受けて十字架へ向かう方でした。主イエスは、ご自身がそのような「苦しみを避けない」メシアとして歩まれることを、お示しになったのです。

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③ ですから、ペトロが主イエスを脇へお連れして、「そんなことがあってはなりません」と言ったとき、主イエスは「サタン、引き下がれ」と言われたのです。なぜ主イエスは、ペトロや人々が求めるメシアでなく、「苦しみ」を避けなかったのでしょうか。それは、ご自身が「苦しむこと」が目的だったからではありません。その先に、私たちを救う十字架があったからです。主イエスは、私たちのため十字架へ向かわれたのです。

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④ 私たちは、それぞれの歩みの中で知っています。自分では避けることのできない重荷を、時に負い、負わされることがある、ということを。主イエスも「自分の十字架を負ってわたしに従いなさい」と言われました。これだけならば厳しい言葉です。しかしここで忘れてはならないのは、その十字架は私たちだけで背負う重荷ではないことです。先頭を歩くのは主ご自身です。苦難のメシアは、私たちの罪、痛み、弱さを担われた方です。私たちは、日ごとに自分の十字架を見定め、負うものです。そして礼拝やその日の終わりに、それらをひと時降ろすものです。今日、私たちは、まず主が私たちを見つめ、担っておられることを知るのです。マタイ福音書11章28節が示す通りです。

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⑤ 十字架への道は、ペトロも弟子たちも理解できませんでした。そして私たちも、十分には理解できません。それでも主イエスは、そのような者たちのために十字架への道を進まれました。ご自身が言われた「自分を捨てる」ことを、文字通り実行なさったのです。「自分を捨てる」ことは、私たちには大変なように見えます。もちろん私たちは、自分自身の持ち物を、賜物として誰かと分かち合うことを大切にします。でも、自分は捨てきれませんし、自分の重荷もまた同様です。捨てきれず、担いきれないこともある私たちに、今日の福音が届きます。私たちが自分の十字架を担うことができるのは、私たちが先に主イエスに担われているからです。私たちには理解しきれないことがあっても、担いきれない重荷があっても、主イエスは十字架への道をやめません。私たちを救うため、私たちを担うために、最後まで歩んでくださるのです。


2026年8月25日火曜日

8/19錦川? 8/22柳井、8/23防府、8/24徳山

 

8/22(土)柳井チャペル。

残暑は容赦なく照り付けていますが、

朝と晩、何とはなくと、秋の風。

8/19(水)これは、六日市に行く途中、「道の駅 にしき」から撮った錦川。

すばらしい透明度。


8/24(月)朝の徳山チャペル。

8/23(日)防府チャペル。

今週木曜日に手術をお受けになる方への祈りが、礼拝において行われました。


今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


8/26 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝 

8/29 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝 

8/30 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル 礼拝

       15時30分 防府チャペル 礼拝

9/2 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝 

9/5 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

9/6 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

8/23(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 

聖霊降臨後第13主日 説教 

マタイ福音書16章13節-20節 「揺らぐ弟子と揺るがぬ主」

水原一郎

① 主イエスはフィリポ・カイサリア地方で弟子たちに問われました。「人々は人の子を何者だと言っているか。」さまざまな評価が集まります。預言者、偉大な教師、宗教的改革者。しかし主は問いを鋭く絞られます。「では、あなたがたは、わたしを誰だと言うか。」これは知識の問題ではありません。「主イエスはあなたに何をして下さったか」「あなたにとって主イエスは何者か」、という問いです。思い出せるのは、主イエスを通して出会った人々でしょうか。良い出会い、嬉しい出来事、忘れ難い思い出。いわゆる「良い思い出」が浮かぶ一方で、同時に心には「失敗や挫折」も思い出されます。

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② 聖書に戻ります。ペトロは答えます。「あなたはメシア(救い主)、生ける神の子です。」この告白は、ペトロが口にした言葉です。確かにマタイ16章に至るまで、ペトロが目の当たりにしてきた主イエスの姿を通して「メシア」と告白するに至ったのでしょう。「出来事や経験を通して、主イエスは人を育みます」。一方で主イエスは言われます。「あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と。出来事や経験は、神の賜物であるのです。ただ、今日の聖書箇所の直後21-28節(22節)では、ペトロはその主イエスに対して、敵対する言葉を語ります。

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③ ですからこの直後、主イエスは宣言されます。「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに勝てない。」ここで主イエスが「この岩」と言っているのは、ペトロの名前の「岩」を念頭に置いていると言えます。ただし、名前が「岩」でも、またあだ名を名付けたのが主イエスであっても、ペトロの生き方は「岩」か。ペトロは確かに「神の啓示」によって、主イエスとの出会いの経験によって「あなたはメシア」と告白しました。だからと言って、ペトロの中から「あやまち」「失敗や挫折」が消えることはないのです。岩と呼ばれたペトロは今後、不動の揺るがない存在になったわけではありません。それでも、揺らぐペトロの上に「私は私の教会を立てる」と言われた主イエスの思いを聴くのです。そこで「良きも失敗」ということが大切です。

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④ 初めに触れた私たちの現実を思い出します。「あなたにとってキリストは何者か」良い出会い、忘れ難い思い出が心に過ります。一方で、困難な失敗、挫折。それが私たちにもあります。このペトロも弟子たちも、「挫折の経験」に直面します。あの十字架の時に、主イエスを信じていつつも、自分の本心、本能、「罪」に従うことになるのです。しかし主は、そのような不完全な弟子たちを見捨てず、十字架への道を進まれました。私たちの歩みには、善きことだけでなく、失敗や挫折もあります。しかし主イエスは、そのような私たちを見捨てません。主は、良い出来事を通して私たちを喜ばせ、また失敗や挫折の中でも、立ち上がって歩む力を与えてくださいます。だから私たちは、人生を振り返る時、その全てを主の御手の中で思い起こすことができるのです。

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⑤ 今日、主は再び問われます。「あなたはわたしを誰と言うか。」私たちは自分の痛みを抱えたまま答えます。「あなたはキリスト、生ける神の子です。」「生ける」という言葉を使っていることが大切です。心が死に接する時、困難に直面する時、私たちの思いもまた、悲しみの中に置かれるものでしょう。しかしキリストは、そのような現実の中でなおも私たちを「生きて」導くのです。「私たちがキリストを拒んでも、キリストは私たちを否むことはない」私たちは、キリストの勝利の強さに支えられる群れなのです。




2026年8月18日火曜日

8/15柳井、8/16徳山、防府

 

 8/18(火)徳山礼拝所の朝。

 長かった夏休み(ただし、子どもたちのみ)もようやく後半。

 ラストスパートです(ただし、大人と子ども含む)。

 8/16(日)防府礼拝所の献花。

 鉢植えのかわいらしいお花です。


 8/15(土)柳井礼拝所の献花と礼拝堂。

 礼拝前には、水路の小魚を獲りました。

 

 今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


8/19 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝 

8/22 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝 

8/23 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル 礼拝

       15時30分 防府チャペル 礼拝

8/26 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝 

8/29 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

8/30 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

8/16(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 

聖霊降臨後第12主日 説教 

マタイ福音書15章21節-28節 「外にいる者への恵み」

水原一郎

① 主イエスはティルスとシドンの地方へ退かれました。そこはイスラエルの外、異邦の地です。約束の民の中心から離れた場所で、一人のカナン人の女が叫びます。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」彼女は民族的にも宗教的にも外部の人間と見なされていました。しかも彼女の娘は「悪霊に苦しめられている」と受け止めていました。つまり彼女には、ユダヤの枠組みの中では、「ラビ」と見なされた主イエスと語る資格も、また背景もありません。ただし、切実な求めだけがあるのです。ここに、神さまの前に立つ私たちの姿があります。神に差し出せる功績を持たず、ただ憐れみを求めるしかない存在としての姿です。彼女もまた、主イエスの前に立っています。

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② しかし主は答えられませんでした。沈黙です。さらに弟子たちは「叫び続けていますから、追い払ってください」と言います。主は続けて言われます。「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない。」これは慰めではありません。旧約聖書の世界観に基づく、救いの順番と見なされたものです。神の約束はまずイスラエルへ向かう。その枠の外に彼女はいると言うのです。私たちもまた、神の沈黙を経験することがあります。「神の沈黙」の意味を悟ることは難しいのです。ただ彼女の姿勢に、その受け止め方を見出せます。「なお神に向かう」のです。退かないのです。ひれ伏して言います。「主よ、お助けください。」信仰とは、憐れみを求める心です。

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③ 主イエスは、「子どもたちのパンを取って、小犬たちに投げるのはよくない」と言われます。ここには、イスラエルにまず与えられる恵みの順序が示されています。しかし主イエスは、彼女を食卓から完全に追い出す言葉として「小犬」という言葉を用いているのではありません。むしろ彼女は、その言葉の中に残された小さな場所を見いだします。「主よ、その通りです。しかし、小犬たちも主人の食卓から落ちるパン屑をいただきます。」彼女は主イエスの恵みを、自分には関係ないものと受け止めなかったのです。むしろ、食卓の下にいる小犬にも届くものであると。彼女は、神さまの恵みが一か所、一民族に閉じ込められるものではないことを、思いがけない仕方で示したのです。」

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④ すると主は言われます。「あなたの信仰は立派だ。その願いどおりになるように。」ここで称賛されているのは精神的な強さではありません。彼女の信仰は、自分を持ち上げたことではなく、主の憐れみから離れなかったことにあります。恵みは境界を越えました。イスラエルから異邦へ、内側から外側へ。これは偶然の例外ではありません。やがて主イエスの十字架において完全に現れる出来事の前触れです。キリストはゴルゴダの門の外で十字架につけられ、外に追いやられました。その主イエスによって、外にいる「異邦人」を始めとする全ての者が、神さまの懐に迎え入れられるのです。恵みは内側に閉じ込められません。キリストご自身が境界を破られるからです。

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⑤ 私たちもまた、誇れる信仰を持つ者ではありません。祈りがすぐに聞かれる保証もありません。その私たちに、カナンの女性が示すのは「主イエスから離れない」という姿勢でした。むしろ、主イエスがカナンの地方に来られたという姿です。礼拝とは、自分が神さまのみ前に相応しいかどうかを確かめるものではありません。自分ではどうにもならない私たちの所に、主イエスが来られることを覚えるものなのです。私たちを生かすのは、さ迷う私たちに届く主イエスの恵み。支えられて、今日を生きるのです。






2026年8月4日火曜日

7/29 六日市ペチュニア 8/1柳井、8/2徳山、防府

 

 8/2(日)防府礼拝所。平和礼拝ですが、典礼色は緑として行いました。
 8/2(日)徳山礼拝所。朝の光が礼拝堂に届いています。
 8/1(土)柳井礼拝所。平和礼拝の赤。しかし牧師はストールを忘れました…。

 献花が赤なのが、何よりの救い。

 3Dプリンターでここまでのものができるようです。

 時代は進みます。

 しかし3Dプリンターでは作れない花。

 こちらは7/29(水)六日市礼拝で、教会員の方がお捧げ下さったペチュニア。

 珍しい色合いのものです。


今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


8/5 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝 家庭礼拝となりました。

8/8 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝 

8/9 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル 礼拝

       15時30分 防府チャペル 礼拝

8/12 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝 この日も、家庭礼拝となりました。 

8/15 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

8/16 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

8/2(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 


聖霊降臨後第10主日 説教 

マタイ福音書14章13節-21節 「まず受けている者として」

水原一郎

① 主イエスは群衆を見て、深く憐れまれました。彼らは病を抱え、疲れを抱え、それでも主のもとへ集まって来ました。主の言葉を聞き、病を癒して欲しい。その思いで夢中になっているうちに、気が付けば夕暮れ。食べ物のことまで考える余裕はありませんでした。私たちにも似た経験があります。大切な家族の病気や問題に心を奪われ、気が付けば食事も後回しになっていた。人生には、自分の力だけではどうにもならない出来事があります。群衆は決して立派な信仰者として描かれているのではありません。欠乏を抱えた人々です。しかし主は、その欠乏を責められませんでした。福音はここから始まります。整った者への報酬ではなく、空腹の者への憐れみから始まるのです。

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② 夕暮れが迫り、弟子たちは進言します。「ここは寂しい、もう時刻も遅い。群衆を解散させてください。」常識的な提案でした。しかし主は言われます。「あなたがたが、彼らに食べる物を与えなさい。」弟子たちは五つのパンと二匹の魚を見つめます。そして足りなさを計算します。私たちも同じではないでしょうか。私たちは家計から将来を考え、健康から老後を考えます。私たちは計算し、まず不足を見つめます。しかし主は、弟子たちの計算を越え働かれます。この言葉は、弟子たちが養う側ではなく、養われる側であることを教えるための言葉だったのです。

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③ 群衆もまた、自ら状況を改善することはできません。ただ主の前に座り、受け取るだけです。ここに信仰の逆説があります。私たちは何かを成し遂げることによって救われるのではありません。まず受け取る者なのです。そして出来事の主語は一貫して主イエスです。主はパンを取り、天を仰ぎ、祝福し、裂き、弟子たちに与えられました。弟子たちは配っただけです。奇跡を起こしたのは人間の勇気でも知恵でもありません。主の憐れみと権威です。福音とは、人間の小さな善意が大きくなることではありません。人間の無力が明らかにされたその所で、神ご自身が働かれるという知らせなのです。

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④ そして「すべての者が食べて満腹した」と記されています。そして十二の籠に余りが集められました。神の国は、ようやく足りる世界ではありません。余りが生まれるほどに、主の養いが豊かな世界なのです。荒れ野でイスラエルを養うためにマナを与えられた神が、今ここで御子を通して民を養います。神は昔だけ養われたのではありません。今も養う方です。そしてこの出来事は、やがて完成する神の国の宴を指し示しています。人間の世界では、足りなければ削るしかありません。しかし神の国では、分かたれることによって、祝福と豊かさが広がります。教会もまた、この主の豊かさによって生かされています。私たちが主を支えるのではなく、主が私たちを支えるのです。

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⑤ この物語は、私たちに「何を差し出せるか」を問い詰める前に、「誰が満たすのか」を示しています。私たちはまず受ける者です。礼拝も、主から養いを受ける場です。主はパンを取り、祝福し、裂き、与えられました。この姿は、私たちが聖餐のたびに見る姿でもあります。そしてその養いの源は、十字架でご自身を裂かれたキリストにあります。私たちは養われた者として、この世へ遣わされます。しかし世界を救うのは私たちの働きではありません。主の豊かさです。私たちは豊かさを受け取り、分かち合う者として遣わされるのです。荒れ野で民を満たされた主は、今も私たちを養います。