5/24(日)聖霊降臨祭。徳山礼拝所の朝、東から朝日が来ています。
5/24(日)防府礼拝所。ステンドグラスからの光。
5/23(土)柳井礼拝所。写真を撮ってから気づきました。「まだ白」と。
5/20(水)六日市礼拝所。
会員の方が、ご自宅のバラをお捧げ下さいました。
奥に見える「天守閣」には、昇ろうと思って諦めました。
5/19(火)その直前。小田原からの太平洋。瀬戸内と違う荒々しさがありました。
今週以降の行事は、以下のとおりです。
いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。
5/27 水曜日 16時 六日市チャペル 礼拝
5/30 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝
15時30分 防府チャペル 礼拝
6/3 水曜日 16時 六日市チャペル 礼拝
6/6 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
6/7 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び
10時45分 徳山チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
5/24(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。
聖霊降臨祭 説教
使徒言行録2章1節-4節 「神が始められたこと」
水原一郎
① 創世記11章では「バベルの塔」の出来事が語られています。このバベルの塔の物語は、人間の技術向上や、協力することが「悪であった」と告発するものではありません。問題とされたのは、「全地に散らされないために」「名を上げるために」という、人間が世界を管理し尽くそうとする姿勢でした。神はこの企みを見て、「混乱」をもってそれを止められました。神は、世界の主導権が人間の側に固定されることを許されなかったのです。ここで神は、便利さよりも、神と人との正しい関係を守るために働かれました。混乱は偶然ではなく、神の御業でした。人はここで、すべてを把握し、理解しようとする手を緩めること、神が主であることを受け入れるよう招かれています。
② 使徒言行録2章では、聖霊降臨の出来事が語られています。このこともまた、人間の理解を超えた仕方で起こります。「激しい風のような音」「炎のような舌」。いずれも、実際に起きていることを正確に表現するものではありません。ですから人が意図してこれらを操作できるものではありません。実際、弟子たちが準備していたわけでも、計画していたわけでもありません。神さまが、主導権をもって臨まれたのです。ここで重要なのは、弟子たちが何を感じたかよりも、神が何を始められたかです。神は、弟子たちの思いや計らいの外側から、再びご自身の霊を注がれました。昔と同様、弟子たちは、理解してから従うのではなく、理解できなくとも神の働きを受け取ったのです。
③ バベルでは、「神さまの言葉」が多くの人々を分断しました。しかしペンテコステでは、同じ「神さまの言葉」が、神さまご自身の御業を告げ知らせるために用いられました。弟子たちは「他国の言葉で神の大いなる業を語った」とあります。何を語ったかは詳しく記されていません。しかしこの日は「七週の祭り」、すなわち神さまがシナイ山の頂上で民を「宝の民」と呼び、み言葉を与え、その背きを赦したことを覚える日でした。神はここで、再びご自身の民を集め、み言葉を生きた出来事として与えられたのです。神は、分断された世界を、福音によって結び直された出来事を語ったと受け取れます。弟子たちは、自分の言葉を語るより先に、神の言葉を語るよう招かれたのです。
④ 聖霊降臨以前、弟子たちは仲間内にとどまっていました。しかし聖霊が注がれたとき、神は彼らを外へと押し出されました。これは弟子たちの勇気や決断の結果ではありません。神の霊が、人を動かされたのです。神の御業は、常に閉じたところで完結せず、外へ向かいます。神が加わられるとき、小さな集まりは、世界に向かう証しの群れへと変えられます。人は、自分の安全圏を守ることよりも、神が導かれる方向に歩み出すことで、その主導権を受け取ります。
⑤ 目を世界に転じても、世界を管理しようとする動きは見出せますが、うまく行きません。私たちもまた、自分自身すら管理しきれず、理解できない出来事に囲まれて生きています。しかし聖霊降臨の出来事は、神が今もなお主導権を握っておられることを告げています。神は、人が整ってから用いられるのではありません。むしろ弱さや不完全さのただ中に、聖霊を注がれます。私たちは、自分を管理しきれなくてもよいのです。神が働かれます。神の霊が、私たちを証人として立たせてくださいます。その主導権を受け取るとは、すべてを支配しようとする生き方を手放し、礼拝と祈りの中で神に自分を委ねることです。その御業に委ねつつ、この一週間を歩んでまいりましょう。




























