2021年7月19日月曜日

7/17.18 教会と来週の案内

 

 来週の説教題です。

 これは、徳山チャペルのものとなります。

 お一人の方が、毎週、ご奉仕をしてくださいます。

 こちらは、7/18(日)の防府チャペルの礼拝堂でした。

 礼拝後に撮影したものです。

今週、来週の予定は以下の通りです。

どちらの集会・礼拝についても、お気軽にお越し下さい。 

7/21 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝

7/22 木曜日 牧師 兵庫県出張

7/24 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
 
7/25 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝
       15時30分 防府チャペル礼拝
       
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。

 マルコによる福音書6:3034,5356 (新共同訳聖書、新約72ページ)

 説教            「夜も昼も駆ける」

 「旅には杖一本の他、何も持ってはならない」と命じられた伝道旅行が終わりました。物は持たなくとも、託された力を用いた弟子たちは、懸命に働いたのでしょう。怠惰であることは、路頭に迷うことに直結します。一人がくじけたときには、もう一人が支えたのでしょう。主のもとに帰り着いたとき、主は弟子たちに休息が必要であると見られました。ところが、主と共に他所に行く弟子たちの行先に、「多くの人々が駆け付け」先回りをしたのです

 

 弟子たちを「追い駆ける」人々の姿に、弟子たちの懸命な奮闘のあとを見ることが出来ます。30-34節で私たちは、主の二つの思いを知ることができます。「懸命に働き、疲れる人々に主は、休息を命じられる」こと。そして「熱心に求める人々の、痛む心の内訳を主はご存じ」なこと。これらは、折々の私たちの姿に該当すると言えます。そもそも私たちは週ごとに、どちらかの心、或いは双方の心を抱きつつ、教会の門をくぐり着座すると言えます。

 

 確かに折々の私たちは「病み、痛む」のかもしれません。そして今日の聖書に登場する「人々」には、共通点があります。「駆ける」ことです。人々はそれぞれ、他者のために考え、働くものだったのです。この「人々」の背景は、30節以降は「飼い主のいない羊」、対象は「病人」と明記されています。「駆ける」とは、疾走感溢れる言葉です。動作はともかくも、週日の私たちの姿は「気持ちを四方八方に向け、駆ける」ようなもの、であると思えます。

 

 ところで、弟子たちが日課冒頭では「使徒たち」と記されます。「遣わされた者たち」という意味の言葉です。「弟子たち」は「学ぶ人」です。神の言葉を学んだ私たちは、この世に遣わされるのです。学んだ内容は、今日の箇所で言えば「疲れた時には休もう」ですし、「痛む心の内訳を、主は存じあげて下さる」ことです。私たちも人々のように、「夜も昼も駆ける」者なのでしょう。大いに、用いられようではありませんか。そして大いに休みましょう。

2021年7月6日火曜日

神戸教会、神戸東教会、西宮教会、柳井教会、防府教会

 

7/4(日)15時半からの防府礼拝所でした。
こちらは、7/3(土)15時からの柳井礼拝所でした。

会員が足の痛み除去のための手術、療養中です。その方のご息女が

お支え下さっています。

こちらは、7/1(木)西宮教会。緊急事態宣言が明けましたので、

兵庫県3教会を訪問できました。

こちらは神戸東教会。兵庫県三教会の真ん中に位置しています。
礼拝堂です。
こちらは神戸教会。新神戸駅から地下鉄で行きました。

駅からの道は、急坂でした。「坂の町」神戸を実感しました。

 玄関から見た神戸教会です。

今週、来週の予定は以下の通りです。

どちらの集会・礼拝もお気軽にお尋ねください。

 

7/7 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝 

 
7/10 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
 
7/11 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝
       家庭礼拝 防府チャペル礼拝
       
7/11(日)の防府チャペル礼拝は、牧師の大阪出張のため、家庭礼拝となります。
教会員の皆さまには、週報を発送させて頂きます。
お入り用の方はお気兼ねなくお知らせください。

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。

 

 マルコによる福音書66後半~13 (新共同訳聖書、新約70ページ

 説教            「思い通りにならない日々の中で」

 今年の春、約60年ぶりに「死海文書」が発見されました。検証の結果、発見されたのはゼカリア書の一部でした。内容もさることながら、見出された場所は「頂上からロープを吊り下げて行ける横穴洞窟」でした。かつて、人々の生活領域を離れ、清貧の生き方を模索する集団がいました。主はその生き方から多くの示唆を得られましたが、むしろ活動の場は町中に求められました。そして日課では、12人弟子を組にして、町中に派遣されます。

 

 なぜ「2人組」なのか。聖書の中で「2人」を探すと、いくつかのことがわかってきます。まず「体の支え」のためです。コヘレト書には「一人よりも二人が良い(410)」と示されています。また「心の支え」のためとも言えます。創世記に「二人は一緒に歩いて行った(228)」とあります。佳境を控え父は子を、子はその父を支えたのです。歩みの道のりに於いて、中途で倒れて欲しくないとの思いが主の心のうちにあるのです。だから「2人組」なのです。

 

 無論、派遣された先で全てが思い通りにはなりません。その時は「足の塵を落とす(11)」絶縁が示唆されます。冷たく見えますが、実際の所はどうか。弟子たちの成り形(8-9)は、一言でいえば見ずぼらしいものです。初見の対応で「迎え入れず、耳を傾けない」ことは、成り形に由来すると思えます。求められない所ではなく、求められる所に出てゆく示唆です。ここでの主は、強固な伝道スピリットではなく、緩やかで融和的な伝道を語るのです。

 

 強固でなく、緩やかな伝道を語った背景には、当時の社会を主が注意深くご覧になっていたからだと思えます。律法成就の義務と、植民地支配の中の苦しい生活。主も一人の人として、共に辛酸を味わったのです。弟子たちは派遣され、帰還し、主のもとで休みます。基本的に私たちは、この世での歩みは一人です。しかし教会が大切にした言葉には「主が共に歩む」ことです。普段の生活に戻る、私たちの歩みに主が支えを下さいます。