2024年4月17日水曜日

4/13.14 芝桜、さくらんぼ、教会

 

4/14 防府チャペル。さくらんぼがわずかに色づき始めました。


4/14 礼拝堂。相変わらず、水仙の香りは強烈なものが。
4/14 徳山チャペルの芝桜。大道理とは比べませんが、これでいいのです。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

4/20 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

4/21 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

4/23  火曜日 18時半 六日市チャペル礼拝 

4/27 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

4/28 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

説教の要旨は以下の通りです。

■ ルカ24:36b48 (161)

 説教              「今日、自分を大切に」 

    ルカ福音書の主イエスは、「復活後」弟子たちの鼓舞に専念します。「エマオの途上」を深刻に歩む二人に近づき「何の話をしているのか」と問う。十字架、墓の不在、輝く衣の二人。奇妙な現象の由来である主本人の言葉に温かみを感じます。日課でも、不思議がる弟子たちを前に「魚を食べる」。「緊張を緩和」させた中で主は、今後のことを語ります。

 

   起こることは「律法と預言書と詩編(44)」の成就です。多岐にわたる内容の開示のため、主は弟子たちの「心の目」を開かれます。すると上記は「受難、復活、悔い改めと宣教」と断言されます。イザヤ53章(受難)、ホセア6、詩編16(復活)、悔い改め(詩編51)に見られます。これまで起きた全てのことは「予定されていた」と主は弟子に言われます。

 

   弟子たちには、この1週間は「天と地がひっくり返る」日々でした。「歓待された」主は、「宮清め」を通し敵を作り、出て行ったユダに手引きされた兵隊に「逮捕」され、受難と死と墓の不在。「色々と起きて、処理能力を超えた」状況と見ます。主は、「予定されていること」であると語ることを通し、何事においても神の守りの中にあったことを告げるのです。

 

   「エルサレムに留まる」ことが日課の続きで言われます。「困難に留まる」ことはルカ福音書の特徴ですが、他の福音書は「ガリラヤに向かう」弟子たちと主を語ることも重要です。留まるのか、場所を替えるのか。4つの福音書が、復活後の弟子たちの場所を既定しないことが大切です。万事に神の守りがある前で、今日という日、自分を大切に過ごしたい。


2024年4月10日水曜日

4/6.7 柳井の屋根補修 防府 徳山桜

 

 4/9 徳山教会の外、秋月小学校のグラウンドの桜です。

 教会には桜吹雪が期間限定で降っています。

 4/7 防府の聖壇。水仙の香りが強く、くっしゃみが。


 4/6 柳井の聖壇。
 4/6 柳井の屋根補修。工事が始まり、足場が組まれました。
 4/6 看板。

4月の予定は以下の通りです。
 

4/13 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

4/14 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

4/16  火曜日 18時半 六日市チャペル礼拝 

4/20 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

4/21 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

説教の要旨は以下の通りです。

■ ヨハネ20:1923 (210)

 説教              「シャロームの意味」 

    「ペトロの裏切り」は、どの福音書も描きます。ヨハネ福音書のみは、ペトロへの赦しという意味の「続編、後日譚」を21章で記します。その起点が本日の箇所です。時は過越祭の二日後(つまり日曜日)、場所はエルサレム、11人の弟子たちは直前にマリアから、主に出会ったと聞いたばかりでした。その弟子たちは「ユダヤ人を恐れ(19)」ていました。

 

    「宗教者」という意味の「ユダヤ人」は、何をしたのか。人々、ローマ総督を扇動(ヨハネ19:12)し、主の死刑を決めたこと。十字架というローマの刑具を主に適用し、主の名誉を徹底的に棄損したこと(申21:22)。一連の出来事の暗躍が弟子たちを恐れさせます。その結果は、マリアによる復活証言が、疑心暗鬼の材料となってしまったことでした。

 

出会ったのは「まこと」か。体制側に寝返ったのか。虚言ではないか。罪なき主をいとも容易く極刑に定めたユダヤ人への恐れと、自身の保身がありました。また「熱心さが身を亡ぼす(217)」と感想を漏らした後悔もあったと見れます。その真ん中「恐れや不安の中に、主はおられる」のです。表情は穏やかで、主は弟子たちを「遣わす」と言われます。

 

「遣わす」とはこの福音書の重要な言葉です。3:16「神が御子を世に遣わす」と主は言われますが、今主は弟子たちを「ユダヤ人を始めとする」この世に遣わします。困難さは目に見えています。主は、任せきりではなく、必要な時に、必要な人を示します。代表がこの後の「ペトロ」でした。主はペトロを赦し、使命を与えます。それはまた私たちも同じです。



2024年4月4日木曜日

イースター

 

久しぶりの投稿となりました。

母の葬儀、あわただしさのためのことです。

礼拝はこの間、家庭礼拝を含め取り行われました。

また来週から、適度な更新を心がけます。

4月の予定は以下の通りです。

4/6 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

4/7 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

4/8  火曜日 18時半 六日市チャペル礼拝 

4/13 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

4/14 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

4/16  火曜日 18時半 六日市チャペル礼拝 

4/20 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

4/21 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

説教の要旨は以下の通りです。

■ マルコ16: 1 8 (97)

 説教              「朝の光を背に受けて」 

    「誰にも何も、言わなかった。恐ろしかった(16)」と福音書は結びます。しかしこれは、女性たちの「昔の姿」を、福音書記者マルコが聞き、記したものです。「復活」とは、主によって予告されていました。しかし、女性たちが見た「リアル:現実」は、主の「予告」のお言葉を払しょくさせるものでした。「墓参り」に来た女性たちの心にあったものは何でしょう。

 

    「なぜ」でした。主イエスが「なぜ」裁かれるのか、嫌疑は何か。なぜバラバとイエスが交換されたか、見世物か。なぜ侮辱され、なぜ木に架けられ(申21)、即日の執行なのか。答えの出ない問いの中、処刑を見たのです。そしてせめて主のお体を保つため「油と香料(1)」を求めます。供物から考えれば、主の復活は全くもって信じられていませんでした。

 

    「現実の前に言葉を無くす」状況の女性たちは、驚きの光景を見ます。墓の封印はなく、主のお体もありません。若者が「復活を弟子たちとペトロ」に告げよと言います。「ペトロ」が触れられているのは、「赦されないものはない」ということの現れです。しかし女性たちは「黙し」ました。それは、「かつて」のことでした。復活の伝承は「今この時」に至ります。

 

明確な記載はありませんが、女性たちは復活の主に出会い、力づけられ、それを「誰かに(16)」伝えたのです。マルコ福音書は主を「神の子(1:1、1539)とします。神の第一の働きとは「存在の肯定(善しとした)」です。現実に打たれ、み言葉を忘れ、逃げ去るものを主は肯定し、使命を託すのです。その主が伝えられ、この日の朝、告げられたのです。


2024年3月12日火曜日

3/9.10 久しぶりに揃った柳井、徳山、防府

 

 3/12(火)の徳山チャペルの礼拝堂です。

 奥行きがある教会です。

 3/10(日)防府チャペルの礼拝堂。

 いつもの撮影位置からの写真です。

こちらは3/9(土)柳井チャペルの礼拝堂。

献花も四旬節カラーとなっています。

3月の予定は以下の通りです。

3/16 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

3/17 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

3/19  火曜日 18時半 六日市チャペル礼拝 

3/23 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

3/24 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

3/26  火曜日 18時半 六日市チャペル礼拝 

3/30 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

3/31 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

説教の要旨は以下の通りです。

■ ヨハネ3:1417 (167)

 説教                 「やがて朝になる」 

    ヨハネ福音書3章16節は、主イエスが「神さまの愛」を告げた箇所です。この箇所には、徹底した受容があります。「滅びない」「裁かない」「与える」と、主は神の意思を述べます。「福音の福音」「小さな聖書」「金のみ言葉」という表現もあります。主の目前にはニコデモがいました。「滅び」「裁き」に関わる議員職にある彼に、主は何を届けたのでしょうか。

 

    唐突な「モーセが荒野で蛇を挙げた(14)」は、「管理職」モーセの悲嘆が聞こえる箇所です。原典は民数記21章。20章でモーセは、姉ミリアムと弟アロンを看取ります。ユダヤの人々はその状況でも変わらず文句を言い、神のマナを「惨めな食物」とします。かつて「はちみつクッキー(出エ16:31)」「クリーム(民11:8)」と呼んだ味の食べ物なのに…。

 

    神は即座に「炎の蛇」を下します。モーセは「自業自得」と喜んだか。否、複雑な心境と察しますが、神に執り成し、「青銅の蛇」を掲げて人々を癒します。主はモーセが蛇を掲げた神の業と、「人の子も挙げられる」と併記します。意図は目前のニコデモに神の愛と癒しを示すためでした。ニコデモは、直前の主の「宮清め」の始末を委ねられたと見做せます。

 

ニコデモは神殿が、神の名による集金場所と化す現状への悩みを持っていたと思えます。だから「夜」主の元を訪ねます。宗教が「滅び、裁き」を発してよいのかという問いです。そのニコデモに主は「神の愛」を語りました。出発点を示されたニコデモは、同僚に報告し、その後も聖書に登場します。「神の支え」の中で、勇気をもって、日々の働きに勤しみたい。






2024年3月1日金曜日

2/24.25 六日市と防府

 

長らく、六日市チャペルの礼拝の場所として用いていた書店が、
昨年12月末で閉店となりました。ありがとうございました。
書店は閉店されても、礼拝の場所としては用いられ続けます。
引き続いて、よろしくお願いいたします。

2/25(日)防府チャペルです。

今週は他に、2/29(木)に神戸教会を訪問しました。
坂の上の教会で、息が切れそうになりました。

3月の予定は以下の通りです。

3/2 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

3/3 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 ※家庭礼拝となります。

       19時 日本福音ルーテル教会 按手式 於:東京

3/5  火曜日 18時半 六日市チャペル礼拝 

3/9 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

3/10 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

3/12  火曜日 18時半 六日市チャペル礼拝 

3/16 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

3/17 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

説教の要旨は以下の通りです。

■ マルコ 8:3134 (77)

 説教                 「一緒に歩こう」 

    使徒言行録前半には、弟子ペトロの姿が書かれています。ペトロは主イエスの召天後、教会の中心となりました。ペトロ活躍の時代と、福音書の資料収集の時代は同時期でした。自身の姿を改めて述べる機会も、余人が語る自己像を修正することも出来たと思います。しかしペトロは、主に導かれ、赦された者として、自身の姿を赤裸々に語ったのです。

 

    直前でペトロは主を「メシア」と呼びます。「良い政治家」を、ローマ皇帝の直轄地で期待していたことになります。「意気を示した」と言えます。ところが今日、ペトロは主の受難宣言(31-32)を諫めます(33)。ペトロにとって「良い政治家」が敵対勢力を作り、殺されるのはあり得ないのです。認識のずれから主はペトロを「サタン」「退け」と言われます。

 

    日本語では強烈な言葉です。しかし「サタン」とは神の家来で、「退け」とは「後ろに回れ」です。主の自己理解の原型はイザヤ40章「苦難の僕」でした。困難の渦中で、神を共に仰ぐ信仰が語られます。「サタン」「退け」という厳しい言葉から「破門」を想像しますが実は、「理解を新たにして従う」という勧めです。後年、ペトロはこれを証言したのです。

 

    34節以降の主の厳しさに、ペトロは何を思ったでしょうか。マルコは、主が十字架を担う場面にこの箇所を解釈させると考えます。15章21節で、兵士たちは主の十字架を他者、キレネ人シモンに担がせます。鞭の直後ですので、担えないと判断したのでしょう。担えない物を他者が担う、私たちには主ではないでしょうか。ペトロの、今に至る指針なのです。




2024年2月12日月曜日

2/8.10.11 西宮と徳山、防府、こたつみかん

 

次週の礼拝から、四旬節に入ります。伝統的な「荒野の誘惑」が聖書箇所です。

徳山礼拝堂の説教題。会員の方が記されました。

防府の礼拝。変容主日の礼拝でした。

入院加療中の会員を覚えました。

「こたつみかん さいこう」

まさにそのとおり。

2/8 大阪での会議に先立ち、西宮教会を訪問しました。

教会の予定は以下の通りです。

2/17 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

2/18 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

2/20  火曜日 18時半 六日市チャペル礼拝 

2/24 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

2/25 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

2/27  火曜日 18時半 六日市チャペル礼拝 

3/2 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

3/3 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 家庭礼拝の予定です。

説教の要旨は以下の通りです。

■ マルコ 9: 2 9 (78)

 説教              「尊い姿ではなく」 

     「暗い、暗いと不平を言うよりも、進んで灯りを付けましょう」カトリック教会のラジオ「心の灯」のテーマです。この日「主の変容」を覚える主日です。福音書は、編集者により独自に編集されたため、内容や組み立てには差がありますが、「主の変容」は直前からの流れも含め、共通です。主の自己理解が示された箇所を、今日は聞きたいと思います。

 

     ペトロは主の働きと人気を、当初から体感していました。もともと「格下」地域の出身だったペトロには、自然と「救い主」を待望する信仰が育ったと思われます。この場合の「救い主」とは、良い政治を敷く政治家です。その主が直前で、権力者との対立および死と復活を語ります。「晴天の霹靂」から6日後に、主は改めて「同伴者メシア」を示します。

 

     ペトロを含む3人は、登山します。そこにモーセとエリヤが現れます。「律法と預言者」という、旧約の膨大な範囲を象徴する人物です。恣意的な引用になりますが、「神の愛と同行(出エ37 苦しみを知る/列上1712 困難に近づく)」を示します。ペトロは「偉大な姿に留まる」ことを願いますが、「これに聞け」という言葉と共に、主が残されます。

 

     主は「偉大な姿」に留まらず、「苦しみや困難に同伴する二人」を示したのち、「山を下り」ます。この時のペトロには、主は受容されませんでした。しかし後年、挫折と復帰後のペトロはこの神秘的な経験が「暗い所で輝く灯(1ペト119)」としての契機と言います。置かれている状況の中で、託されている主からの輝きを用いていきたいと思います。





2024年2月6日火曜日

2/3.4 礼拝堂と総会

 

 2/4(日)防府チャペルの礼拝堂です。聖餐式が行われ、総会報告書が

 感謝のうちに配布されました。

 2/3(土)柳井チャペルの礼拝堂です。こちらも同様、聖餐式と総会が行われました。

 2/4(日)は徳山チャペルでも聖餐式と総会が行われました。

教会の予定は以下の通りです。

2/10 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

2/11 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

2/13  火曜日 18時半 六日市チャペル礼拝 

2/17 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

2/18 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

2/20  火曜日 18時半 六日市チャペル礼拝 

2/24 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

2/25 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

説教の要旨は以下の通りです。

マルコ1:2934 (62)

 説教                   「孤独に近づく」 

    主は「カファルナウム」の「ペトロの姑(30)」の熱病を癒されました。700年前から「暗闇/死の影の地(イザヤ8)」と呼ばれた「ガリラヤ地方」でのことでした。時は安息日、二度目の癒しです。「ガリラヤ」で「安息日」に「熱病」を治す。これは、当時の「常識」である「聖書」の記載を超えているものでした。記されている主の思いを聞きましょう。

 

    「安息日」についてです。まだ公然と非難されませんが、主は「安息日」二度目の癒しを行います。典拠はあいまいです(出エ35/申5)。主は、規定の曖昧さを示します。一方で「熱病」は「神罰」とされていました(レビ26)。人々(30)は、姑の「高熱(ルカ4:38)」を案じつつも、「宗教的禁忌」に近づいていくことを恐れ、手をこまねいていたのです。

 

    一方でこの姑が、「病むことへの自責」を抱くことは想像できます。病の辛さに加え、「汚れた霊」「神の罰」を受けているという悲嘆です。当時病は、それ自体の厳しさに加え、「神の掟に背いたという罰(レビ26)」の重荷を副次的に課せられたのです。何か昨今と似ています。主は「カファルナウム」で、その境遇にいる女性に「手を伸ばす(31)」のです。

 

    主の時代以前からの「隔離」は、生活空間を分け、衛生を目的としていました。荒野(の40年)を踏破するためでした。り患者はヨブのように、「神の試練」として困難を孤高に(助けを信じて)乗り越えるのでした。しかし主は、「困難」にご自身を踏み込ませるのです。姑の手を取った主イエスの手は、この週日も、私たちと共にあるのです。覚えましょう。