2018年6月24日日曜日

6/23.24 海と礼拝と献花とゴーヤ

  6/24 徳山礼拝の献花です。ピンクの花と草。
 きちんと名前があるのでしょうが。
  6/23 益田小浜の海。今日は駐車場からの遠景です。
 この駐車場は、近くの神社の参拝客用のものですが、ま良いですよね。

  6/24 徳山礼拝玄関の献花。

  6/24 礼拝後の作業で、ネットまで張られたゴーヤの苗。
 牧師室のクーラー経費節減のため頑張ってね。
6/24 一寸早いひまわり。
 乾くのを待っている説教題たち。

聖霊降臨後第5主日の今日、教会の礼拝ではこういうことがありました。

1 礼拝前には、自治会の御用事のためにお休みされるという連絡がK家から、
  また「ヒトメタ…ウィルス」にかかった幼子からの休み連絡がありました。
  それぞれの方々のために祈りがなされました

2 礼拝には、I市から来られた方、K市から来られた方が集われました。
 
3 礼拝後には味噌汁、そして白ご飯、ぬか漬け、ヒジキ、筒かまを頂きました。

4 また礼拝後、外では「ゴーヤのネット張り」作業が行われました。  



5 茶碗洗い、説教題看板書き、送迎など、教会が皆さまのご奉仕によって
  成り立っていることを思わされます。



今週、来週ともに礼拝、集会は以下の日程で行われます。

6/26 火曜日 15時 聖書の学び
6/30 土曜日 13時 益田市小浜礼拝 
        14時 益田教会礼拝
        19時 六日市礼拝
7/1  日曜日   10時45分 徳山礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

本日の礼拝説教要約は以下のとおりです。
 

【マルコ福音書223-28節】
 「安息日」とは耳慣れない言葉です。「息を安んじる日」と書くこの日は「休日」を表すのです。聖書の古事に由来するこの日は主の時代、様々な罰則規定に覆われている日となっていました。それでは、なぜ休日が罰則規定に覆われるか。それは人間のありのままの姿とも重なる問いに結び付いて来るのです。それは古人だけでなく、私たちの姿でもあります。

 説明からになります。本来「安息日」は、通常の仕事を休み「神さまのことを思い起こす日」であり、端的に言えば礼拝に預かる日という理解が主の時代に為されていました。しかし「原理原則」だけでは生きられないのが人の常です。原理原則を分かってはいるのです。それに沿うことが出来るか否かは別の問題です。その内「安息日に仕事をする」のが公然となったのです。安息日の趣旨が蔑ろにされていることに憤慨した当時の宗教者が、安息日の規定を作った。「罰があれば人々は安息日を趣旨に沿って守るだろう」と考えたのです。

 人間関係のつきあいもあります。当人の気持ちもあります。なのに「礼拝に来なければならない」等と言われれば悲しくなることでしょう。主はそういう、人を悲しませることは言われませんでした。むしろ、当時の宗教者の作り上げた規定に悲しみを覚える方々と共にあったのです。聖書には「麦の穂」を摘まむ弟子たちの姿、その仕草を「違反」と告発するファリサイ派(宗教者)の姿が記載されています。告発された弟子たちをかばって主は、「緊急措置」の古事の例を挙げて助けます。それがどのような結果になるかは直後の聖書に顕著です。


 直後の聖書のことは来週の扱いになりますが、「安息」についての主のお気持ちは私たちに幾つかの示唆を示します。まず、家や出先や旅行先でも「リフレッシュ」はかなうのかもしれません。しかしそこには「私」の楽しみ、「私」の現実を見せられます。「教会」は、様々な現実に追われる私たちに、神さまとの関わりを思い出させます。現実は、私たちを奮起させもしますが、落胆、気落ちさせることもあります。そんな時私は、皆さんと共に礼拝を守ると安息できるのです。「神さまはあなたを愛している」の言葉を分かち合えるから。


2018年6月10日日曜日

6/9.10 海と献花と礼拝


  6/9の小浜海岸の様子です。
 益田に至るまでの気温計は30度以上になっていました。
 海岸も同様の気温だったのでしょうか、風がありましたのでカラっとしていました。
 この後、元町、六日市でも礼拝が行われました。

6/10の徳山礼拝献花です。
 本日も会員の方が、ご自分の庭で咲いた花をお捧げ下さいました。

聖霊降臨後第3主日の今日、教会の礼拝ではこういうことがありました。

1 礼拝前には、昨日お孫さんの運動会に行かれたN姉、
  風邪を引かれたと言われるK姉からお休みの連絡を頂きました。
  それぞれの姉妹方のためにお祈りがなされました。
2 礼拝の報告時に、先に行われた「女性会連盟 総大会」の報告がなされました。 
3 礼拝後には味噌汁、そしておかかおにぎり、わかめおにぎりを頂きました。
  いつかの礼拝後にも出された「らっきょ酢とオリーブオイルのドレッシング」が
  茹でキャベツにいい味を加えていました。
4 今週、来週ともに礼拝、集会は以下の日程で行われます。

6/12 火曜日 15時 聖書の学び
6/16 土曜日 益田市小浜礼拝 休みとなります
        益田教会礼拝 休みとなります
        六日市礼拝 休みとなります
6/17 日曜日   10時30分 六日市合同礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

本日の礼拝説教要約は以下のとおりです。



【マルコ福音書213-17節】
 マルコ福音書の初めに主は「癒し」を多く為さっています。神さまから託された力を用いた意図は、当時の宗教界への反発心から来るものでした。当時の宗教者が見捨てた人々、つまり「神さまはお前のことを愛さない」と断ぜられた人々に、主は関わりを持たれたのです。確かに主は、多くの人を「立ち上がらせた」訳ですが、全てがそれではありません。その当人が立ち上がる手助けを為したこともあるのです。それが今日の聖書に現れています。

 手がかりが、主が言われた「医者」への考察です。「医者」とは当時はどのような働きを為したか。今の私たちから見れば、理解し得ない治療と思える部分も、理に叶った働きと思える部分もあります。ただ当時の医者について好意的に言えば、「病気を治療するのでなく、当人が病気と闘えるような治療をする」わけですし、「当人の身体ではなく、当人の心に働きかける」ことが大でした。主は、当時の医者の呪術的な部分でなく、医者の根幹の部分、つまり「当人の心を支え、育む」ということを今日の聖書で徴税人のレビに為されるのです。

 「湖のほとりの収税所」にレビなる徴税人が座っていました。当時徴税人は、才覚次第で多くの実入りを得られる身分でした。立場を誇示し、強制的に徴税することによってです。その代価は、市井の人々からの偏見と憎悪、十戒違反(第8、第10)と宣伝する律法学者からの蔑視であり、加えてノルマ達成を求める上司からの圧力もありました。「座っていた」レビの心中は如何なものか。主はそのようなレビに声を掛けられましたが、声を掛けられた時のレビの心中はどのようなものがあったか。週報ではあえてその答えは記載しません。

 主は確かに「癒し」を為さいましたが、それに終始しませんでした。癒しが必要なときには癒し、むしろこのレビややがての弟子たちへの関わりは、育てる、支えるということに終始されたのです。それぞれの時に相応しい助けを給うのです。私たちも、コヘレト書が語る如く昔も今もこれからも、様々な人生の時を迎えるものです。その時に応じた助けを、主は私たちに下さる。立ち止まる時は、主の御助けの中で、立ち上がる備えの時なのです。




2018年6月3日日曜日

6/2.3 穏やかな海と献花と礼拝

  6/2 小浜礼拝前の海です。今日は実におだやかな海でした。
 この後、小浜、益田、六日市では礼拝が行われました。
 この日も山陰は日中は暑い陽気でしたが、夜の六日市は涼しくなりました。

  6/3 徳山献花です。アジサイの花です。

  6/3の写真ですが、献花は5/27のものです。
 一週間たっても、礼拝堂の献花は元気そのものです。
6/3 教会員の庭の花の献花(と思われます)です。

 聖霊降臨後第2主日の今日、教会の礼拝ではこういうことがありました。

1 聖餐式を伴った礼拝は、今年初めてクーラーを入れた礼拝堂で行われました。
  聖餐式の陪餐の時に、未受洗の赤ちゃんがパン皿に手を伸ばそうとする光景は
  ほほえましいものがありますね。
  今日は聖餐式で失敗の一歩手前でした。
  ぶどう酒とジュースを間違えて配さんしそうになりました。気付いて良かった。
2 本日も仕事をされている方々のための祈りがなされました。
3 礼拝後には味噌汁、そしてキノコご飯を頂きました。
  大釜で炊くご飯は美味しい、大鍋での味噌汁も美味しいですね。
4 今週、来週ともに礼拝、集会は以下の日程で行われます。

6/5 火曜日 15時 聖書の学び
6/7 木曜日~6/8 金曜日 名古屋出張
6/9 土曜日 13時 益田市小浜礼拝
        14時 益田教会礼拝
        19時 六日市礼拝
6/10 日曜日   10時45分 徳山礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

本日の礼拝説教要約は以下のとおりです。


【マルコ福音書第2章1-12節】
 文章、書物に限らず人の作品にはその作成者の思い、主張が刻まれるものです。「福音書」とは、主の言葉や行いが編集されたものですが、編集者「マルコ」を初めとする人々の気持ちが込められています。マルコ福音書の主張は2つです。一つ目「イエスさまは神の子 (1:1)」、二つ目は「神の子イエスさまは信じる人々だけでなく周囲にも恵みを及ぼす(2)」ということです。主を信じる信仰は「わたし」個人のものです。しかしその「わたし」から、恵みは溢れて周囲に及んでいく。自然に及んでいくことが今日の福音書の日課でも語られるのです。

 主の時代の「屋根」には色々ありまして、富豪の家はともかく、それ以外の家は「粗朶(そだ)」枯れ枝を集めて束にし、その上に土を練って塗って天日で乾かしたのです。ここに「中風」体にマヒが及んでいる人がいました。このような境遇の人は、自宅から誰かに朝に外へ連れ出してもらい、日中は物貰い、夕方に家に帰してもらう一日を送っていました。その彼が、主の噂を聞きつけたのです。いつも自分を助けてくれる4人に助力を頼んだのです。

 ところが主の家は黒山の人だかり。4人は、道なきに道を作りました。その道とは屋根から家に入るという斬新なアイディアです。枯れ枝と土ぼこりが家の中に降り注ぐのですから、主もほこりまみれになったでしょう。しかし主は、この4人に「信仰」を見ます。「主を求める人を助けた」からです。主はここで「屋根を壊した」ことも信仰から派生した行動と考えた。信仰とは祈りや礼拝への参加だけを言いません。一方の存在は、律法学者です。

 彼らはこの2章で主に付きまとっています。主の一言一句が気に入らないのです。その彼らに聞こえるように主は「罪の赦し」を中風の人に告げます。中風は罪の罰ではない。病や障害も罪の結果ではない。この言葉は、中風の人が社会復帰するための必要な言葉だったのです。主は、4人の助力を通して中風の人を癒されました。4人の信仰が中風の人に及んだということです。私たちの信仰は、私たちのものです。しかし私たちの器を通して、周りに及んでいくのです。私たちは器、その器にこぼれんばかりに主の愛が覆っています。