2022年3月29日火曜日

3/26.27 春の献花と礼拝堂

 

 3/29(火)朝の礼拝堂です。徳山チャペルの礼拝堂となります。

 手前が献花。4/1にご誕生のご息女を覚えての献花です。

 3/27(日)防府の礼拝堂です。手前は水仙。礼拝堂に入るとすぐに

 その香りが漂ってきました。

 3/26(土)柳井の礼拝堂です。

 梅の花が中央にありました。

 更新が一週間空きました。こうしている間にも、春が本格化しています。

今週、来週の予定は以下の通りとなります。

3/30 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝

4/2  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

4/3 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

4/6 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝

4/9  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

4/10  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

 今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。

■ ルカ福音書15: 1 3,1132 (138)

   Gospel of Luke15: 1311-32

1徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 そこで、イエスは次のたとえを話された。

11b 「ある人に息子が二人いた。 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。

21息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。

25ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

 説教             「異常気象にたたずむ神の姿」 

ルカ15章には、主のたとえ話「三部作」があります。「失われた羊」「なくした銀貨」そして「放蕩息子」です。この三つの話を通し、主は「失われたもの、無くなったもの」への神の愛を伝えます。転じて言えば、「一時、主の教会を後にする私たち」や、「一時、私たちと別れた家族」にも、その範囲は及びます。昔の聞き手は、「律法学者やファリサイ派」でした。主は後年敵対する彼らにも、神の愛の招き「ありのままで、仮面を脱いで」と語るのです。

 

兄息子は「聞き手」、弟息子は「徴税人や罪びと」が当てはまります。そのまま、篤実な兄と破綻する弟の通りです。弟の、1/3財産生前分与願いは、法令上はセーフです(2117)が、心情的にはアウトです。なぜなら、弟は「祝福の源」である「土地」を財産化し、使い尽くすからです。貧の極みで、弟は初めて自身の罪に気づき、父のもとに帰ります。一方兄息子は、父のもとで誠実に働きます。しかし、兄の真意は「誠実」ではなかったのです。

 

父が、帰ってきた弟息子に示した態度は、主が「徴税人や罪びと」に示した態度と重なります。実家では大宴会、その間も兄息子は懸命に働いていたのです。帰った兄息子は、ここに怒り心頭。兄は父に「自分を抑え、働いた」「何も良いものはもらっていない」と不平を言います。財産の2/3は保証されていますが、父が弟に思いを向ける違和感が語られます。それは当時の「神の愛がなぜ罪びとに」という「学者たち」の思いとも重なります。

 

「学者たち」が見失っていたものは、「神の熱意」であると言えます。「一人の滅びも望まない」神の愛は、そのまま兄弟に向けられるのです。物理的に父から離れた弟息子も、心の面で父から距離を置いた兄息子も、父は双方に目を向けるのです。この世では、私たちは様々な「仮面」を被ります。良い「〇〇」などを演じ、時に失敗します。しかし神の御前では、全ては知られている。良いものを与えられる神さまの愛の姿に立ち返り、生きたい。