2020年6月30日火曜日

6/27.28 柳井と防府、徳山の花壇、六日市の記念会


 6/27の柳井C礼拝堂です。
 会衆席からは、聖壇がこのように見えるのだと思わされます。
 6/28の防府C礼拝堂です。
 骨折療養中であった会員が、久方ぶりに礼拝に集われました。



 その防府から帰った夕方、徳山Cの花壇が整備されました。
 暑い午後にも関わらず、行ってくださったご夫婦のお働きを思いました。

 7/1には、一年前に召天された方を覚えての記念会が、六日市でも行われます。
 
 シオン教会では、6月から、それぞれのチャペルでの礼拝を再開しました。
 また、変わらずに郵便での「家庭礼拝送付」も続けています。
 お入り用の方はご連絡ください。

今週、来週の礼拝は下記の通りです。

7/1 水曜日 19時 六日市礼拝(内、記念会)

7/3 金曜日 14時 聖書を学ぶ会 於:徳山 
       牧師室ではなく集会室で行います。 

7/4 土曜日 15時 柳井C礼拝 

7/5 日曜日 10時45分 徳山C礼拝 
       15時半  防府C礼拝(藤井邦夫牧師)
       15時半  西条教会 牧師就任式(水原牧師)
 
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。

マタイ福音書1040-42

 「一杯の水(42)」が意味することは何か。「支え、言葉、愛情…」と言い換えることが出来ると思います。渇いている状況の中で、他者から示されるそれらがどれほど必要なものか。また逆に、誰かが渇いている状況において、その人に「一杯の水」を差しだすことが出来れば、それがどれほど「自分と他者にとって」幸せか。私たちはこの「一杯の水」を受ける者であり、また与える者であったと思います。それを思いつつ、聖書を開きたい。

 

 今日の聖書は、10章の「弟子の派遣」に際して語られた主のお話の結びに当たります。冒頭から「受容される(40)」という主の確かなお言葉が響きます。何が、誰が受容されるのか。主の教えを携えた弟子たちが受容されるというのです。弟子の派遣に際して、主が託した教えの要点は2つ。「天の国は近づいた(107)」と「病者への接近と癒し(108)」でした。これらを伝え、行うための「権能(101)」も授けられたのです。

 

 弟子たちの活躍の様子は、この後も記載されていません。ここでは「2つの要点」の内実を見たい。1つ目の「天の国の接近」これは別福音書では「神の国の接近」とあります。当時としては斬新極まりない教えです。「神に近づくのでなく、神が近付く」信仰は、特に貧困層に歓迎されたことでしょう。また「病者への接近と癒し」も同様。公衆衛生を守る(レビ13章)という、律法創設時の目標が見失われていた時代でした。主のお言葉や弟子たちの癒しの業は、必要とする人々に喜びをもって受容された事と思います。

 

 41節の「預言者」とは、一つは「旧約聖書」。「正しい人」とは主のこと(315)。これは聖書全体を自身の人生に受け入れ、道しるべとするということでしょう。そして「水一杯」の教え。「冷たい水」とは、汲みたての水、あるいは飲み水としての大切なものです。誠心誠意の働きを為す時、相手も神さまも応えて下さるというのです。私たちは、他者からの「支え、言葉、愛情…」を受けた時の心の温もりを知っています。願わくば、誰かにその行いを為す者でありたい。前提である「神さまの近づきの信仰」に立ちつつ、ただ、淡々と。













2020年6月23日火曜日

6/17.20.21 礼拝堂と日食


6/20の柳井C礼拝堂です。
会員の誕生会が行われました。
6/21の徳山C礼拝堂です。
イスの間隔があいています。
こちらは6/21の防府C礼拝堂です。
骨折していた会員が退院したとの知らせを、皆で喜びました。


その防府から帰った6/21 17時ごろ。IPADに頑張ってもらって、日食中の太陽を撮りました。が良く分からない。太陽の左下の青いものも、よくわからない。

シオン教会では、6月から、それぞれのチャペルでの礼拝を再開しました。
 また、変わらずに郵便での「家庭礼拝送付」も続けています。
 お入り用の方はご連絡ください。

今週、来週の礼拝は下記の通りです。

6/24 水曜日 19時 六日市礼拝 

6/25 木曜日 15時 牧師 広島出張

6/26 金曜日 14時 聖書を学ぶ会 於:徳山 
       牧師室ではなく集会室で行います。 

6/27 土曜日 15時 柳井C礼拝 

6/28 日曜日 10時45分 徳山C礼拝 
       15時半  防府C礼拝
 
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。

マタイ福音書1024-32

 私たちがこの年、読み進めるマタイ福音書は、特に旧約聖書の思考、土壌を強く受け継いでいると言われています。その表れの一つが福音書冒頭の「系図」。聖書を開く者に、まことのユダヤの血筋としての主の誕生を伝える意図がある。その旧約の神さまの描かれ方は「怒り(民数記など)、妬むお方」となります。これらは、神さまの愛の「裏返しの表現」なのですが、それが特に今日の主のお言葉の中に含まれてもいるのです。


 今日の聖書は、主が弟子たちを派遣する脈絡の中に置かれています。この福音書では、弟子たちはおそらく個々に遣わされるものと思われます。それは私たちの姿とも重なります。今私たちは、主のみ翼の陰にやすらう「群れ」、しかしこの世では、時に「暴風」の前に散らされそうになるものです。その私たちに、2425節が告げることは、「背伸びをすることなく、自身の本分に留まる」こと、師である方を超えないという勧めなのです。

 

 ただ主のみ教えが、26節以降になると変わってきます。初めの「神の怒り、妬み」を彷彿とさせる教えに近づきます。「人々ではなく神を恐れる26節~)」「主を否まず、仲間であると公言する(32節~)」「家族ではなく神を第一にする(36節~)」。全体的に言えば、この世ではなく神と主との絆に生きるというものです。主の時代ならばともかく、4世紀までのキリスト教迫害時代にはどう受容されたか。そして、今日の「成熟した社会」に生きる私たちには、このような「宗教原理主義的」な生は、誤解の源となるでしょう。

 

 神さまの愛の、表現の方式は時代や背景によって異なるものです。「2000年前のユダヤにはユダヤの、今日には今日の」伝え方があるのです。特に私たちが注目したいのは、スズメに関する(29-31節)教えでしょう。一羽では無価値とされるスズメが、個々に派遣される弟子に例えられる。その一羽、その(髪の毛の)一本、その一人を世の中は無価値と評するかもしれない。そうであっても、神さまの愛は一羽を、一人を、あなたを離さないと言われるのです。さあ、この週の歩みも始まります。愛に留まる群れでありたい。

2020年6月16日火曜日

6/10.13.14 六日市と柳井、徳山と防府


 6/13の柳井C礼拝堂です。
 見えにくいのですが、アジサイが献花となっています。



 こちらは6/14の徳山C礼拝堂です。
 アジサイ。この時期の花ですね。

 降ったり止んだりの一週間でした。
 時に、梅雨の終わりを思わせる程の強雨もありました。
 6/10の六日市、6/14の午後には防府でも礼拝が行われました。

 シオン教会では、6月から、それぞれのチャペルでの礼拝を再開しました。

 また、変わらずに郵便での「家庭礼拝送付」も続けています。
 お入り用の方はご連絡ください。

今週、来週の礼拝は記載の通りです。

6/17 水曜日 19時 六日市礼拝 

6/19 金曜日 14時 聖書を学ぶ会 於:徳山 
       牧師室ではなく集会室で行います。 

6/20 土曜日 15時 柳井C礼拝 

6/21 日曜日 10時45分 徳山C礼拝 
       15時半  防府C礼拝
 
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。

マタイ福音書935-104

 「収穫」とは、作る側と見る側とではその意識が異なるものでしょう。防府や冠山の梅花、下松のバラなど、作り手であるお世話する方の労を想像します。私たちも何かを作り、育て、収穫する時、苦労の反面、喜びはひとしおかと思います。収穫とは、生み出す当事者が懸命になって作り出すものでしょう。どうしても「物」「結果」に焦点が当たりますが、「生み出す当事者の思い」やその「過程」こそが「収穫」でしょう。一人ひとりの、生の重荷や感情を、主は「大勢の人(36)」との出会いで見出し「収穫」と呼ばれたのです。

 

 「人々は打ちひしがれ」、「飼い主がいない羊のよう(36)」だったとあります。今日の聖書の舞台は「ガリラヤ(91)」です。ここは長年、「暗闇の地(416)」と蔑視される場でもありました。人々には病や生活困難、被蔑視感の蓄積がありました。神さまを語るはずの宗教者も、機能していなかった。そこに主は「福音=神の良き訪れ」を語り歩かれたのです。その福音は人々の心に浸透し、人々は、主にこそ自身の素の所を曝すのです。

 

 私たちは、普段は自身の弱さを思いつつ、それを現すことはしません。感情を覆って生きています。当時の人々も同様でしょう。でも彼らは、主のみ前には「寄る辺なく、挫折し、弱る」自身を現しても良いと判断した。主の包容力の高さはここだけでなく、「収穫」という言葉にも現れます。「人の生の苦しみを食い物にする」ことでない。個々の収穫を取り上げる者が少ない、心を聴く者がいない。だからこそ、神さまに働き手を求めよと言う。

 

 主のみ弟子の中(1-4)には、徴税人と熱心党という、いわば両極端な人々がいます。誰もが生きる中で、自身の主義主張を抱きます。時には誰かを傷つけ、傷つけられる。主はしかし、その人々を自身の弟子とし、前述の「人々に関わる働き」のための使徒とするのです。主に知られない、生の過程の葛藤はありません。私たちは、かつてはこの「ガリラヤの人」であったかと思います。しかし「まことの羊飼い」に導かれる日々を、今は過ごしています。その原点を常に確かめつつ、ねがわくは、使徒として他者と関わりたい。