2021年6月29日火曜日

6/26.27 厚狭教会と宇部教会

 

 6/27(日)は、宇部教会での礼拝でした。

 シオン教会は、西教区の中で「西中国地区」に位置しています。

 地区の行事の一環でした。

 素晴らしい礼拝堂でした。

6/26(土)は、厚狭教会の礼拝でした。

こちらも、徳山からは一時間強で行ける教会です。

山口県、中西部の町です。

温かみのある礼拝堂でした。 

今週、来週の予定は以下の通りです。

どちらの集会・礼拝もお気軽にお尋ねください。

6/29 火曜日 牧師 広島県出張

6/30 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝 

7/1 木曜日 牧師 兵庫県出張
 
7/3 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
 
7/4 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝
       15時30分 防府チャペル礼拝
       

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。

 マルコによる福音書52143 (新共同訳聖書、新約70ページ)

 説教              「起きなさい」

 昨年の春、私たちの耳目に耳慣れない言葉「ステイホーム」が突然、届きました。唐突に自身の行動が縛られる事実を、戸惑いつつ受容せざるを得なかった私たちでした。ことの是非は後代の判断でしょうが、渦中にいる私たちは、今も随分と不自由な思いを強いられてます。旧約聖書のレビ記15章には、男女の性に関わる規定が記載されています。今の感性からすれば差別的、当時の感性では「普通」とされた出来事に、主が挑まれます。

 

 「社会からの監視と阻害」が「長血の女性」の主に出会うまでの日々でした。「家に留まって」いたのです。一方で主は、「ゲラサ人の地方(51)」から帰られました。医者と見なされていた主のもとに、会堂長ヤイロが、娘の生死に関わる助けを求めます。主は湖から町中へ、群衆も膨れ上がります。ここで主の噂を聞いた「長血の女性」が動き出します。「家に留まる」女性にとり、主と出会うことは不要不急でなく、まことに必要なことだったのです。

 

 この女性は、主の衣に触れることによって癒されました。後に主は「あなたの信仰があなたを救った(34)」と言われます。いわゆる儀礼的、典礼的な姿は示していません。主の噂を聞き、すがる思いで身を「起こし」、主の衣に触れた姿を「信仰」と見られます。信仰とは、諦めず、たゆまず、「蛇のようにしぶとく」求め続ける姿をも言うのです。否、むしろここで「起きなさい(41)」という主の御声の思いが、この女性にも既に届いていたとも言えます。

 

 そしてヤイロとその娘。女性が癒されたとき、娘は死に、ヤイロは娘の知らせを受け取った直後でした。主はただ「信ぜよ」と言われます。先と同様に、儀礼的、典礼的な信仰の姿ではなく、女性と同様、諦めず、たゆまない姿を言います。「起きなさい」この声を、ヤイロの娘も私たちも、やがて聞くことになるのです。しかしそれ以前に、私たちは「身を起こし」今週も主のみ言葉に養われるために礼拝に集っています。このみ言葉の中に、命があります。

 






2021年6月24日木曜日

6/20.23 礼拝と献花

 

六日市チャペルの、会員のお宅で取れたという(珍しい)アジサイの花。

水色や藤色のアジサイは馴染み深いですが、こういう鮮やかなのは初めて。

本屋さんの一室を借りて、礼拝をしています。

防府チャペルの礼拝堂。カメラ代わりのアイパッドを必ずもっていくので、

写真率はどうしても防府が高くなります。

今週、来週の予定は以下の通りです。

どちらの集会・礼拝もお気軽にお尋ねください。 

6/26 土曜日 15時 柳井C礼拝(藤井邦夫牧師)  
       ※ 水原牧師は厚狭教会礼拝

6/27 日曜日 10時45分 徳山C礼拝(中島共生牧師)
        15時30分 防府C礼拝(中島共生牧師)
       ※ 水原牧師は宇部教会礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。

 マルコによる福音書43541 (新共同訳聖書、新約68ページ)

 説教              「向こう岸に渡ろう」

 直前の「種のたとえ話」の要点は、「任せる」「委ねる」ことでした。当時、偏見と蔑視の対象だったガリラヤの人々、弟子たちに主は、「あなた方も良い実りを実らせる」と言われました。その前提の中で、直面する出来事の結果を「任せ、委ねつつ」賜物を用いて行くのです。主が中央の車座(410)では、うなずき得ます。ところが暴風、類する困難な状況下では、「任せ、委ねる」信仰はどうか。昔を思い、今の私たちを、未来に用いて行きましょう。

 

 出発地をカファルナウム、目的地を「ゲラサ人の地方(51)」と定め、出発時刻を夕方としたとき、この船旅は余りにも理不尽なものでした。夕と朝の吹き下ろしの暴風による船旅のリスクは、漁師経験のある弟子たちの心身に刻まれていたことでしょう。出発時に弟子たちは、無言(36)でした。ところが船旅を始めると、暴風が襲います。弟子たちは即座に赤裸々な声を挙げ、主に対処を願うのです。漁師出身の弟子たちも、手が出せません。

 

 主のお言葉は、直接的には「風や湖(39)」に向かいます。その実、本当の意味で騒いでいたのは誰か、何か。風や湖は自然の一風景としての様相を示しただけで、むしろ弟子たちの心こそが大荒れ、大騒ぎだったのです。荒れている人に向かい、「黙れ、沈まれ」とは無意味で、ことによれば逆効果です。ここでの大切な主のお姿は、揺れる船に共に乗り、留まり続けたことにあります。主は絶えず、あなたの心に語り掛け、共に居られる方です。

 

 「向こう岸(35)」を、ガリラヤ湖の地図をもとに考えます。短く見積もっても10キロです。時間帯は夕方でしたので、先が見通せるはずがありません。先が見えない日々、週日を送る比喩と言えます。しかし聖書は、「先が見えず、見通せず」という無い無い尽くしの中、主イエスの臨在を語ります。だからあえて、主は弟子たちを危険な時間帯に旅立たせたのでしょう。「恐れることはない…私はあなたと共にいる神(イザヤ4110)」の体現として。