2016年5月22日日曜日

5/22 教会の献花と礼拝、礼拝後作業

本日の献花でした。
  かわいいピンクの花ですね。

  礼拝後には、花壇プランターの植え替えをいたしました。
 記載と写真掲載はありませんが、雑草などの整備も行いました。

生まれ変わった鉢です。

 愛さんは野菜スープでした。トマトがさわやかな出汁を加えていました。

 来週は、柳井と徳山の講壇交換です。

 今週、来週ともにシオン教会では以下の日程で礼拝が行われます。

 5/29(日) 徳山10:45~
       柳井10:30~ 
        防府15:30~

 5/26(木)には、
       益田14:00~ 礼拝、 
        六日市19:30~ です。

 いずれの礼拝にも、どなたでもご自由にいらして頂けます。

 本日の説教要旨です。
 
 

【ヨハネ福音書161215節】
人間の基本的なリズムは二拍子です。歩行や鼓動、呼吸などですね。でも教会は音楽を作成するとき、三拍子のリズムを押し出して来ました。中世に教会は「アルスノヴァ」として二拍子の賛歌をも作成していきましたが、以前は三拍子が主だったのです。なぜ三拍子か。それは三位一体の教えを推す教会の思惑があったからです。父子聖霊の神の加護を、音楽を通して教えたのです。教会は三位一体の教えを、躍動感あるワルツで教えたのです。

 三位一体論の一つの集大成が、ニケア信条です。教えは独特で複雑ですが、私たちが注目したいのは、教えそのものの仕組みを解くことでない。その教えの中で私たちがどう生き、生かされるかが大切なのです。それは聖書も同様です。つまり、普段二拍子の生の私たちが、神のリズムたる三拍子を思うこと。神さまのリズムの中での生を想起することです。

元気、鼓舞、躍動の源を聖書は聖霊と説明します。聖書でも、時の到来と共に弟子たちは励まされ、真理に導かれると語ります。その通りやがて弟子たちは散るが、主の顧みの故に再集結します。ここでも弟子たちは、主の言葉を解しはしたでしょうが、やがて遁走しました。主の恩寵はそのような弟子たちを覆うのです。神さまのワルツへの招きです。

人の歩みは順調でない。躓く時もある。つまり二拍子が乱されることがあるということです。病めば呼吸が、傷めば歩行が、重篤なら鼓動は弱まります。その折ごとに主は三拍子へと私たちを誘うのです。やがて地上の歩みを終えたのちは、三拍子のリズムが奏でられる処に生きる。先の話はさておき、主は今週も三一の神を私たちと共に居らせて下さる。確かなものは神の招きです。教会に来る、信仰を持つとは、二拍子の生の途中で。三拍子の踊るような思いを知ることであります。恵みの舞踏会への招き。どのような者も招かる

 

2016年5月15日日曜日

5/15 礼拝と献花


 本日の礼拝献花でした。菖蒲の花でしょうか。

 今日の徳山は、会員にご多用が多く、少ない礼拝でした。
 それでも聖霊降臨祭、ペンテコステの礼拝が行われ、聖餐式も行われました。

 今週、来週ともにシオン教会では以下の日程で礼拝が行われます。

 5/22(日) 徳山10:45~
       柳井10:30~ 
        防府15:30~

 5/19(木)には、
       益田14:00~ 礼拝、 
        六日市19:30~ です。

 いずれの礼拝にも、どなたでもご自由にいらして頂けます。

 本日の説教要旨です。



初心忘るべからず」の言葉があります。その言葉の存在理由は、人は初心を忘れ傲慢化するという前提と戒めでしょう。使徒言行録は五旬祭」の日の出来事を告げます。これはユダヤの祭りの一つです。では、何を祭るか。元来この日は十戒授与を想起する日でした。そして春の時期に合わせて麦の収穫を祝いました。み言葉感謝、収穫感謝の日なのです。

この五旬祭」を教会ではペンテコステ」と言います。ペンテコステは今日、教会の誕生日と理解されています。聖書の続きを読むと、弟子たちが多国語で宣教する。彼らの故に、彼らに聖霊を給う神の故に、歴史の流れの中で日本伝道、先人たち、私たちに続く。ただ当初の弟子たちの初心はどうか。使徒112、目立たず、波風から逃れる隠遁の姿が記されていました。主の復活を覚えた者としては情けないのですが、その彼らに聖霊が下ります。

神の御業は不思議で私たちの思いを超えて働くのです。聖霊は風と炎のような姿と象徴的に記されています。この意味は、風が神の息、神の思いを、炎は滅却と新生の象徴です。単純化すれば、意気消沈していた弟子たちに神の息が供与。閉じこもる弟子たちの恐れや戸惑いを滅し、み言葉の宣教の新境地を示すということなのです。この後、当初は悪しき思いに満ちていたサウロも用いられ、パウロと改名し、それが私たちに続くのです。

自身にみ言葉が備えられた当初の日々は忘れ難いものです。聖霊の風と炎、私たちを鼓舞し、悪しきものを滅却し、私たちの新たな日々を創造する神様の御業は確かにあります。五旬祭、すなわちペンテコステは十戒、聖霊、み言葉を想起させるものです。み言葉や教会は只の言葉や建造物でないのです。神さまの命があるのです。初心は既に忘れても,これから出会うみ言葉,今用いる教会にある主の心を想起したいものです。愛の御心を。
 

2016年5月8日日曜日

5/8 礼拝と献花

気付けは更新が二週間滞っていました。
4/24は手帳を見ると防府礼拝奉仕、おそらく更新もままならず出発し、
その後スカッと抜けていたのでしょう。
5/1は東京入りの前日。こちらも抜けていました。

本日は徳山、柳井、防府で礼拝が行われました。
写真は久しぶり、徳山の献花です。

礼拝後には持ち寄りの愛餐会でした。


5/15(日) 徳山10:45~
       柳井10:30~ 
        防府15:30~

5/12(木)には、
       益田14:00~ 礼拝、 
        六日市19:30~ です。

本日の説教要旨です。



【ヨハネ福音書172026節】
伝統では本日は「母の日」です。讃美歌には、母の日に良く歌われる510番があります。神学者「アウグスティヌス」の母の祈りと言われています。偉大な神学者は偉大な放蕩息子でした。家出し、異教に傾倒し、女性と恋に落ち、未婚で父となり、放埓三昧。そんな母は、わが子のために祈るのです。その母の心情を読み取った讃美歌510番です。味わい深いものがあります。

主もまた弟子たちのために祈ります。福音書の16章まで主は弟子たちを「あなた方」と呼び教えました。17章で口調を変えて祈るのです。それは弟子たちのため、そして弟子たちの背後にいる人々のためでした。「全ての人を一つに」との祈りの言葉です。だがこの言葉は皮肉にも、直後の弟子たちには全く当てはまらなかったのです。主は「弟子たちによって信仰に至る人々」と祈るが、当の弟子たちが逃げてしまったのです。主のご祈祷ですら、当初は叶わないのです。

しかし主は祈ったのです。祈りとは、結果を求めるものではない、ということが教えられます。神さまが、この弟子たちを何時かは真心に立ち返らせて下さることを信じたのです。弟子たちの歩みは人の歩みでした。弟子たちを通して信仰に入る者も、または絶望する者も、一つに成るときも分裂もしてしまいます。その弟子たちを通して私たちが信仰に導かれた。そう考えると、弟子たちの不十分さすら、神様は用いられたということになります。万事が益となる。

結果を求めず祈り続けること。私たちはその思いの万分の一でも得られないでしょうか。讃美歌510の母の祈りがそうでした。放蕩息子を委ねた母の祈りです。私たちも、祈りは大切にすることは素よりのことです。しかし私の思い、私の祈祷の文言でなく、それを見据え、見越して働く神の御業に信頼したい。主が私たちのために祈って下さっている。そのことは確かです。放蕩な息子、娘である私たちを覚え、主が心を込めて祈る。私たちも他者のため祈りたい。