2022年7月28日木曜日

7/23.24 柳井、徳山、防府

 

 7/24 徳山の礼拝堂です。
 7/24 防府の礼拝堂。奥の電球が切れていたので、直しました。
 7/23 柳井の礼拝堂。午後礼拝はなかなかの暑さです。

 地面から芽を出したアサガオが、これほど大きくなりました。

 

今週、来週の予定は以下の通りとなります。

7/30  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

7/31 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

8/3 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝

8/6 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

8/7  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

 今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。

 

■ ルカLuke 11:14 (127)

 

11: 1イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。

2そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。

『父よ、御名が崇められますように

御国が来ますように。

3私たちに必要な糧を毎日与えてください。

4私たちの罪を赦してください、

私たちも自分に負い目のある人を

皆赦しますから。

私たちを誘惑に遭わせないでください。』」

 説教               「世界を結ぶ祈り」 

「祈り」の定義は何か。神さまへの「語り」かけです。どんな内容でも、言葉化されなくとも(ローマ826)、私たちが神さまに思いを向けることが祈り、なのです。ただ、個々の祈りは「私が、私の」という側面が突出するものです。無論、それも祈りなのですが、それは「隣人(ルカ10)」を覚えることは少ないと言えます。主の弟子たちは、洗礼者ヨハネにならい主に祈りを求めます。神さまに、どう語りかけるのか。主の答えは、意表を突くものです。

 

そもそも主の時代、聖書とは旧約聖書のみでした。今でいう「旧約の神」とは、出エジプト205に端的にあるように「罰を下す神」「熱情の神」でした。人々はこの神さまに恐れ戦き、捧げものなどを捧げ、宥めたのです。主はその「恐れの神」をここで覆されます。そもそもルカ福音書での「神の立ち位置」は、「地に平和(ルカ214)」、人間社会への祝福と安寧を願うものです。主はその神さまの代弁者として活動し、「特異」な祈りを告げられます。

 

「父よ(2)」とは「アッバ」という乳幼児語です。なぜ、主が祈りに乳幼児語を用いたのか。神さまに対して、恐怖「例:お父様」は不要なのです。むしろ、子が親に寄せる素朴な信頼を「父よ」という言葉で示す勧めと言えます。「み名が…」は、「神さまが広くに大切にされるように」。「み国が…」は、「神さまが愛の関りを示されるように」、そして「罪を赦して下さい」と続きます。罰を下す神でなく、まず愛の神を覚えることが、祈りの骨子なのです。

 

宗教に関わる様々な報道が、特に散見される昨今です。ルター派キリスト教とは、金権宗教、因果応報思想を根底に置いて人を脅迫する教えに否を突きつけた歴史を覚えたい。私たちはこの祈りで、自ずと「隣人」を覚えています。「私たちに、日ごとの糧を」の部分です。心身の糧を必要としている方が多く居られます。自分のためだけでなく、必要な個々の名前を黙祷の内に挙げましょう。そして祈り、何らかの関りの中に育まれたい。

 






2022年7月21日木曜日

7/16.17 防府

 

7/17(日)防府の礼拝堂。

だいぶ、更新が滞っていました。

同様、会衆席側となります。

全国的に新型コロナウィルス感染拡大の中で、山口県、島根県でも

日々、感染された方々の多さは数値化されて目に届いています。

一方で、外は夏休み。どうなることか…。

今週、来週の予定は以下の通りとなります。

7/23  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

7/24 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

7/27 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝

7/30 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

7/31  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

 今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。

■ ルカluke 10:3842 (127)

38一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。

 

39彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」

 

 41主はお答えになった。「マルタ、マルタ、

あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。

それを取り上げてはならない。」

 説教               「必要なことへの集中」 

第一朗読は、遠路からの客人への、アブラハムの接待です。豪勢なものです。この情景は、福音書の様子と似ています。日課の脈絡で、主が滞在された場所が明らかなのはサマリア人の村(ルカ952)、ユダヤ中部です。一方で今日の聖書は、マルタとマリアの姉妹が登場することからユダヤ南部の「ベタニア」村。直線距離で60キロの道のりを越えてきたのです。「イエスはある村にお入りになった(38)」の箇所の背景は、上記の如しです。

 

このマルタの姿や(38)、物言い(40)を見ると、主とは旧知であると言えます。ラザロの蘇生(ヨハネ11)後のことでしょう。主は、「一行(38)」共々で、マルタの接待を受けています。少なくとも12人。72(1017)も加わったならば、大所帯です。場所は「ベタニア(貧者の村)」でした。主と一行をもてなすのは、たとえ最小人数であっても、「族長アブラハム」とは異なり、現実離しています。しかしマルタは、主をもてなしたい一心なのです。

 

マルタは心身をこの奉仕に費やしているのです。このマルタに「何もしていない」マリアが映ります。マルタの舌鋒は、主に向かいます。「何も思わないか(40)」と。しかしマリアは「み言葉を聞いていた」のです。ベタニア村は、律法の故に社会性をはく奪された人々が、肩を寄せ合い生きる場です。神の愛に「飢えている」マリアに、主は「天に栄光、地に平和」の神の愛を告げたのです。「良い方を選んだ(42)」を、私たちは最後に考えたいのです。

 

両者とも、思考と行動の原点は「ベタニア村」で、マルタは「もてなし」を、マリアは「み言葉を聞く」ことを選びました。長道中の疲れをいやす「マルタのもてなし」を、主は喜ばれたことでしょう。一方で、出されるものを食べたとはいえ、マルタ家の負担にならないかも案じたことでしょう。むしろ、今の自分に必要なことを思い、み言葉を主に求めたマリアの姿こそ、主の思いに叶うのでした。諸事につき、今の自分の賜物の中で、考え、働きたい。