2017年6月25日日曜日

6/25 洗礼式と礼拝、献花

  ・・・曇り空でしたが、土曜日の小浜の海です。
 土曜日は小浜、そして益田で礼拝が行われました。
 
  変わって日曜日、確か6月初めに頂いたつつじの若枝が、今も青々としています。

  本日の献花その1、教会員の方が捧げられたものです。
  本日の献花その2、受洗者のお姉さまが捧げられたお花です。
 後ろには洗礼盤。本日、この洗礼盤を通して一人の姉妹が教会に加えられました。

本日の献花その3、併せて、受洗者のご主人も転入されました。

 今週、来週の教会行事は以下の通りとなります。
 いずれの礼拝、集会にも、どなたでもご自由にお集い頂けます。

6/27(火) 15:00 徳山 聖書を学ぶ会。

7/1 (土)13:00 益田 小浜礼拝
      14:00 益田 元町礼拝
      19:30 六日市礼拝

7/2(日)10:45 徳山 礼拝 聖餐式があります。

 礼拝の中で聖餐式、また祝福式が行われます。

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお集まりいただけます。

礼拝後には、わかめおにぎりとスープの愛さんでした。

子どもたちは、大人が食べるおにぎりを軽く2個平らげていました。

本日の礼拝のメッセージは以下の通りです。



【マタイ福音書715-29節】
  今日の聖書は、いわば「山上の説教」の結びですが、そもそも山上の説教の始まりは「心の貧しい者」への祝福でした。当時の宗教者は、人々の心の貧しさを指摘するものでした。律法の規定を挙げて、実行を求める。実行出来ればこれほど嬉しいことはありません。でも出来ない、難しい。そういう状況の中で「心の貧しい者」への祝福はどれほど喜びと受け取られたでしょうか。けれども一方で主が今日、言われることは何でしょう。

 それが「御心を行う」ということに集約されます。さて、「御心を行う」ことと、「御心を行えない者への祝福」がこの山上の説教に混ざっているから、主の教えが時に私たちは難しく感じられてしまいます。けれど聖書に注目、21節から「御心を行ったと言う人々」「善い行いをしましたよ」と自認する人々が、ものの見事に主によって「知らない」と言われるのです。「御心を行う」とは、「善行だけにしがみ付く」ことではありません。どれだけ「貧しい自分が祝されている」ことに立てるかなのです。山上の説教には「あなた方は地の塩、世の光」の言葉があります。その所にまず立つ事こそ、が大事なのです。

 「世の光、地の塩」に私たちは慰められますが、「御心を行う」には戸惑います。おそらく私たちは、この世の中で色々なことを「行う、行え」と言われているからでしょう。その「御心を行う」ということの中身は「善行、良い行い」のみではない。それに加えて「世の光、地の塩」に留まることなのです。「存在義認」(あなたは、あなたのままで素晴らしい)ということが大切になってきます。主はその「すばらしさ」へと招きます。

 「砂の上に家を建てる」とは、不確かな物の上への建築です。自分自身ということです。「岩の上に家を建てる」とは、確かなものに立つということです。「自分がどれだけ良いことに帰れるか」でなく、「良い物を与えて下さる主」ということに立ち返る時、岩の上に家を建てる者となっているのです。そのことを私たちは覚えて日々を過ごしたい。

2017年6月18日日曜日

6/18 六日市合同礼拝と献花

6/18、島根県の六日市でシオン教会合同礼拝が行われました。
 西宮教会や神戸地区諸教会のご配慮の中で、元 徳山教会牧師の市原師、
 奥さまをお招きして礼拝の時が行われました。

礼拝後には、益田教会のトーンチャイム「しらゆりの会」と、
 益田教会会員のつながりで、オカリナの「エーデルワイス」の方々による賛美がありました。
 昨年御召天になった益田教会の安達悦子姉(手前にご遺影があります)の遺志が、
 このように継がれています。

 
 今週、来週の教会行事は以下の通りとなります。

 
6/19-21(月) 水原牧師 京都出張(牧師研修会)

6/20(火) 15:00 徳山 聖書を学ぶ会は休会です。

6/24(土)13:00 益田 小浜礼拝
      14:00 益田 元町礼拝
      19:30 六日市礼拝

6/25(日)10:45 徳山 礼拝

 礼拝の中で洗礼式、転入式が行われます。

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお集まりいただけます。

2017年6月11日日曜日

6/11 献花と礼拝説教

 6/10の益田市小浜の海です。
 礼拝前のひと時、海を見ていいなと思わされます。

 こちらは6/4の礼拝時に捧げられた、あるお宅の「どうだんつつじ」。
一週間たっても生き生きとしています。
横の聖書から、滋養を受け取っているのでしょうか。

こちらは本日6/11の徳山C献花。アジサイが一輪。これも素敵です。

 本日は、ご多用の方が多くおられましたが、礼拝はそれでも大勢で守られました。

 礼拝後には洗礼準備会、転入式準備会が開かれ、再来週の洗礼式、転入式への備えがなされました。

 礼拝後はちらし寿司とコンソメスープ?という愛さんでした。

今週、来週の教会行事は以下の通りとなります。

 
6/13(火) 15:00 徳山 聖書を学ぶ会。



6/18(日)10:30 シオン教会 六日市合同礼拝
 場所 六日市温泉ゆらら 会議研修室
説教 市原正幸牧師(徳山教会元牧師)

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお集まりいただけます。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。



【マタイ福音書2811-20節】
 本日は「三位一体主日」です。この「三位一体」とはキリスト教の教えの一つです。内容は「神さまは父として、子として、聖霊として私たちを守る」ということ。伝統的な表現を用いれば「神さまは上からも、そばにも、心の内にもいて下さる」ということです。ところが三位一体の上記の理解に至るまでは、原始~初代教会の中で多くの議論がなされました。その時代の教会指導者たちも思う所があったのでしょう。議論だけではなく、三拍子の讃美歌を多く作ることで「三位一体」の神さまを知らせようと考えたのでした。

 本日の聖書は、末尾の「父と子と聖霊」の三位一体の神さまの名が登場することから選ばれています。聖書の脈絡としては、弟子たちに復活の主が「ガリラヤで会おう」と言付けた復活祭の日課の直後です。ずいぶんと怪しげな陰謀が記載されています。宗教者たちが、浄財を悪しき目的に流用します。主のご遺体不在を(ご遺体の不在は当然ですが)、弟子たちが盗んだことにするのです。マタイ福音書執筆の80年頃には浸透した噂です。

 その噂に、弟子たち自身が動揺させられます。噂ほど嫌なものはありませんね。しかし復活の主は、そういう弟子たちに、洗礼命令を託し、「共にいる」と告げるのです。洗礼とは一体、どういうものでしょうか。「神さまやイエスさま、聖霊なる神様が私たちのそばにいる」ということです。洗礼を受けていなくとも、神さまは共に居られますが、洗礼で私たちの心がより確かになります。主は、弟子たちや人々に「確かな心、大丈夫で安心な心で世の中を渡って欲しい」という心から、洗礼を命令し、弟子たちに託すのです。

 農耕民族の心に刻まれているのは二拍子のリズムです。人の通常も二拍子(呼吸、歩行)です。逆に三拍子のリズムは、スキップやダンスなど、特別の時です。二拍子の生を送る私たちが、三拍子のリズムに触れる。それが教会の三位一体の教え、また礼拝なのです。本日、徳山、益田、六日市の礼拝は全て三拍子の讃美歌が選ばれています。神さまは、私たちを元気づけ、この世で生き生きと生きる力を下さる、素晴らしいお方です。
 

2017年6月4日日曜日

6/4 礼拝と献花

6/3 益田市小浜礼拝前の海です。今日は波が荒いですね。


6/4 聖霊降臨祭の徳山C礼拝でした。
 花は野の花、すばらしい。

 昨日、本日ともに、益田小浜、益田元町、六日市、徳山で礼拝が行われました。
 徳山には大勢の方が集い、聖餐礼拝に共に預かりました。
 礼拝後には大根めし、味噌汁という愛さんでした。


 今週、来週の教会行事は以下の通りとなります。

 
6/6(火) 15:00 徳山 聖書を学ぶ会。



6/10(土)13:00 益田 小浜礼拝
      14:00 益田 元町礼拝
      19:30 六日市礼拝

6/11(日)10:45 徳山 礼拝
 礼拝後、洗礼準備会

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお集まりいただけます。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。



【使徒言行録21-13節】
 「過越祭」というユダヤの祭りの日に、主は十字架に架けられました。元来過越祭は、ユダヤの民が「死が自分たち(の子)を過ぎ越した」と覚える時です。だが主は、ユダヤの民限定だった「死の過越し」を、全ての人に十字架と復活で適応されました。また、本日の聖書は「五旬祭」というユダヤの祭りの時。これも元来は「十戒が与えられた」と覚える時です。けれど主はユダヤの民限定だったみ言葉を、聖霊と弟子たちを通して全ての人に届けました。主のご姿勢とはここに付きます。「枠を越えて」私たちに近づかれるのです。

 そもそも十字架刑以前の主は、異邦人への関わりを示された、ということは私たちも知る通りです。けれどもその姿勢が、ユダヤ民族を至高の選民とする時の宗教者には我慢ならなかった。主の刑死はそのような宗教者によってもたらされたとも言えます。主はしかし、神さまからの愛を伝え続け、弟子たちにもその使命を託すのです。聖霊は弟子たちに、風と炎の如きものと映ります。まず弟子たちが「風」つまり神の息で立ち直ります。

 炎は、不純物の除去と新生の象徴でもあります。弟子たちの中に巣くう「不安や恐れ」が焼かれ、新たな使命へと向かわせます。それが主の「他国人伝道」の思いを受け継ぐことになったのです。聖霊とは、一言で言えば弟子たちを主や神さまの方向に指向させるものです。その意味で考えれば、私たちもこれまで聖霊の多くの働きを受けて来ました。教会への契機となった人や出来事、それらは実は、その人や出来事を通して、聖霊が私たちに生き生きと働いていた、紛れもない確かな証拠なのです。聖霊も生きて働かれます。

 この聖霊降臨祭の日、神さまと皆さんお一人一人の出会い、契機の出来事を思い出して下さい。多くは人を通して信仰に入ったでしょうが、「わたしとあの人」「自分とあの出来事」という、対人関係の出会いの出来事、物語というだけでありません。神さまが皆さんのために、時を選んでそれらを示された。そのことだけを見ても、神さまが皆さんを愛している、ということが分かって来ると思います。次は、聖霊を受けた私たちの番です。