2018年11月25日日曜日

11/25 礼拝と献花と深谷峡

  11/25 礼拝後に、皆さんでクリスマスの飾りつけをしました。
 これは、大人たちがツリーを設置し、子どもたちが木を飾りました完成形です。

  11/24 六日市礼拝前に、深谷峡温泉に行きました。
 深谷峡からの夕景です。

  11/25 クリスマスの馬小屋です。手前の天使は、今週召天記念日を迎えられる
 益田の会員の作品です。
  11/24 深谷峡の橋上から見下ろした図。怖い。

  11/25 礼拝後に、教会のおじさまたちが礼拝堂を飾りました。
 これが徳山の礼拝堂です。
11/25 教会員が、散歩の途中で拾った木の実にニスと防腐処理をしました。
 その木の実を、別の教会員がリースにしました。
 左下のリボンは先代リースのリボン。
 リースに巻かれているキラキラは、リース作成の教会員が、ご息女の幼少期に、
 ご息女と共に作られたものとか。つまり、皆さんの合作ということです。

 今週、来週と礼拝は以下の日程で行われます。

 11/27 火曜日   午前 水原牧師 柳井 


          15時 徳山聖書研究会 
 11/30 金曜日   牧師 呉 安浦で奉仕

 12/1   土曜日 13時 益田市小浜礼拝 休会といたします。 
            14時 益田教会礼拝 通常通り行われます。
            19時 六日市礼拝 通常通り行われます。

   12/2 日曜日   10時45分 徳山教会礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


マルコ13章24-31節
 聖書は「終末」を主の言葉として語ります。主の時代は、文字通りの「世の終わり」が来ることが信じられていました。終末思想がはびこっていたのです。その背後には、乱れる世の中と天変地異がありました。人々は現世にうんざりし、新たな世を待ち望んでいたのです。今日は、この終末思想が流行ることはないでしょう。むしろ終末の言葉は、個々人の地上の命の終わりとして、立場と視点を変えて語られるようになっています。

 聖書冒頭の「天変地異」で語られていることの大半は「光が見出せなくなる」ことです。例えば私たちも、私たちの身近な人も、そのような知らせを、人生の終末に向けた「ある日」唐突に受けるのです。「光が見出せない」「先の見通しが立たない」思いに至ります。ちょうど2000年前のユダヤの人と同じく。「その時」と聖書は続けます。「人の子が速やかに到来する」苦難の折には、主が速やかにお出で下さり、渦中にある人を助けて下さるのです。「主が共にいる」という、当たり前の事がここで改めて語られるその意義は何か。

 「先が見えない」とは、文字通りの苦難の時です。その苦難の時には、主への信仰を保つことは難しい。聖書は迫害を乗り越えて今日に至る書物ですが、中には迫害という苦難に耐えきれない人々もあったでしょう。その意味で私たちも同様です。今、苦難に直面している方があるとして、聖書はその私たちに語るのです。「主はそばにいる」と。今日この時、聖書の言葉を心に納めたい。不確定だけど、有事にはみ言葉を思い出したい。

 聖書はただ言葉だけを語りません。視覚的にも訴えます。主はイチジクの木が、巡る季節の中で豊かに葉を付けることを語られます。この時主のみ前には寒空に佇む木しかありません。なぜなら聖書の時期は二月か三月だったからです。今は葉が無くても、やがて葉をまとう。「冬が来たのだから、春が遠くであるはずがない」。「止まない雨はなく、晴れない曇りもない」。今、抱えている状況は、主の御心の中で必ず変えられて行くのです。その様相は示されませんが、私たちは主と共にいかなる時でも歩んでいきたい。

2018年11月21日水曜日

11/18 礼拝と献花





 11/18 ついに暖房を入れました。さすがに寒い朝でした。

 今週、来週の教会行事予定は以下の通りです。

 今週、来週と礼拝は以下の日程で行われます。

 11/20 火曜日   午前 水原牧師 柳井 



          15時 徳山聖書研究会 

 11/21 水曜日   地区女性会連絡会 厚狭

 11/24   土曜日 13時 益田市小浜礼拝 休会といたします。 
            14時 益田教会礼拝 通常通り行われます。
            19時 六日市礼拝 通常通り行われます。

   11/25 日曜日   10時45分 徳山教会礼拝
     礼拝後、クリスマス飾りつけ


いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


マルコ  12章41-44節
 2レプトンとは、今の貨幣価値に直すと50円です。貨幣単位に直すと一円玉2枚です。私たちは、50円玉や1円二枚ならば捧げられるかもしれません。しかし金銭とはあくまでも主観的なものです。この女性にとっては、2レプトンが(手持ちの)全財産でした。私たちは、財布を丸ごと献金箱に入れることが出来るか。とてもそれは出来ない話です。しかし主は、私たちを落胆させるためにこの話をなさったのか。見て行きましょう。

 まず、主はこの女性の何を誉めたのか。読んで分かるように「全“財産”を捧げた」ことですね。これが厄介なのです。「この女性が、全財産を捧げた。だから私たちも、財産を…」というように、み言葉の解き明かしの要点が「お金」に傾いてしまうのです。しかし主はがここで“財産”と言われたお言葉は、果たして“金銭”なのか。確かに主の言われた言葉には“金銭”という意味も含まれます。翻訳者は、場面が献金箱という背景から、主のお言葉も熟慮の末に「財産」としたのでしょう。しかし非才から言えば違います。

 主の言葉として翻訳されている「財産」とは、多様に解釈できる言葉なのです。「生き方」「考え方」「在り方」などです。主が評価なさったのは、この女性が「お金」を捧げたからではない。置かれている状況の中で、自分に出来ることを考えて、その結果として捧げたということを評価なさったのです。主の眼差しには、当時の宗教者の一部にあったような「金づく」の考えはありません。むしろ、それぞれの状況を見て下さるのが主です。

 それでは「全部」ささげたことはどうなるか。その答えもこの女性が示します。結論は「出来ない」「無理」という思いも捧げものになるということです。この女性が、2レプトンを捧げるにあたって、無心で捧げたということはないでしょう。今日や明日、今後を憂う気持ちの中で捧げた。当たり前のことですが、主は捧げものだけを見られません。捧げたわたしの心の中をも見て下さるのです。だから、私たちは「お金」だけを捧げません。むしろ、捧げた自分自身を、この一週間も用いて下さいとの祈りを捧げましょう。
 

2018年11月11日日曜日

11/11 礼拝と献花

11/11 徳山礼拝の献花です。
菊が中心になっています。会員の方が花瓶に活ける時に、
そばで米を研いでいましたが、菊の良い香りがしました。

先週の礼拝後、A家の家族であるペット「そらちゃん」の納骨式が行われました。

また本日、会員子弟の義父の召天報があり、礼拝の中で祈りが行われました。

礼拝前にはKさんが祈って行かれ、欠席の連絡はH兄、T姉からありました。

今週、来週と礼拝は以下の日程で行われます。

 11/13 火曜日   午前 水原牧師 柳井 

          15時 徳山聖書研究会

 11/16 金曜日  牧師 呉 安浦で奉仕

 11/17   土曜日 13時 益田市小浜礼拝 休会といたします。 
            14時 益田教会礼拝 通常通り行われます。
            19時 六日市礼拝 通常通り行われます。

   11/18 日曜日   10時45分 徳山教会礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


マルコ 12章28-34節
 「聖書」という呼び方に抵抗を感じることがあります。確かに「神さま」「イエスさま」は「聖」の方ですし、言われることも「聖」なることに他なりません。が、そのお言葉を受け止める私たちは何者か。大なり小なり俗なる思いを持っている者に過ぎません。その「聖」に近い人の話に直面する時、面食らうことがあります。「とても自分にこういうことは無理」と。しかしこの話を含む聖書は、神さまと私たちとを遠ざけるためにあるのか。

否。聖書はどの話も、神さまに遠い私たちを少しでも近づけるために書かれている。それが「福音」=「良き訪れ」です。今日のような「神を愛し、隣人を愛する」というみ言葉も「出来ない私」に帰結、自己完結するのではなく、「出来ない私を助けて下さる神さま」に思いを向ける。そのような信仰を目指したいものです。一方で今日の聖書に登場する「律法学者」は、何と「神を愛し、隣人を愛する」ことを「出来ている」と思っていました。

 今日の聖書では「掟」の価値が問われています。申命記を見ますと、戒め→掟→法という順序がありますが、「掟」とは、十戒を含む旧約聖書の初めの5書と理解出来るでしょう。例えば「憲法」で大事なのは何条と聞かれても、答えは個々人の感性と信条に委ねられますし、そもそも答えの出る問いではありません。いわば律法学者は「答えの出ない問い」「答えが無限にある問い」を発して、主を困らせようとしていることは明らかです。対する主は、実に穏当に「十戒」の要約を答えます。これは、律法学者への答えです。

 「神を愛し、隣人を愛する」このことを、主は私たちに求めることはありません。「愛しているか」という問いを受ければ、私たちは自信を無くします。でも、私たちは皆、それぞれの場所で実はこれらを実行している者なのです。別箇所ですが、マタイ福音書の記載に有る通りです。「誰かに親切にしたでしょう」。「親切にできなかった」ことにも気持ちが陥るかもしれません。しかし「私たちの賜物が、私たちの存在が、生きていることが」喜びの源と神さまはお考えです。私の隣人は皆さんと世界です。皆さんの隣人も然り。