菊が中心になっています。会員の方が花瓶に活ける時に、
そばで米を研いでいましたが、菊の良い香りがしました。
先週の礼拝後、A家の家族であるペット「そらちゃん」の納骨式が行われました。
また本日、会員子弟の義父の召天報があり、礼拝の中で祈りが行われました。
礼拝前にはKさんが祈って行かれ、欠席の連絡はH兄、T姉からありました。
今週、来週と礼拝は以下の日程で行われます。
11/13 火曜日 午前 水原牧師 柳井
15時 徳山聖書研究会
11/16 金曜日 牧師 呉 安浦で奉仕
11/17 土曜日 13時 益田市小浜礼拝 休会といたします。
14時 益田教会礼拝 通常通り行われます。
19時 六日市礼拝 通常通り行われます。
11/18 日曜日 10時45分 徳山教会礼拝
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
【マルコ 12章28-34節】
「聖書」という呼び方に抵抗を感じることがあります。確かに「神さま」「イエスさま」は「聖」の方ですし、言われることも「聖」なることに他なりません。が、そのお言葉を受け止める私たちは何者か。大なり小なり俗なる思いを持っている者に過ぎません。その「聖」に近い人の話に直面する時、面食らうことがあります。「とても自分にこういうことは無理」と。しかしこの話を含む聖書は、神さまと私たちとを遠ざけるためにあるのか。
否。聖書はどの話も、神さまに遠い私たちを少しでも近づけるために書かれている。それが「福音」=「良き訪れ」です。今日のような「神を愛し、隣人を愛する」というみ言葉も「出来ない私」に帰結、自己完結するのではなく、「出来ない私を助けて下さる神さま」に思いを向ける。そのような信仰を目指したいものです。一方で今日の聖書に登場する「律法学者」は、何と「神を愛し、隣人を愛する」ことを「出来ている」と思っていました。
今日の聖書では「掟」の価値が問われています。申命記を見ますと、戒め→掟→法という順序がありますが、「掟」とは、十戒を含む旧約聖書の初めの5書と理解出来るでしょう。例えば「憲法」で大事なのは何条と聞かれても、答えは個々人の感性と信条に委ねられますし、そもそも答えの出る問いではありません。いわば律法学者は「答えの出ない問い」「答えが無限にある問い」を発して、主を困らせようとしていることは明らかです。対する主は、実に穏当に「十戒」の要約を答えます。これは、律法学者への答えです。
「神を愛し、隣人を愛する」このことを、主は私たちに求めることはありません。「愛しているか」という問いを受ければ、私たちは自信を無くします。でも、私たちは皆、それぞれの場所で実はこれらを実行している者なのです。別箇所ですが、マタイ福音書の記載に有る通りです。「誰かに親切にしたでしょう」。「親切にできなかった」ことにも気持ちが陥るかもしれません。しかし「私たちの賜物が、私たちの存在が、生きていることが」喜びの源と神さまはお考えです。私の隣人は皆さんと世界です。皆さんの隣人も然り。