2018年7月29日日曜日

7/28.29 朝の厚狭と徳山献花

  7/28の朝、厚狭教会で講壇奉仕をいたしました。
 予定されていた「西中国地区講壇交換」は、この日のみの実施でした。
  7/29の徳山献花です。この時間帯の雨はありません。.
厚狭教会は、先般屋根の吹き替え工事をいたしました。きれいになった
 屋根が、青空に映えています。(電線が少々、きになります)

1 本日の礼拝には、Kさん、Nさん、Mさんから欠席の連絡を頂いていました。
 また先週来られたTさんが今日も礼拝に集われました。

2 台風12号の接近にも関わらず、今日も大勢の方が礼拝に集われました。
 「みなさん筋金入りね」と、ある方が言われていた言葉を誇らしく思います。
 しかしその方も風雨の中をこられました。あなたさまも「筋金入り」だと思います。

3 連日の暑さのためか、お疲れを抱かれている方もおられます。
 それらの方々のお疲れが癒えますように。


今週、来週ともに礼拝、集会は以下の日程で行われます。

7/31 火曜日 牧師 呉の被災地で奉仕

8/2 木曜日 牧師 倉敷の被災地で奉仕予定

8/4 土曜日 13時 益田市小浜礼拝 しばらくの間休会といたします。 
        14時 益田教会礼拝 
        19時 六日市礼拝

8/5  日曜日   11時00分 益田合同礼拝



来週は、島根県益田市でのシオン教会合同礼拝となります。
徳山での礼拝はありませんので、ご留意ください。

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

本日の礼拝説教要約は以下のとおりです。



【マルコ福音書52143節】※水原牧師によるもの

ヤイロの娘を癒しに行かれる途上で、主ご自身のお着物に触れて癒された女性を、主は探しておられます。いわば緊急事態で、急行されているのに、なぜ主は時間を取るようなことをなさるか。それは、ご自身を必要とする者の「これまで」を知りたいがためなのです。背景は、既に開示されていますが「12年患い、医者に苦しめられる、全財産を喪失、悪化」でした。主は、その状況を女性の言葉で知ることをお望みだったのです。

 

「主が共にいる」とは、教会内で語られる言葉です。その主は、私たちのこれまでの労苦を知ることを望み、今とこれからの日々、共に居られる方なのです、その主の姿は、癒された女性にも希望を与え、そしてヤイロとヤイロの娘にも向かうのです。ヤイロの家からの知らせは、娘の死を告げるものでした。愛する家族の死、しかも年若い者の死。父親の気持ちは察するに余りあるものがあります。しかし主は、その家の前に止まる。

 

家の外に「泣き悲しむ」人々がいました。家族なら「家の中」です。「家の外」に居ることは、つまり「泣くことを義務化されている」人々です。エレミヤ916にはその記載がありますが、「泣き人(女)」の声が響いていたのです。心からの悲しみではなかったので、主のお言葉に対して「あざ笑う」という対応がなされたのです。主は、愛する者を無くした者に対して、心から寄り添って下さるお方です。だから、家に入り、娘への言葉かけをなされます。上辺の悲しみでなく、心底の悲しみを主は抱かれます。

 


主は「共におられる」ことを、今日の聖書で二人の女性を通して教えて下さいました。癒され、起き上がった二人の女性の行き先は、それぞれの日常生活でした。「起き上がった」のは、ヤイロの娘や患いの女性だけではありません。私たちも、かつて起き上がり、今日も主のみ手が私たちの手元に伸びています。過ぎた1週間の出来事を祈りと黙祷とによって主に告げ、共に居られる主と連なる週日を確信しましょう。私たちも、誰かに手を伸ばしたい。私たちが伸ばす手は、主のみ手でもあるのですから。



2018年7月27日金曜日

7/26 益田教会でのスズメハチ退治

  益田教会の外の壁の「空気穴」に、スズメバチが巣くっているのを
 発見しました。教会の上には幼稚園があり、幼稚園生の通り道でもありますし、
 階段を通る教会員もおられます。
  速やかな対処をと思い、7/26に除去作業を業者の方にして頂きました。
「もう大丈夫でしょう」と業者の言葉をいただきました。

2018年7月25日水曜日

7/21.22 礼拝と献花

7/22 の徳山礼拝献花です。
皆さんが帰られたあとの礼拝堂で一人、写真を撮っていると、
静けさの中で落ち着く心が示されます。

1 本日の礼拝には、K家の方々、Kさん、Oさん、Nさん、Kさんから欠席の連絡を頂きました。また近隣にお住まいのTさんが「5年ぶりくらいに」礼拝に集われました。




2 「西日本豪雨災害」以降、六日市ではこの7/21 始めて「夕立」の雨が降りました。
 少しの雨ならば、地面を潤すことになるのでしょうが…。


3 連日の暑さのためか、お疲れを抱かれている方もおられます。
 それらの方々のお疲れが癒えますように。


今週、来週ともに礼拝、集会は以下の日程で行われます。


7/21 土曜日 13時 益田市小浜礼拝 この日は休会といたします。 
        14時 益田教会礼拝 この日は休会といたします。
        19時 六日市礼拝
7/22  日曜日   10時45分 徳山礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

本日の礼拝説教要約は以下のとおりです。




【マルコ福音書435-41節】
 ガリラヤ湖という湖は、海抜マイナス213m、東西を高地に挟まれた、いわゆる盆地に位置してます。朝晩は高地からの風が海面を吹き付け、嵐の状態になるとのことです。その情報は主も、弟子たちのうち漁師出身の4名にも、知られ体験済みのことでしょう。ただ、残りの8人はそのことを知っていたか。「知っていた」かもしれませんが「体験した」ことは無かったのではないかと思います。その8人が嵐に遭遇するのです。

 当時の船は78人乗り。小舟に分類されます。「激しい突風、船が波をかぶって水浸しになった」とは、文字通り命の危険を感じる状況です。主と4人の漁師出身者には、ごく当たり前の光景かもしれません。だからこそ主は「艫(船の後ろの部分)で枕して寝られていた」のです。が、その8人にとっては初めての嵐。動揺が4人の漁師出身者にもうつり、かくして「先生、私たちがおぼれてもかまないのですか」という言葉となるのです。誰かは不明ですが、弟子たちは主を起こして、嵐と水への対処を願うのです。

 「黙れ、静まれ」と主は「風と湖に」お叱りになられます。ただ主の本当の言葉の対象は何か、はっきりと言えば誰か。風や湖は別に、主や弟子たちを苦しめようと思って吹き荒れたわけでなく、ただの日課です。主もガリラヤ湖の日課のことはご存じです。むしろ「黙れ、静まれ」の言葉は弟子たちに向けられたのではないか。周囲の状況に、加えて動転する隣人の状況に、自身も慌ててしまうの彼らに、主は「黙れ、静まれ」という言葉と共に「共にある安心」「大丈夫だよ」という事柄をそのお姿で示されるのです。

 「慌ててはいけない」「動転してはいけない」ということではありません。昨今の事象や自身の周囲の状況に、私たちもまた「おぼれそう」になるのです。「苦しいことを苦しいと言えない」「辛いことを辛いと言えない」世の中で生きる私たちに、主は「黙れ、静まれ」心静かに気持ちを落ち着ける誘いをくださいます。「黙し、祈る」その中で、今の私たちに為し得る事柄が必ず示されるのです。聖書は私たちに、そう語り掛けます。
 


2018年7月15日日曜日

7/14.15 海と献花と礼拝

  宮島を通り過ぎてきました。
 7/13 海路で宮島を通って呉の被災地に入りました。

  7/15 の礼拝献花です。
あさがおの花。

聖霊降臨後第8主日の今日、教会の礼拝ではこういうことがありました。

1 本日の礼拝には、Fさん、Tさん、Kさんから欠席の連絡を頂きました。礼拝前に電話を取りずらかったため、他にも電話を為さった方がおられるかもしれません。


今週、来週ともに礼拝、集会は以下の日程で行われます。

7/16 月曜日 牧師 呉の被災地入り
7/17 火曜日 11時 牧師 柳井出張
       15時 聖書の学び (予定)

7/21 土曜日 13時 益田市小浜礼拝 
        14時 益田教会礼拝
        19時 六日市礼拝
7/22  日曜日   10時45分 徳山礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

本日の礼拝説教要約は以下のとおりです。


【マルコ福音書426-34節】
 私たちはこの日「種のたとえ」と直面しています。読む側としては意表を突かれます。なぜイエスさまが種の話を為さるか。このマルコ福音書4章全体は「種の例え話」となっています。ただ肝心の意味については「弟子たちに密かに全てを説明された(34)」とあるように、弟子たちには細かいことを説明されたのです。ただ「密か」過ぎて、弟子たちは後代にその意味を伝えなかったのです。特に26-29節の話は、参考となる他福音書の記載もありません。

 だからこそ私たちは、この話を色々と考える余地が残されているのです。「たとえ話」ですから、例えているものが何かを考えるだけで、考え方が違ってきます。「人が畑に種をまく」とはどういうことか。一つは「神さまがこの世にイエスさまを与えて下さった」と考えることが出来ます。撒かれた種であるイエスさまは、成長された後「鎌を入れられる」十字架におかかりになります。しかし続きの例え話で「空の鳥が巣を作る」休み場を求めていた私たちに、休み場である教会を復活の出来事を通して与えて下さったと考えられます。

 もう一つは「撒かれた種は私たち」という考えです。「神さまがこの世に私たちを生まれさせてくださった」ことから話の解釈が始まります。初めは一粒の小さな種だった私たち。しかし徐々に成長する。そしてこの世での働きの終わりと認めれば、神さまは私たちに収穫の鎌を当てる。加えて、後半の話です。初めは小さく、成長させて下さる方に頼るだけだったものが、やがて誰かの「頼みの綱」となることが出来る。これが成長の希望です。


 どの話でも共通するのは、「種まく人は神さま」ということです。私たちは、今の自分の境遇に疑問を持つ。「なぜ自分がこんな状況にあるのか」「どうして自分だけがこうなのか」。自分の植えられた場所、置かれた状況を疑問に思う。しかし種まく神さまは、その状況を通して、私たちを成長させて下さるのです。今は、疑問や悲しみ、苦しみが私たちの心を覆うかもしれません。でも、「成長させて下さる神さま」は、育てた私たちにいずれ誰かが宿るよう、強さを与えて下さるのです。今はただ、傍にあるイエスさまを頼りに。