7/13 海路で宮島を通って呉の被災地に入りました。
7/15 の礼拝献花です。
あさがおの花。
聖霊降臨後第8主日の今日、教会の礼拝ではこういうことがありました。
1 本日の礼拝には、Fさん、Tさん、Kさんから欠席の連絡を頂きました。礼拝前に電話を取りずらかったため、他にも電話を為さった方がおられるかもしれません。
今週、来週ともに礼拝、集会は以下の日程で行われます。
7/16 月曜日 牧師 呉の被災地入り
7/17 火曜日 11時 牧師 柳井出張
15時 聖書の学び (予定)
7/21 土曜日 13時 益田市小浜礼拝
14時 益田教会礼拝
19時 六日市礼拝
7/22 日曜日 10時45分 徳山礼拝
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
本日の礼拝説教要約は以下のとおりです。
【マルコ福音書4章26-34節】
私たちはこの日「種のたとえ」と直面しています。読む側としては意表を突かれます。なぜイエスさまが種の話を為さるか。このマルコ福音書4章全体は「種の例え話」となっています。ただ肝心の意味については「弟子たちに密かに全てを説明された(34)」とあるように、弟子たちには細かいことを説明されたのです。ただ「密か」過ぎて、弟子たちは後代にその意味を伝えなかったのです。特に26-29節の話は、参考となる他福音書の記載もありません。
だからこそ私たちは、この話を色々と考える余地が残されているのです。「たとえ話」ですから、例えているものが何かを考えるだけで、考え方が違ってきます。「人が畑に種をまく」とはどういうことか。一つは「神さまがこの世にイエスさまを与えて下さった」と考えることが出来ます。撒かれた種であるイエスさまは、成長された後「鎌を入れられる」十字架におかかりになります。しかし続きの例え話で「空の鳥が巣を作る」休み場を求めていた私たちに、休み場である教会を復活の出来事を通して与えて下さったと考えられます。
もう一つは「撒かれた種は私たち」という考えです。「神さまがこの世に私たちを生まれさせてくださった」ことから話の解釈が始まります。初めは一粒の小さな種だった私たち。しかし徐々に成長する。そしてこの世での働きの終わりと認めれば、神さまは私たちに収穫の鎌を当てる。加えて、後半の話です。初めは小さく、成長させて下さる方に頼るだけだったものが、やがて誰かの「頼みの綱」となることが出来る。これが成長の希望です。
どの話でも共通するのは、「種まく人は神さま」ということです。私たちは、今の自分の境遇に疑問を持つ。「なぜ自分がこんな状況にあるのか」「どうして自分だけがこうなのか」。自分の植えられた場所、置かれた状況を疑問に思う。しかし種まく神さまは、その状況を通して、私たちを成長させて下さるのです。今は、疑問や悲しみ、苦しみが私たちの心を覆うかもしれません。でも、「成長させて下さる神さま」は、育てた私たちにいずれ誰かが宿るよう、強さを与えて下さるのです。今はただ、傍にあるイエスさまを頼りに。