2020年10月25日日曜日

10/24.25.28 宗教改革主日の礼拝

 宗教改革を覚えての礼拝が、1024.25.28にそれぞれのチャペルで執り行われます。

赤の典礼色でした。

 
今週、来週の礼拝は下記の通りです。

10/28 水曜日 19時 六日市C礼拝

10/30 金曜日 14時  聖書を学ぶ会
 
10/31 土曜日 15時 柳井C礼拝 

11/1 日曜日 10時45分 徳山C礼拝 
       15時半  防府C礼拝
 
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
 
 

 説教           「ドチリナ・キリシタン」(キリスト教の教え)  

マタイによる福音書 22: 3440 (新約44ページ)

マルティン・ルターの「宗教改革(1517)」は、教会全体を刺激しました。カトリック教会では、ザビエルらが1534年に「イエズス会」を結成、日本伝道(1549年)に繋げます。彼らは「どちりな・きりしたん(Doctrina Christa)」という、キリスト教の解説書を日本向けに執筆しました。中に「神の御大切」という言葉がある。宣教師たちは「神の愛」を「神さまの御大切」と翻訳したのです。「神の愛」とは「大切な存在」と見られることです。

 

今日の聖書の直前で主が、サドカイ派と呼ばれる「金満体質宗教家」と論争し、「負かせ」たことが読めます(34)。そのことに我慢ならないファリサイ派が、「主を試す(35)」のです。「大事なことは何か」と。「律法」とは、狭義では旧約の初めの五書(「モーセ五書」)、広義では旧約聖書全体、もっと広く言えばその解説書も含めた大部の書となります。そのような大冊の中で、「何が一番大切か」という問いは、答えにくい問いと言えます。

 

ファリサイ派の「律法の専門家」の意図は、主の名誉失墜、サドカイ派の名誉回復、そして自分たちの評価を高くすることにあったことは明白です。そのような思惑が、主に知られないはずがありません。主の答えは旧約聖書の申命記とレビ記からの引用となります。「神を愛する」「隣人を愛する」ことが聖書の中で大事な事なのだと。ファリサイ派は納得したでしょうが、彼らに難しいことでしょう。では私たちには、その「愛」はいかがでしょうか。

 

「神を愛し、隣人を愛する」それは、若かりし日のルターにも難問でした。ルターにとって神さまは、当初は「怒りと罰の神」だったのです。しかしある時気付くのです。神さまは、御子を通してこの世に愛を示されたことに。その原点から、ルターの改革行動が始まったのです。聖書で主は確かに、「神さまと隣人への愛」を告げます。が、その前提は「神さまは、私たちを大切な存在と見られる」ことなのです。「あなたは値高い(イザヤ43章)のです。

2020年10月18日日曜日

10/17.18.21 礼拝と教会礼拝堂

 

こちらは、六日市礼拝で用いられている十字架です。

こちらはこの時期のお花の集合。もみじ、ヒガンバナ。

徳山チャペルとなります。

今週、来週の礼拝は下記の通りです。

10/20 火曜日 15時 牧師出張

10/21 水曜日 19時 六日市C礼拝

10/23 金曜日 休会  聖書を学ぶ会
 
10/24 土曜日 15時 柳井C礼拝 

10/25 日曜日 10時45分 徳山C礼拝 
       15時半  防府C礼拝
 
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
 

 説教              「あなたのものは、神のもの」  

マタイによる福音書 22: 1522 (新約43ページ)

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい(21)」の言葉が、聖書にある「納税議論」を終わらせた言葉となります。この言葉の契機となった「銀貨」に主の知恵があるのですが、それは後程。「皇帝のものは皇帝に=税はおさめよう」は分かりますが、「神のものは神に」とは、① 主のお気持ちの中では何を意味するのか。そして② 私たちの脈絡の中では、「神のもの」とは何を現すのか。この日は、その二つに絞ってみ言葉を聞きたい。

 

それで全体的なことから。今日の聖書も冒頭からキナ臭さが漂いますね。「言葉尻を捕える、罠にかける(15)」という表現、「ファリサイ派とヘロデ派の協働(16)」という箇所です。仕向けられた納税議論も、「納税が是」と言うならばヘロデ派は喜び、「納税が非」というならばファリサイ派が喜ぶ。主の返答次第で、主の今後が既に規定される質問、「言葉尻」を捕える質問なのです。対する主が「銀貨を提供させる(19)」これは妙手です。

 

① 「皇帝のものは皇帝に」の返答は、まずヘロデ派の矛を抑えました。そして「銀貨」こそが問題でした。ここは神殿の境内。そこにあってはならないものが、「皇帝の像と銘が刻まれた銀貨」でした。「ファリサイ派の弟子(16)」だからかもしれません。「金を見せなさい(19)」との主の言葉に「無理です、ここは神殿です」と答えるべきだったのに、彼らは「悪意に気付かれた主」の掌の上にあったのです。だから彼らは「立ち去った(22)」のです。

 

いかがでしょうか。主を貶めようとした彼らが逆に「墓穴を掘った」のです。神の神殿を恣意的に用いず、神の思いを正しく聞く。それが「神のものは神に」の意図する所です、そしてこの日の聖書で向かい合っていた人々の思いを主は全てご存じだった。このことが② に結び付くと理解します。私たちは「神の作品(エフェソ210)」であることを誇りたい。生の過程の葛藤は私たちだけが担うものでない。「神のもの」だから、委ねつつ、生きたい。