2016年8月14日日曜日

8/14 礼拝と益田の海

 先週は益田合同礼拝でした。
 今週は徳山、柳井、防府で礼拝が行われました。

写真は益田の海。透明感あふれる海です。
タコが泳いでいました。
同じく益田の海。イカが泳いでいました。
だからどうだということではなく、珍しかったのです。

本日、徳山は、富浦信幸牧師による説教、司式は水原でした。

 来週も、礼拝は以下の日程で行われます。
 
 いずれの集会も、どなたさまもご自由にいらして頂けます。

 8/21(日)徳山10:45~
       柳井10:30~ 
        防府15:30~



 
 本日の礼拝説教要旨です。


【ルカ福音書12章49-53節】
福音書後半部分の主の言葉は、内容は不穏ですが直接の主の言葉ではありません。旧約ミカ書からの引用です。ミカ書の時代は、社会全体が混乱の時代でした。主の時代も同様です。混乱の時代に平和なみ言葉を贈るのなら分かるが、なぜ不穏なみ言葉を主は引用なさるか。「家庭内分裂」がミカ書ですが、なぜ主がこの個所を引用されたのか。注意したい

まず主は「地上」の分裂と言います。「地上」に注意です。当時、ローマ帝国では皇帝は国民全体の父、皇帝の母は国民全体の母と理解することを求めていました。ミカ書を主が引用した心は、父母でないものを父母と呼ぶ過ちの関係の清算です。また福音書執筆の少し前。過干渉な母親に育てられた皇帝ネロがいました。彼は妻を実母の唆しで殺害したのです。世界史では「平和」な時代ですが、内実は主が引用するミカ書の預言の語る通りだったのです

聖書に精通する主は、現在の世情をミカ書の預言に合致するものとみて引用したのです。だから聖書は、家庭の中での騒乱でなく地上の騒乱を指摘し、人を神とするでなく、神を神とする大切さを述べる主の意図で溢れています。「対立して別れる」とは、偽りの神と対峙し、眞の神へと結び合わせる意味です。眞の神を神とするとき、当時は世からの非難がありました。主のみがその非難を受けたのです。十字架へのお気持ちを固められます。

主を信じる信仰が騒乱や物議になることはあります。お墓や法事や近しい人との関わりなどです。それら一つ一つには必ず答えが示されます。人は時に誤ります。私たちも過ちを犯します。だが主は平和を求めます。眞の神を、わたしの神さま、私たちの神さまとして仰ぐとき、必ずそこに答えが示されることになります。時には主のみを仰ぎ得ない時もあるでしょう。そのとき、主は私たちを火、即ち光をもって導くのです。感謝です。