2026年8月25日火曜日

8/19錦川? 8/22柳井、8/23防府、8/24徳山

 

8/22(土)柳井チャペル。

残暑は容赦なく照り付けていますが、

朝と晩、何とはなくと、秋の風。

8/19(水)これは、六日市に行く途中、「道の駅 にしき」から撮った錦川。

すばらしい透明度。


8/24(月)朝の徳山チャペル。

8/23(日)防府チャペル。

今週木曜日に手術をお受けになる方への祈りが、礼拝において行われました。


今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


8/26 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝 

8/29 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝 

8/30 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル 礼拝

       15時30分 防府チャペル 礼拝

9/2 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝 

9/5 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

9/6 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

8/23(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 

聖霊降臨後第13主日 説教 

マタイ福音書1613-20節 「揺らぐ弟子と揺るがぬ主」

水原一郎

 主イエスはフィリポ・カイサリア地方で弟子たちに問われました。「人々は人の子を何者だと言っているか。」さまざまな評価が集まります。預言者、偉大な教師、宗教的改革者。しかし主は問いを鋭く絞られます。「では、あなたがたは、わたしを誰だと言うか。」これは知識の問題ではありません。「主イエスはあなたに何をして下さったか」「あなたにとって主イエスは何者か」、という問いです。思い出せるのは、主イエスを通して出会った人々でしょうか。良い出会い、嬉しい出来事、忘れ難い思い出。いわゆる「良い思い出」が浮かぶ一方で、同時に心には「失敗や挫折」も思い出されます。

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 聖書に戻ります。ペトロは答えます。「あなたはメシア(救い主)、生ける神の子です。」この告白は、ペトロが口にした言葉です。確かにマタイ16章に至るまで、ペトロが目の当たりにしてきた主イエスの姿を通して「メシア」と告白するに至ったのでしょう。「出来事や経験を通して、主イエスは人を育みます」。一方で主イエスは言われます。「あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と。出来事や経験は、神の賜物であるのです。ただ、今日の聖書箇所の直後21-28節(22節)では、ペトロはその主イエスに対して、敵対する言葉を語ります。

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 ですからこの直後、主イエスは宣言されます。「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに勝てない。」ここで主イエスが「この岩」と言っているのは、ペトロの名前の「岩」を念頭に置いていると言えます。ただし、名前が「岩」でも、またあだ名を名付けたのが主イエスであっても、ペトロの生き方は「岩」か。ペトロは確かに「神の啓示」によって、主イエスとの出会いの経験によって「あなたはメシア」と告白しました。だからと言って、ペトロの中から「あやまち」「失敗や挫折」が消えることはないのです。岩と呼ばれたペトロは今後、不動の揺るがない存在になったわけではありません。それでも、揺らぐペトロの上に「私は私の教会を立てる」と言われた主イエスの思いを聴くのです。そこで「良きも失敗」ということが大切です。

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 初めに触れた私たちの現実を思い出します。「あなたにとってキリストは何者か」良い出会い、忘れ難い思い出が心に過ります。一方で、困難な失敗、挫折。それが私たちにもあります。このペトロも弟子たちも、「挫折の経験」に直面します。あの十字架の時に、主イエスを信じていつつも、自分の本心、本能、「罪」に従うことになるのです。しかし主は、そのような不完全な弟子たちを見捨てず、十字架への道を進まれました。私たちの歩みには、善きことだけでなく、失敗や挫折もあります。しかし主イエスは、そのような私たちを見捨てません。主は、良い出来事を通して私たちを喜ばせ、また失敗や挫折の中でも、立ち上がって歩む力を与えてくださいます。だから私たちは、人生を振り返る時、その全てを主の御手の中で思い起こすことができるのです。

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 今日、主は再び問われます。「あなたはわたしを誰と言うか。」私たちは自分の痛みを抱えたまま答えます。「あなたはキリスト、生ける神の子です。」「生ける」という言葉を使っていることが大切です。心が死に接する時、困難に直面する時、私たちの思いもまた、悲しみの中に置かれるものでしょう。しかしキリストは、そのような現実の中でなおも私たちを「生きて」導くのです。「私たちがキリストを拒んでも、キリストは私たちを否むことはない」私たちは、キリストの勝利の強さに支えられる群れなのです。




2026年8月18日火曜日

8/15柳井、8/16徳山、防府

 

 8/18(火)徳山礼拝所の朝。

 長かった夏休み(ただし、子どもたちのみ)もようやく後半。

 ラストスパートです(ただし、大人と子ども含む)。

 8/16(日)防府礼拝所の献花。

 鉢植えのかわいらしいお花です。


 8/15(土)柳井礼拝所の献花と礼拝堂。

 礼拝前には、水路の小魚を獲りました。

 

 今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


8/19 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝 

8/22 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝 

8/23 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル 礼拝

       15時30分 防府チャペル 礼拝

8/26 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝 

8/29 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

8/30 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

8/16(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 

聖霊降臨後第12主日 説教 

マタイ福音書1521-28節 「外にいる者への恵み」

水原一郎

 主イエスはティルスとシドンの地方へ退かれました。そこはイスラエルの外、異邦の地です。約束の民の中心から離れた場所で、一人のカナン人の女が叫びます。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」彼女は民族的にも宗教的にも外部の人間と見なされていました。しかも彼女の娘は「悪霊に苦しめられている」と受け止めていました。つまり彼女には、ユダヤの枠組みの中では、「ラビ」と見なされた主イエスと語る資格も、また背景もありません。ただし、切実な求めだけがあるのです。ここに、神さまの前に立つ私たちの姿があります。神に差し出せる功績を持たず、ただ憐れみを求めるしかない存在としての姿です。彼女もまた、主イエスの前に立っています。

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 しかし主は答えられませんでした。沈黙です。さらに弟子たちは「叫び続けていますから、追い払ってください」と言います。主は続けて言われます。「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない。」これは慰めではありません。旧約聖書の世界観に基づく、救いの順番と見なされたものです。神の約束はまずイスラエルへ向かう。その枠の外に彼女はいると言うのです。私たちもまた、神の沈黙を経験することがあります。「神の沈黙」の意味を悟ることは難しいのです。ただ彼女の姿勢に、その受け止め方を見出せます。「なお神に向かう」のです。退かないのです。ひれ伏して言います。「主よ、お助けください。」信仰とは、憐れみを求める心です。

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 主イエスは、「子どもたちのパンを取って、小犬たちに投げるのはよくない」と言われます。ここには、イスラエルにまず与えられる恵みの順序が示されています。しかし主イエスは、彼女を食卓から完全に追い出す言葉として「小犬」という言葉を用いているのではありません。むしろ彼女は、その言葉の中に残された小さな場所を見いだします。「主よ、その通りです。しかし、小犬たちも主人の食卓から落ちるパン屑をいただきます。」彼女は主イエスの恵みを、自分には関係ないものと受け止めなかったのです。むしろ、食卓の下にいる小犬にも届くものであると。彼女は、神さまの恵みが一か所、一民族に閉じ込められるものではないことを、思いがけない仕方で示したのです。」

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 すると主は言われます。「あなたの信仰は立派だ。その願いどおりになるように。」ここで称賛されているのは精神的な強さではありません。彼女の信仰は、自分を持ち上げたことではなく、主の憐れみから離れなかったことにあります。恵みは境界を越えました。イスラエルから異邦へ、内側から外側へ。これは偶然の例外ではありません。やがて主イエスの十字架において完全に現れる出来事の前触れです。キリストはゴルゴダの門の外で十字架につけられ、外に追いやられました。その主イエスによって、外にいる「異邦人」を始めとする全ての者が、神さまの懐に迎え入れられるのです。恵みは内側に閉じ込められません。キリストご自身が境界を破られるからです。

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 私たちもまた、誇れる信仰を持つ者ではありません。祈りがすぐに聞かれる保証もありません。その私たちに、カナンの女性が示すのは「主イエスから離れない」という姿勢でした。むしろ、主イエスがカナンの地方に来られたという姿です。礼拝とは、自分が神さまのみ前に相応しいかどうかを確かめるものではありません。自分ではどうにもならない私たちの所に、主イエスが来られることを覚えるものなのです。私たちを生かすのは、さ迷う私たちに届く主イエスの恵み。支えられて、今日を生きるのです。






2026年8月4日火曜日

7/29 六日市ペチュニア 8/1柳井、8/2徳山、防府

 

 8/2(日)防府礼拝所。平和礼拝ですが、典礼色は緑として行いました。
 8/2(日)徳山礼拝所。朝の光が礼拝堂に届いています。
 8/1(土)柳井礼拝所。平和礼拝の赤。しかし牧師はストールを忘れました…。

 献花が赤なのが、何よりの救い。

 3Dプリンターでここまでのものができるようです。

 時代は進みます。

 しかし3Dプリンターでは作れない花。

 こちらは7/29(水)六日市礼拝で、教会員の方がお捧げ下さったペチュニア。

 珍しい色合いのものです。


今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


8/5 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝 家庭礼拝となりました。

8/8 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝 

8/9 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル 礼拝

       15時30分 防府チャペル 礼拝

8/12 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝 この日も、家庭礼拝となりました。 

8/15 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

8/16 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

8/2(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 


聖霊降臨後第10主日 説教 

マタイ福音書1413-21節 「まず受けている者として」

水原一郎

 主イエスは群衆を見て、深く憐れまれました。彼らは病を抱え、疲れを抱え、それでも主のもとへ集まって来ました。主の言葉を聞き、病を癒して欲しい。その思いで夢中になっているうちに、気が付けば夕暮れ。食べ物のことまで考える余裕はありませんでした。私たちにも似た経験があります。大切な家族の病気や問題に心を奪われ、気が付けば食事も後回しになっていた。人生には、自分の力だけではどうにもならない出来事があります。群衆は決して立派な信仰者として描かれているのではありません。欠乏を抱えた人々です。しかし主は、その欠乏を責められませんでした。福音はここから始まります。整った者への報酬ではなく、空腹の者への憐れみから始まるのです。

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 夕暮れが迫り、弟子たちは進言します。「ここは寂しい、もう時刻も遅い。群衆を解散させてください。」常識的な提案でした。しかし主は言われます。「あなたがたが、彼らに食べる物を与えなさい。」弟子たちは五つのパンと二匹の魚を見つめます。そして足りなさを計算します。私たちも同じではないでしょうか。私たちは家計から将来を考え、健康から老後を考えます。私たちは計算し、まず不足を見つめます。しかし主は、弟子たちの計算を越え働かれます。この言葉は、弟子たちが養う側ではなく、養われる側であることを教えるための言葉だったのです。

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 群衆もまた、自ら状況を改善することはできません。ただ主の前に座り、受け取るだけです。ここに信仰の逆説があります。私たちは何かを成し遂げることによって救われるのではありません。まず受け取る者なのです。そして出来事の主語は一貫して主イエスです。主はパンを取り、天を仰ぎ、祝福し、裂き、弟子たちに与えられました。弟子たちは配っただけです。奇跡を起こしたのは人間の勇気でも知恵でもありません。主の憐れみと権威です。福音とは、人間の小さな善意が大きくなることではありません。人間の無力が明らかにされたその所で、神ご自身が働かれるという知らせなのです。

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 そして「すべての者が食べて満腹した」と記されています。そして十二の籠に余りが集められました。神の国は、ようやく足りる世界ではありません。余りが生まれるほどに、主の養いが豊かな世界なのです。荒れ野でイスラエルを養うためにマナを与えられた神が、今ここで御子を通して民を養います。神は昔だけ養われたのではありません。今も養う方です。そしてこの出来事は、やがて完成する神の国の宴を指し示しています。人間の世界では、足りなければ削るしかありません。しかし神の国では、分かたれることによって、祝福と豊かさが広がります。教会もまた、この主の豊かさによって生かされています。私たちが主を支えるのではなく、主が私たちを支えるのです。

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 この物語は、私たちに「何を差し出せるか」を問い詰める前に、「誰が満たすのか」を示しています。私たちはまず受ける者です。礼拝も、主から養いを受ける場です。主はパンを取り、祝福し、裂き、与えられました。この姿は、私たちが聖餐のたびに見る姿でもあります。そしてその養いの源は、十字架でご自身を裂かれたキリストにあります。私たちは養われた者として、この世へ遣わされます。しかし世界を救うのは私たちの働きではありません。主の豊かさです。私たちは豊かさを受け取り、分かち合う者として遣わされるのです。荒れ野で民を満たされた主は、今も私たちを養います。