2026年8月4日火曜日

7/29 六日市ペチュニア 8/1柳井、8/2徳山、防府

 

 8/2(日)防府礼拝所。平和礼拝ですが、典礼色は緑として行いました。
 8/2(日)徳山礼拝所。朝の光が礼拝堂に届いています。
 8/1(土)柳井礼拝所。平和礼拝の赤。しかし牧師はストールを忘れました…。

 献花が赤なのが、何よりの救い。

 3Dプリンターでここまでのものができるようです。

 時代は進みます。

 しかし3Dプリンターでは作れない花。

 こちらは7/29(水)六日市礼拝で、教会員の方がお捧げ下さったペチュニア。

 珍しい色合いのものです。


今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


8/5 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝 家庭礼拝となりました。

8/8 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝 

8/9 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル 礼拝

       15時30分 防府チャペル 礼拝

8/12 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝 この日も、家庭礼拝となりました。 

8/15 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

8/16 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

8/2(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 


聖霊降臨後第10主日 説教 

マタイ福音書1413-21節 「まず受けている者として」

水原一郎

 主イエスは群衆を見て、深く憐れまれました。彼らは病を抱え、疲れを抱え、それでも主のもとへ集まって来ました。主の言葉を聞き、病を癒して欲しい。その思いで夢中になっているうちに、気が付けば夕暮れ。食べ物のことまで考える余裕はありませんでした。私たちにも似た経験があります。大切な家族の病気や問題に心を奪われ、気が付けば食事も後回しになっていた。人生には、自分の力だけではどうにもならない出来事があります。群衆は決して立派な信仰者として描かれているのではありません。欠乏を抱えた人々です。しかし主は、その欠乏を責められませんでした。福音はここから始まります。整った者への報酬ではなく、空腹の者への憐れみから始まるのです。

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 夕暮れが迫り、弟子たちは進言します。「ここは寂しい、もう時刻も遅い。群衆を解散させてください。」常識的な提案でした。しかし主は言われます。「あなたがたが、彼らに食べる物を与えなさい。」弟子たちは五つのパンと二匹の魚を見つめます。そして足りなさを計算します。私たちも同じではないでしょうか。私たちは家計から将来を考え、健康から老後を考えます。私たちは計算し、まず不足を見つめます。しかし主は、弟子たちの計算を越え働かれます。この言葉は、弟子たちが養う側ではなく、養われる側であることを教えるための言葉だったのです。

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 群衆もまた、自ら状況を改善することはできません。ただ主の前に座り、受け取るだけです。ここに信仰の逆説があります。私たちは何かを成し遂げることによって救われるのではありません。まず受け取る者なのです。そして出来事の主語は一貫して主イエスです。主はパンを取り、天を仰ぎ、祝福し、裂き、弟子たちに与えられました。弟子たちは配っただけです。奇跡を起こしたのは人間の勇気でも知恵でもありません。主の憐れみと権威です。福音とは、人間の小さな善意が大きくなることではありません。人間の無力が明らかにされたその所で、神ご自身が働かれるという知らせなのです。

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 そして「すべての者が食べて満腹した」と記されています。そして十二の籠に余りが集められました。神の国は、ようやく足りる世界ではありません。余りが生まれるほどに、主の養いが豊かな世界なのです。荒れ野でイスラエルを養うためにマナを与えられた神が、今ここで御子を通して民を養います。神は昔だけ養われたのではありません。今も養う方です。そしてこの出来事は、やがて完成する神の国の宴を指し示しています。人間の世界では、足りなければ削るしかありません。しかし神の国では、分かたれることによって、祝福と豊かさが広がります。教会もまた、この主の豊かさによって生かされています。私たちが主を支えるのではなく、主が私たちを支えるのです。

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 この物語は、私たちに「何を差し出せるか」を問い詰める前に、「誰が満たすのか」を示しています。私たちはまず受ける者です。礼拝も、主から養いを受ける場です。主はパンを取り、祝福し、裂き、与えられました。この姿は、私たちが聖餐のたびに見る姿でもあります。そしてその養いの源は、十字架でご自身を裂かれたキリストにあります。私たちは養われた者として、この世へ遣わされます。しかし世界を救うのは私たちの働きではありません。主の豊かさです。私たちは豊かさを受け取り、分かち合う者として遣わされるのです。荒れ野で民を満たされた主は、今も私たちを養います。